失望の日弁連シンポジウム!救われない日本の認知症高齢者?−社会保障あれこれ vol.5

けあZine / 2014年12月1日 7時0分

認知症高齢者の鉄道事故の名古屋高裁判決に関して日弁連が開いたシンポジウムは、認知症高齢者が住み慣れた地域で安心して暮らせる社会をつくるという流れを踏まえているようでいて、実は逆行するともいうべき残念な内容であった。このシンポジウムの内容を紹介しながら、最高裁判決へ向けての期待を語る。

訴訟の推移とシンポジウムの概要

 10月31日、霞が関の弁護士会館で日弁連主催のシンポジウム“認知症高齢者が地域で暮らすために〜名古屋高裁判決を踏まえて〜”が開かれました。91歳で要介護4の認知症の夫が、85歳の妻(要介護1)が6〜7分まどろんだ隙に、ひとりで外出して最寄り駅から電車で隣の駅まで行った後、そのホームの先端から小用を足そうと線路に降り、電車に跳ねられて死亡したという事故をめぐる裁判です。

 JR東海は遺族に対し、振替輸送などの費用約720万円の損害賠償を請求し、名古屋地裁は妻と長男に全額の、名古屋高裁は妻のみに半額(約360万円)の賠償を命ずる判決を出しましたが、これを不服としてJR東海と遺族の双方が上告し、今、最高裁で審理が行われています。

 この高裁判決が報道されると、全国の介護関係者(家族や事業者)に強い衝撃を与えました。法曹界ではこの判決をどう受け止めているのでしょうか。最高裁で名古屋高裁判決が確定すると日本の認知症高齢者はどうなるのでしょうか。

 シンポジウムのプログラムは次のとおりでした。

 日弁連高齢者・障害者の権利に関する委員会委員長の熊田 均弁護士の開会挨拶と日弁連高齢者・障害者の権利に関する委員会委員の渡辺裕介弁護士による「監督義務者の責任〜シンポジウムの問題意識〜」に関する報告があった後、新潟大学法学部の上山 泰教授による「JR東海事件から認知症患者の損害賠償リスクを考える」と題する講演があり、それを受け、上山教授のほか医療法人実幸会いらはら診療所の和田忠志医師、認知症介護研究・研修センターの永田久美子研究部長、日本社会福祉士会成年後見委員会委員長の星野美子理事の4人によるパネルディスカッションが行われました。

 パネルディスカッションのコーディネーターは日弁連高齢者・障害者の権利に関する委員会委員の赤沼康弘弁護士でした。ここではメインの上山教授の講演とパネルディスカッションの内容についてご紹介します。

1.上山教授の講演


民法752条に基づき、妻を法定監督義務者に

 上山教授は、被害者(JR東海)への社会的批判の背景として 大会社=被害者vs一般家庭=加害者(側)

認知症高齢者の事案であり、同種事案の多発可能性=明日はわが身か?

家族側の事実上の結果責任により認知症高齢者らの家・施設への閉じ込めへ?



 の3点があるとし、判決内容に関しては、 1審で賠償責任が認められた長男の場合、積極的に介護に関わった者ほど損をすることになるのではないか。

1・2審の両方で賠償責任を認められた高齢で要介護1の妻にとって、見守り義務は過重な負担であり、加えて監督義務を怠ったという法的非難まで受けることが二重のショック(私は、このほか最愛の夫を電車に跳ねられて亡くしたという三重のショックであったと思います)となっている。



 と問題を指摘し、責任主体の不合理性への感覚的な疑問があると述べます。

 しかし、上山教授は加害者側からJR東海への損害移転については、1.JR東海の損失額が振替移送代+人件費=約720万円であるのに対し、2.認知症高齢者本人には5,000万円超の金融資産(+不動産)があったことから、遺産の一部で被害者の損害補填が可能であるとして、合理性があると判断しているようです。

 高裁は、妻は民法714条の法定監督義務者にあたるとして賠償責任を認めましたが、なぜ妻が法定監督義務者であるかという点については民法752条の夫婦の同居・協力・扶助義務を根拠に挙げました。従来の判例ではこの法定監督義務者の概念を拡張して“事実上の監督義務者”も包含する傾向がありましたが、高裁はその範囲の不確定性を避けて民法752条に基づき妻を法定監督義務者としたようです。

夫婦間の義務が対外的な関係に適用される違和感

 しかし、民法752条の義務はまさに夫婦間の義務(対内的協力義務)であり、法定監督義務のように対外的な関係における義務の根拠とは方向性が異なると上山教授は指摘します。

 にもかかわらず、高裁判決は法定監督義務者たる妻に対して、単独外出を防ぐため住宅とつながっていた事務所の来客を知らせるためのアラームを作動させるべきであったのにそれを怠り(注:大きいアラーム音を聞くと認知症高齢者が不穏になるのでスイッチを切ってあった)、ほんのわずかな間、まどろんだ隙(不知のうち)に夫の単独外出を許してしまったことは監督義務者としての義務を怠ったものであると、認知症介護の特性を無視した形式的な義務懈怠を論<あげつら>い、ほとんど無過失責任といってもいい責任を問うたのです。

 上山教授が、見守り義務の過重負担性を判決への感覚的な疑問として指摘するのも当然でしょう。しかも見守り義務を怠っていたと法的に非難までされるのはあんまりではないかというわけです(前述の二重のショック)。

“衡平責任”という考え方が提唱されたが…

 ここから、上山教授は解決の方向性として2つ方策を提示しています。1つは、認知症高齢者の責任能力を柔軟に幅広く認めて、その加害行為による損害賠償責任を肯定し、加害者死亡の場合は損害賠償責任を相続した者が賠償金を支払うというものです。それによれば、確かに遺族は自らの責任を問われて賠償金を支払うことにはなりません。

 ただし、認知症高齢者にも責任能力を認めるという法解釈には限界があり、仮にそれが認められた場合でも、当事者間で柔軟な解決を図るには“衡平責任”の考え方が必要であると上山教授は指摘します(“衡平責任”は基本的には立法論とされる)。

 もう1つの方策は、正面から民法を改正して“衡平責任”を立法化するとともに、損害保険制度や公的救済制度(cf.犯罪被害者給付金制度)を連動させるというものです。

 責任能力の範囲を大幅に拡張解釈するにしても、正面から民法に“衡平責任”の条文を追加するにしても、過失責任主義をとってきた日本の民法体系にとって大転換であることは変わりありません。

 “衡平責任”という考え方は、ヨーロッパで家族共同体に責任を取らせるために認められてきたものですが、わが国では責任無能力を広範に認める日本法の特殊性に対応するため民法学の大家である星野英一教授などが1980年代末に提唱したものだそうです。

 従来の故意過失という責任の捉え方からは離れて当事者間における衡平(=個別的正義)を図ることが民法の機能であるとするもので、故意過失という責任概念の持っている倫理的要素を払拭し、民法を社会的な道具として純化しようとするポストモダン的な発想といえるかもしれません。

遺族に賠償責任を負わせることに具体的妥当性はあるのか

 もちろん、この発想の底には、前述のとおり、責任無能力者の免責範囲が広くて被害者救済が不十分である、監督義務者としての責任を追及するにしてもその範囲の拡大には限界や無理があるといったわが国の事情があるのでしょうが、それにしても永年、日本人の倫理意識に馴染んできた過失責任とどう調和させるのかという疑問は拭いきれません。

 ちなみに“衡平”といえば、イギリスには通常の契約関係を裁くコモンロー裁判所のほかに、エクイティ裁判所(通常、衡平裁判所と訳される)という、契約書の文面だけに囚われない個別的正義(衡平)を目ざす裁判所があるそうです。裁判が、形式的な公平性だけではなく、多様な要素を考慮に入れながら個別的な正義を目ざすべきことは当然であり、過失責任主義の下であっても、個別的な正義=具体的妥当性が追求されるべきことに変わりはありません。

 それでは本件の場合、どのような法律構成を採るにせよ、遺族に賠償責任を負わせることに果たして本当に具体的妥当性があるといえるのでしょうか。

認知症高齢者の基本的人権をどう考えるか

 上山教授のように“衡平責任”の考え方を前面に押し出すにせよ、従来の判例のように既定の条文のなかでできる限りの解釈を行って具体的妥当性を追求するにせよ、裁判所が判断を下すにあたっては、それが社会に及ぼす影響を度外視することがあってはならないと思います。

 私は、遺族5人で5,000万円の金融資産があるから、巨大企業であるJR東海に対して720万円の損害賠償をさせるのが損害の補填として“衡平”であるとは考えませんが、それよりも遺族側の損害賠償責任を認めることによって予想される認知症高齢者の閉じ込め・身体拘束による基本的人権の侵害、それによる社会的損害の大きさを無視することは裁判所として許されないことだと思います。基本的人権の侵害への道を開く裁判所なんて司法の自己否定ではないでしょうか。

 上山教授は2つ目の方策として、損害保険制度や公的救済制度に言及していますが、“衡平責任”によるものであれ、現在の過失責任主義の下であれ、重大な過失のない者にまでほとんど無過失といってよい賠償責任を認めておいて、それらの制度を整備したとしても、認知症高齢者の閉じ込め・身体拘束等の人権侵害の歯止めにはなりません。

 むしろ、“衡平責任”によりすべての遺産相続者にまで賠償責任が拡大されると、介護に関わっていない者まで賠償責任を逃れようと、認知症高齢者の人権侵害的処遇を強く求めるおそれさえあります。

2.パネルディスカッション


認知症高齢者が独り歩きする確率は数%に過ぎない

 パネルディスカッションといっても、実際にはコーディネーターの赤沼弁護士が各パネリストに質問する形で進められました。  前半は、和田・永田・星野の各パネリストに対し、初歩的なものも含め、いくつかの質問が行われましたが、まず、認知症高齢者のうち、独り歩きをする人はどのような人か、それによる事故を事前に察知することはできるのかということが取り上げられました。これに対し、認知症高齢者のうち、独り歩きをするのは数%で、進行すると身体機能も衰えるので独り歩きが続くことはないということが明らかとなりました。

 また、要介護高齢者が独り歩きをすることは完全に予測することはできないとの回答がされ、(独り歩きは事故に繋がるという発想から)そうであれば施設に入れればいいのではないかという質問に対し、施設に入ると環境が変わってかえって“問題行動”を起こすこともあり、施設に入れればいいとは限らないという回答がありました。

“徘徊”するような認知症高齢者は施設に入れるしかないという誤った認識

 どうやら、コーディネーターは認知症に対する正しい認識を持っておらず、認知症高齢者は“徘徊”するおそれがある、“徘徊”すればどんな危険なことをするかわからない、“徘徊”する危険があれば介護者はそれをやめさせるべきである、それができないようであれば“徘徊”するような認知症高齢者は施設に入れるほかないのではないかという発想に基づいて質問しているように見受けられました。

 後半は上山教授に対する法律的な質問でしたが、責任主体の不合理性を指摘しつつ、損害補填の合理性は是認する講演の基調に対するコーディネーターからの批判はありませんでした。

 シンポジウムの全体を通じ、「認知症高齢者が地域で暮らすために」というテーマは“看板に偽りあり”という感じで、どこが「高齢者・障害者の権利に関する委員会」なのかと驚くばかりでした。

3.では、どうすればいいか


認知症高齢者が閉じ込められることなく地域で安心して暮らすために

 認知症高齢者が閉じ込められたり、身体拘束されたりすることなく、地域で最期まで暮らしていけるようにすることが今、社会に求められているとしたら、介護家族や介護事業者に重大な過失がない限り、認知症高齢者の独り歩きによる被害に対する損害賠償責任は認められるべきではありません。

 仮に、それらの責任の一部を補填する損害保険に加入する者が増えたり、公的給付金の制度ができたりしたとしても、損害額の全部が補填されない以上、常に損害賠償責任を追及されるリスクに晒されるからです。  また、鉄道事業者が損害保険に加入してそのような被害に備えることは当然、考えられますが、それで問題が解決するというものでもありません。鉄道会社に保険金を支払った損害保険会社が認知症高齢者を介護する家族や事業者に求償することもあり得るからです。

最高裁判決に求めたい“希望の判決”とそれを前提とする社会的対応

 したがって、まずは最高裁において(無理な法律構成などせず)長男はもちろん、妻も法定監督義務者または事実上の監督義務者とすることなく、家族の損害賠償責任が否定されることが不可欠だと思われます。  しかし、認知症高齢者の行為による損害賠償責任が介護家族や事業者に不当に負わされることがないという判例が確立しさえすればいいというものではありません。認知症高齢者が単独外出しても行方不明になったり、危険な目にあったりすることのないよう、地域での見守り体制が整備されることが求められるにしても、認知症高齢者の何らかの行為により近隣に迷惑をかけてしまう可能性は残るからです。

 とすれば、原則として認知症高齢者の介護家族や事業者が損害賠償責任を負わないことを前提としつつ、迷惑や被害を被った近隣の人に対する何らかの対応が検討されなければなりません。

 そのための方法としては、国や地方自治体が介護家族や事業者に損害保険制度への加入を強制したり、国や地方自治体の負担で損害賠償責任を肩代わりしたりすることは現実的ではありませんが、それらの被害を受けた者に対してお見舞い的なの給付金を支給することは考えられるのではないでしょうか。そのために介護保険の仕組み(具体的には市町村の行う地域支援事業など)を活用することもあり得ると思います。

 日弁連の高齢者・障害者の権利に関する委員会ですら、ご紹介した程度の認識ですから、最高裁の判決がどのようなものとなるかは予断を許しません。名古屋地裁・高裁は “絶望の裁判所”でしたが、“失望の日弁連”が恥ずかしくなるほどの“希望の判決”を最高裁が出してくれることを期待したいものです。そうでないと日本の認知症高齢者は救われません。

けあZine

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