『考える練習』発刊記念インタビュー 小説家・保坂和志が語る「文学とお金、そして革命」

日刊サイゾー / 2013年5月13日 13時0分

写真

 小説家・保坂和志氏が4月に大和書房から『考える練習』を出版した。「考える」ことをテーマにした本だが、わかりやすい「ノウハウ」を教えるようなものではないという。では、無数の情報が氾濫する現代において「考える」とはどういうことなのか? 保坂氏にじっくりとお話をうかがった。

――『考える練習』(大和書房)が発刊されたということで、文学論から人生論までざっくばらんにお聞きできればと思います。保坂さんは、小説のほかにも、評論やエッセイなど、幅広く出版されていますが、新刊『考える練習』は、保坂さんにとって、ジャンルとしてどのような位置づけにあたるとお考えですか?

保坂 だいたい小説と評論、エッセイを分ける必要なんてなくてさ。そのときに言われる小説っていうのは、いわゆる絵空事という意味が一番強いんだよね。そこでいう絵空事って、いわゆるミステリー小説みたいなもんでしょ? でもミステリー小説なんていうのは、小説のなかの傍流であってさ。本当は、フィクションだから絵空事を書いていいという話ではないわけ。もともとはリアルであるためのひとつの方法が小説とかフィクション全体だったわけで、たとえばギリシャ悲劇や日本の神話は全部フィクションの形をとっているけど、それはリアルであるためにそうしているんだよ。

 フィクションの起源というのは、たぶん夢なんだ。夢って荒唐無稽であることは確かなんだけど、人はリアルなものしか夢に見ないんだよね。夢の表面ですでにリアルなものと、何回か変換されてリアルなものと、夢にもいろいろな種類があるけれど、真実しか夢に見ないんだよ。だから夢はすごい。

 そういうふうに考えると、それぞれの人が自分にとっていちばんリアリティのある形で書いているというだけのことなので、だとしたら小説もエッセイも評論も同じことなんだよね。たしかに評論というと、直接的にナマな形で社会問題を取り扱うこともあるけど、すべての評論がそういう形ではない。たとえば柄谷行人や蓮實重彦はナマな形ではないよね。

 哲学の本もナマな形ではないけれど、そこで何かを言いたいわけで、本を読んで、その後、本に惹かれるようになるというのは、若いころに本を読んでガーンと衝撃を受けたからで、そういった衝撃を受けるというのは、そこになんらかのリアリティがあるわけ。それは評論で感じたりエッセイで感じたり、人それぞれなんだけど。

 だから区別をつける必要はないし、いま一部で読まれてるフェルナンド・ペソアの『不穏の書、断章』(平凡社)『不安の書』(新思索社)という本があるんだけど、内容は覚書とか日記の断片形式で、これが小説なのか、なんなのかということは考える必要はない。いわゆる小説らしい小説、お話をつくるのに向いてる人っていうのは、日記やエッセイを書くような形で書きはじめても、それがだんだんと夢のようなありえない展開に自然となる。そうじゃない人はもっとナマな形で出る。違いはそれだけ。だから元々ある未分化なエネルギーがどんな形を取るか、ということだけだと思うんだよね。

日刊サイゾー

トピックスRSS

ランキング