「戦場のメリークリスマス」とは何だったのか

dmenu映画 / 2018年12月24日 6時30分

初公開から既に35年が経過した『戦場のメリークリスマス』。同作を、坂本龍一の代表曲としてしか認識できない世代も多いと思う。いや、もはや「世界のサカモト」のあの旋律を耳にしたことがあっても、それが映画音楽だったとは想像もできない若いひとも多いのではないだろうか。 

1983年当時、“戦メリ”はきわめて斬新なクリスマス映画だった(日本公開は5月だったが)。同作は21世紀のいまも新しいだろうか? 平成最後の師走に考えてみたい。

元祖「腐女子」映画としての“戦メリ”

今年4K版が公開され、大きな話題を呼んだ『モーリス』(1987年)もまだ製作される前だった。当然、「腐女子」なる概念も登場していない。だが、あの頃は「耽美」という言葉があった。少し照れ隠し気味に「お耽美」なんていう言い方をしていたように記憶している。

「耽美」は、主に文学少女、さらに言えば文学要素の含有率の高い少女漫画を愛好する女性たちが憧れた価値観だった。そして、その「耽美」には、同性愛の世界への思慕がかなりの分量で含まれていた。女性同士のそれよりも、男性同士の愛に、彼女たちは夢を見ていた。 

『戦場のメリークリスマス』は、そんな土壌が形成されていた日本(まだサブカルチャーという概念も一般的ではなかった。むしろ、アングラ=アンダーグラウンドという大雑把なくくり方であった)に、きわめてセンセーショナルに登場した。 

まだネットもなく、ケータイすらない。同好の者たちが集うツールは少なかったし、横のつながりが形成しやすい状況ではなかった。だから、きっと、その頃の耽美少女たちにとって“戦メリ”はとてもモニュメンタルな映画体験になったと思う。

大島渚は、当時、既に世界的な監督だった。賞こそ逃したが、本作は世界最高の映画祭、カンヌ国際映画祭に出品され、最高賞パルムドール候補の筆頭となった。そんな大島が、同性愛を中核に据えたクリスマス・ストーリーを奏でたことも衝撃だったが、日本の若者たちを驚かせたのはそのキャスティングだった。

グラムロックの代名詞として一世を風靡し、その後、独自の音楽開拓によって唯一無二のアーティストになり、1980年代にポップアイコンとして世界が予想もしなかったかたちでスターダムに返り咲いたデヴィッド・ボウイ。YMOのメンバーとして、「教授」の愛称で羨望のまなざしを集めていた坂本龍一(1983年は結果的にYMOが「散開」=解散する年となった)。漫才ブームの立役者にして、ラジオ、書籍、俳優などなど、芸人の枠に留まらない影響力を持つ存在だったビートたけし。 

よくぞこの3名を集結、ドッキングさせたものだと思う。彼らに出演をオーケーさせた段階で、ある意味「勝負あった」と言えるほどの顔ぶれである。

空前絶後のミラクル・キャスト

一説によれば、大島は当初、日本人側のキャストに、沢田研二と勝新太郎を想定していたというが、もろもろの事情で断念、坂本とたけしというフレッシュな組み合わせに落ち着いたらしい。

当時の沢田は坂本やたけしをはるかに凌ぐポップアイコンであり、ボウイとの競演はさぞ華やかなものになっただろう。また、もし大島が勝新(彼はスターであると同時に、類まれなる監督でもあった)とコラボしていたら、それは世界映画史に刻まれる快挙となっただろう(1979年、かの黒澤明は勝新主演で『影武者』をスタートさせたが双方の思想の相違によって物別れとなった)。

だが、『戦場のメリークリスマス』がかくもエキサイティングな一作になったのは、デヴィッド・ボウイに、坂本龍一とビートたけしをかけ合わせたからだった。ボウイに超重量級の二人をぶつけるのではなく、日本国内では人気者ながら、世界ではまだ無名に近かった二人を起用したのだ(YMOはワールドツアーを行っていたが、坂本自身がそこまで注目されていたわけではなかった。たけしは、まだ北野武として監督デビューするはるか前だった)。 

この3人が一堂に会することに意味があった。それぞれに別な本業を持つ3人だからこそ、同性愛を中核に据えた物語も禍々(まがまが)しいものにならず、初々しいピュアネスが息づいた。

当時、ボウイに較べれば、坂本もたけしも明らかに格下だった。だから、良かった。ビートたけしは、優れた演じ手だが、当時は演技をあくまでも「片手間」でこなしていたと思う。坂本龍一にいたっては、俳優としてはほとんどズブの素人であった。坂本は映画音楽も手がける条件で出演も了承したという。そして、ここでの作曲で、坂本は映画音楽家として一躍ワールドワイドな存在へと躍進していく。 

燦然と輝くスター中のスターであるボウイと、後に世界的な存在になるものの、まだ「前夜」の段階だった坂本とたけしがセッションしたからこそ、“戦メリ”は“戦メリ”としてのオリジナリティを獲得している。

男たちが偏見を取り除いた

本作は、男たちの「恋愛」と「友情」の物語である。

1942年、ジャワ島にある日本軍捕虜収容所。捕虜である英国陸軍少佐ジャック・セリアズ(デヴィッド・ボウイ)に、収容所の所長である陸軍大尉ヨノイ(坂本龍一)が禁断の想いを抱く。一方、軍曹ハラ(ビートたけし)と、日本語を解する英国陸軍中佐ジャック・ローレンス(トム・コンティ)は、立場を超えた友情を育んでいく。

英語タイトルは『Merry Christmas, Mr. Lawrence(メリークリスマス、ミスター・ローレンス)』。劇中ではラストに、ビートたけしがこの台詞を口にする。その笑顔は、古今東西のあらゆる映画を対象に世界の映画ファンが「映画の中のスマイル」を選ぶとして、きっとベストテンに輝くと思われる素晴らしいものだ。あの笑顔に出逢うだけでも、この映画は価値があると断言できる。 

実は大島渚は1999年の遺作『御法度』(このとき松田龍平を映画デビューさせたのも大島だった)でも、色恋の絡んだ男たちの集団劇を見つめている。『御法度』は新選組を独自の解釈で描いているが、幕末を舞台にした時代劇にせよ、戦時下の軍人たちの物語にせよ、そこでの男たちは「生きるか死ぬか」の瀬戸際を生きている。そんな状況だからこそ、男たちの恋愛も、見つめるに値するものになるのだ。

収容所所長が捕虜である異国人に恋するという、かなりの屈折と乱反射を生じる展開なのだが、前述したように決して奇っ怪なものにはなっていない。 

1983年、同性愛に対する偏見は現代の比ではなかった。色眼鏡どころか、危険なものと見なされ、こうしたメジャーな面々が揃った作品で大々的に取りあげられること自体が奇跡だった。坂本龍一が無垢な演技のままボウイを見つめ、本来禁ずるべき己の想いと葛藤するからこそ、この映画はいまもその輝きが衰えることはない。

そして、いまは亡きボウイの超然とした芝居もまた、35年の年月を感じさせない。捕虜でありながら一貫して誇り高くあるセリアズの魂を、ボウイは息を呑むようなパントマイムで表現している。

朝、見えないカミソリを手に、ひげを剃る。たとえ捕虜としていくら虐げられていても、毅然と自身の生活習慣(それは人生のマナーであり、哲学でもあるだろう)を守り切る。そんな崇高な瞬間があるからこそ、禁じられた恋に、普遍性が生まれる。

いまにして思えば、大島渚が、デヴィッド・ボウイが、坂本龍一が、ビートたけしが、総力戦でジェンダーをめぐる偏見を取り除いた瞬間だった。2018年の暮れに観ても、この奇跡は依然、新しい。

(文/相田冬二@アドバンスワークス)

発売元・販売元:紀伊國屋書店 価格:Blu-ray¥5,800+税、DVD¥4,800+税 (C)大島渚プロダクション

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