ホンダ・河島元社長が死去〜功績から振り返る、「世界のホンダ」への波乱の軌跡

Business Journal / 2013年11月12日 6時0分

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 本田技研工業(ホンダ)の元社長で、日本の自動車メーカーとして初めて米国生産に乗り出した河島喜好氏が10月31日、肺炎のため85歳で死去。葬儀は近親者で営まれ、後日、ホンダ主催の「お別れの会」が開かれる。

 河島氏は浜松高等工業学校(現・静岡大工学部)卒業後に、1947年、本田技術研究所(現ホンダ)に入社。大卒相当の社員がいなかったことや「図面が引ける」という理由で本田宗一郎氏が採用を即決した。草創期のオートバイ「ドリームE型」に搭載された4ストロークエンジンの設計などに携わった。河島氏が引いた図面が気に入らないと、宗一郎氏は怒鳴り散らして破り捨て、スパナで殴ったこともあったという逸話が残る。

 大きなアドバルーンを上げて、その目標に向かって全力疾走するのが宗一郎流だ。1954年、二輪車のオリンピックといわれた「英マン島TTレース」への出場を宣言した際は「あのホンダが……」と業界から失笑を買ったが、61年に125ccなど2つのクラスで1~5位を独占する快挙を成し遂げ、世間を見返した。この時にレーシングチームの監督だったのが河島氏であり、「技術のホンダ」を世界に知らしめた。

 73年に宗一郎氏の指名で、45歳で2代目社長に就いた。82年には二輪車を海外展開したノウハウを生かし、日本の自動車メーカーとして初めて、米オハイオ州で主力セダン「アコード」の現地生産を開始。ホンダ世界進出のきっかけをつくった。83年まで10年にわたり社長を務め、売上高を就任前の5倍の2兆円に伸ばした。

●HY戦争

 河島氏が社長時代、ヤマハ発動機との「HY戦争」が勃発した。ホンダとヤマハは同じ浜松で誕生したという地縁の枠を超えて、トップ同士が深くつながっていた。

 ヤマハ発動機は1955年、日本楽器製造(現ヤマハ)のオートバイ部門を分離して川上源一氏が設立した。源一氏の父・嘉市氏は、戦時中に政府の方針で楽器工場を戦闘機用プロペラを製造する軍需工場に転換せざるを得なくなった。この時、「日本のエジソン」といわれた宗一郎氏を特別顧問として招き、プロペラを製作した。両者の関係は戦後も続き、プロペラ工場をオートバイの製造拠点に転換するよう助言したのが宗一郎氏だった。オートバイの販売が好調だったので、嘉市氏の後を継いだ源一氏はヤマハ発動機を設立した。

 宗一郎氏は73年、ホンダの社長に河島喜好氏を据えたが、源一氏は77年、ヤマハの社長に46歳の河島博氏を起用し、浜松を代表する企業のトップに河島兄弟が就いた。ホンダとヤマハは二輪車で競い合うライバルだ。のちに、このトップ人事が両社へ大きな影を落とすことになる。

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