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台湾の先住民はいかにして史上最多甲子園9度出場のヒーローになったのか 京都・平安中を昭和8年夏準V「岡村俊昭」を巡るミステリー

zakzak by夕刊フジ / 2024年8月21日 13時45分

岡村のルーツに迫った自著を長女の柿木八重さん(左)に手渡す鄭仲嵐さん=9日、京都市内(夕刊フジ)

開場100周年を迎えた今夏も熱戦が続く高校野球の聖地、甲子園。長い歴史の中では日本統治下の韓国や台湾、友好国の満洲からも代表校が送られた。1931(昭和6)年準優勝の台湾・嘉義農林が映画化もされるなど名高いが、春夏合わせて9度と甲子園に最も多く出場し、33(昭和8)年に京都・平安中(現龍谷大平安)を準優勝に導いた名選手もまた、台湾から野球留学した先住民だった。「岡村俊昭」を名乗り、後にプロ野球南海でも活躍。96年に83歳で亡くなるまで自ら語ろうとしなかった、謎多き〝ファミリーヒストリー〟が掘り起こされ、故郷で脚光を浴びている。

ルーツに迫るルポが先月故郷で出版

今月9日の京都市下京区。龍谷大平安高からほど近い住宅街を東京在住の台湾人ジャーナリストの鄭仲嵐さん(39)が訪れたのは、先月台湾で出版された自著を手渡すためだった。

「父も喜んでますわ、涙出てくる」と仏前に本を供えたのは、岡村の長女の柿木八重さん(77)。京都の旧家育ちの母が嫌がるため、家族の前で自身のルーツに関する話題をタブーとした父は、こっそり八重さんにだけは「海がきれいだった」などと故郷の思い出を語ったという。

鄭さんは2016年からコロナ禍も挟みつつ八重さんに取材を続け、そうした数少ない手がかりをもとに台湾東部を歩き回り、花蓮の先住民地域で岡村の生家や親族を探し当てた。アミ族としての出生名「オラム・ファラハン」など、家族も知らなかった新事実の数々はルポ『追尋岡村俊昭』としてまとめられ、台北と台中で出版記念イベントが開かれるほどの反響を得た。

今夏の甲子園でも、出場校の多くが他県からの野球留学生を擁しているが、100年近い戦前の時代に平安中はなぜ、遠い台湾のしかも先住民地域から、選手を引っ張ってきたのだろうか。

鄭さんの調査に協力した関西大・永井良和教授(大衆文化史)は「1930年に抗日暴動が起きているように、先住民との融和策が求められるなか、花蓮で結成された先住民の少年野球チームが本土を転戦して大健闘。日台で大きく報じられたことがきっかけになったとみられる」と説明。

布教活動のため野球留学?

「花蓮に進出していた西本願寺が有望な選手たちに声をかけ、系列の平安中への留学を働きかけたようだ。留学生たちがいずれ台湾での布教に役立つと考えていたようだが、日本に残ってプロ野球選手になるなど当てが外れ、台湾でも背信と批判を浴びた」。草創期のプロ野球は社会的地位も低く、送り出した側の栄誉にならなかったのだ。

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