「浪人時代を忘れない」背番号19に秘められた、レッドソックス上原浩治の決意

日刊サイゾー / 2013年11月6日 13時0分

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アスリートの自伝・伝記から読み解く、本物の男の生き方――。

 10月19日、ボストン・レッドソックスのクローザー・上原浩治がアメリカの宙に舞った。チャンピオンシリーズで1勝3セーブ6イニング無失点の記録をマークし、MVPも受賞した上原。38歳という年齢、ケガや不調に見舞われながらも、プロ入り15年にして世界一の座をもぎ取ったのだ。幾度となく回り道を強いられながらも、決してあきらめずに野球に取り組んできた彼が、世界を制するまでの足跡を、2010年に刊行された自伝『闘志力。―人間「上原浩治」から何を学ぶのか』(創英社/三省堂書店)から振り返ってみよう。

 「雑草魂」という言葉で、流行語大賞に選ばれたように、上原はエリートコースから程遠いキャリアをたどった。5歳から地元の野球チームに入り、その楽しさに目覚めた上原少年。だが、中学校には野球部はなく、陸上部に入部せざるを得なかったが、三段跳びで大阪府5位の記録を残すなどの好成績を挙げた。野球がしたかった上原にとって、陸上は決して本意ではない選択だった。しかし、上原はこう振り返る。

「陸上をやっていたお陰で、プラスになったこともあるのは否定しない。走りこみをしたことで下半身が強化出来たし、走り幅跳びや三段跳びは跳躍競技だから全身のばねを使う。野球選手にとってもばねがあるというのは重要なフィジカルファクターであり、そのメリットは決して小さくなかったはずだ。(中略)そうした点を勘案すれば、陸上のトレーニングは上原浩治というピッチャーの基本を鍛え、土台を形成したといえる」

 高校になり、名門の東海大学付属仰星高校に入学し、晴れて念願の野球部に入部した。しかし、それまで軟式野球一辺倒だった上原に対し、硬式野球でバリバリに鍛えられてきたほかの選手との差は明らか。上原は当初、ずっとバッティングピッチャーを任される。だが、監督は上原のコントロールのよさに目をつけ、ピッチャーに誘う。ここから快進撃が続くのか……と思いきや、上原はそれを断ってしまう。ピッチャーの練習に課せられる走りこみが嫌だったからだ。

 3年生になるとようやくピッチャーに転向するものの、公式戦で投げたのは3試合、6イニングのみ。上原の秘めた才能はまだ開花されない。本人も「プロへ挑戦したいとは考えていなかった」というように、まだ本気ではなかったのだ。

 上原の本気が芽生えるのは、19歳の頃だ。

日刊サイゾー

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