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日本で最も恐れられる雑誌『週刊文春』はいかにして週刊誌のトップランナーになったのか

エンタメNEXT / 2021年2月5日 7時0分

スクープの裏側を追ったノンフィクション『2016年の週刊文春』(光文社)

“文春砲”と呼ばれる衝撃的スクープを連発することで、政界、財界、芸能界から恐れられる『週刊文春』。もはや向かうところ敵なしとなった週刊誌のトップランナーは、どのようにして現在のポジションを築いたのか?

自身も文藝春秋の社員として『週刊文春』に携わり、昨年末に『2016年の週刊文春』(光文社)を上梓したノンフィクションライター・柳澤健氏に、文春イズムとは何かと、『週刊文春』をトップ雑誌にした2人の天才編集者について聞いた。(前後編の前編)

     *     *     *

──柳澤さんから見て、『文春』らしさとはどんなところにあると思いますか?

柳澤 ライバル誌である『週刊新潮』と比べると、わかりやすいんじゃないでしょうか。そもそも『週刊文春』というのは『新潮』を真似して創刊したわけですよ(※『週刊新潮』は1956年2月創刊、『週刊文春』は1959年4月創刊)。だけど、2誌のカラーは最初から決定的に違っていた。

『週刊新潮』編集部は、いったん配属されれば15年くらい在籍するのはザラ。作家担当になると、マンツーマン体制で深い関係を構築していく。トップには“新潮社の天皇”と呼ばれる齋藤十一さん(編集者、後の新潮社専務取締役、顧問)がいて、抜群のカリスマ性を発揮していた。そんなプロフェッショナル集団の『新潮』に比べると、『文春』というのは完全なアマチュア集団。人事異動も頻繁にあるし、会社としてもジェネラリストを求める傾向がある。スペシャリスト志向の新潮とは正反対なんです。

──編集方針というより、社風からして違っていたということですか。

柳澤 アマチュアの文春は、プロフェッショナルの『新潮』の後塵を長く拝していたんですけど、長い時間をかけて『文春』側の取材力もだんだん上がっていった。文春は明るくて仲が良いから、チームワークを生かして大きな事件に集団を取り組むことができる。春風駘蕩としていた文藝春秋の中に、『週刊文春』と月刊『文藝春秋』を往復するようなジャーナリスト的な編集者も育ってきた。そうした中で生まれたのが、協栄ボクシングジムの金平会長がやった毒入りオレンジ事件(1982年)や有名な三浦和義の疑惑の銃弾(1984年)ですよね。

──どちらも歴史を変えるような大スクープでした。

柳澤 そんな流れの中で編集長に就任した花田紀凱さん(1988~1994年)は、タイトルをつけるのが抜群に上手い天才編集者で、女性読者の心をグッとつかんだ。強力なスタッフも集まってきて、雑誌のエンジンがグッとかかった。『週刊文春』が週刊誌の中でトップになると、さらにネタが集まるようになったんです。

──若手時代の柳澤さんにとって、花田編集長はどんな存在だったんですか?

柳澤 当時の僕は特集班ではなくグラビア班。ハードな事件を追いかけていたわけではなく、もっぱら柔らかい記事を担当していました。あるとき、グラビア班のデスクに「サッカーのイタリアワールドカップがあるから3週間イタリアに行かせてくれ」って直談判したんです。単純に見たかったので。僕は一応グラビア班のエースだったので、デスクからは「ふざけるな」って一蹴されましたけど、なんと花田さんが「まあ、いいじゃないか」と言ってくれたんです。デスクは苦々しい顔で「しょうがねえな、じゃあグラビアでイタリアワールドカップ特集をやるぞ、お前が1人で全部作れ」って(笑)。フィレンツェの塩野七生さんに「私の大好物」を聞いたり、ミラノでは『ヴォーグイタリア』の編集部を訪問したり。その合間に試合もしっかり見たんです。生でマラドーナを見られたのはよかったですね。

──イタリアW杯は1990年。当時はまだJリーグが始まる前で、日本ではサッカーは今のようなメジャースポーツではありませんでした。

柳澤 有名なドーハの悲劇が4年後の1994アメリカ大会の最終予選。イタリアワールドカップは日本代表が最初にワールドカップに行く8年前です。1990年に僕がイタリアへ行ったことは、じつは文藝春秋にとっても有益だったんです。というのも、その後、僕は『Number』に異動になって、初めてのサッカー日本代表特集を作ったし、ドーハで負けた時の号も担当して、1週間で実売98%まで行きました。初めてのヨーロッパサッカー特集を作ったのも、文春初のサッカー本(後藤健生『サッカーの世紀』)を作ったのも僕です。こうして、あとになって、僕のイタリアでの経験が生きた。花田さんには、ある程度見えていたんでしょうね。こいつは遊ばせておけば、勝手に何かを拾ってくるって。

──全部が繋がっているんですね。

柳澤 同じようなことが、江川紹子さんに関しても言えるんです。坂本堤弁護士と、オウム真理教被害者の会をつないだのはじつは江川さん。坂本弁護士一家が失踪すると、責任を感じた江川さんは「オウム真理教を追うために、他の仕事はしない」と覚悟を決めた。彼女を全面的にサポートしたのが『週刊文春』です。フリーランスの立場でジャーナリストをやるのは、生活面が非常に不安定になりますからね。坂本弁護士一家失踪事件が1989年でしたが、一度は迷宮入りしてしまって、記事にならない時期も長かった。地下鉄サリン事件が起こったのが1995年ですが、6年も経って初めて、オウム問題といえば江川紹子だとひっぱりだこになるわけです。江川さんには、いろんなオファーがあったはずですが、どこよりも優先して『週刊文春』に書いたのは、苦しいときに助けてくれたから、恩義に感じたということです。いわば花田週刊の置き土産なんです。

『週刊文春』時代、僕が書いた記事で、日本全国の右翼組織から文藝春秋に猛抗議が殺到したことがあったんです。(※詳細は『2016年の週刊文春』を参照)。でも、当時の花田さんは、僕に一切そのことを伝えなかった。自分が盾になって部下を守ってくれたんです。すべての責任は自分がとる。そんなカッコいい編集長には、そりゃあみんながついていきますよ。

※後編<『週刊文春』を作った2人の天才>は こちらから。

▽『2016年の週刊文春』(著者:柳澤健/発行元:光文社)
列島を震撼させるスクープを連発し、日本で最も恐れられる雑誌となった『週刊文春』。そのスクープの裏側には愚直な男たちの物語があった。花田紀凱と新谷学、『週刊文春』をトップにした2人の名物編集者の話を軸に、記者と編集者たちの熱き闘いの日々を描いた痛快無比のノンフィクション。著者は『1976年のアントニオ猪木』『1984年のUWF』などで高い評価を得るノンフィクション作家・柳澤健氏。

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