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台湾の先住民はいかにして史上最多甲子園9度出場のヒーローになったのか 京都・平安中を昭和8年夏準V「岡村俊昭」を巡るミステリー

zakzak by夕刊フジ / 2024年8月21日 13時45分

花蓮から4人の先輩に続いて当時5年制の平安中に進んだ岡村は、1年春を皮切りに4年夏を除く全ての甲子園大会に出場。同期2人とともに不滅の最多記録保持者となった。2年春夏に4強、最後の夏には準優勝も、「当時の新聞記事を見ると、台湾から選手を連れてきて勝つことへの反発もうかがえる」(鄭さん)というから、今の日本の空気と大差ないように感じる。

南海で首位打者

甲子園のヒーローは日大を経て南海に進み、44年に首位打者。「親分」と呼ばれた鶴岡一人監督に一目置かれ、引退後もコーチや2軍監督として黄金時代を支えた。中学時代に見初めた母校近くの下宿先の娘と結婚。「日本人・岡村俊昭」の生涯を全うし、戦後は台湾に一度も戻らなかったが、日本で名を成した英雄を探し当てた同郷人らと晩年のある日、自宅で会食したことを八重さんは覚えている。いつものように両親は多くを語らなかったが、「キョウカイの人」と話していた記憶と、一同が会した写真が残った。

手がかりを託された鄭さんは、花蓮に100以上もある教会をしらみつぶしにする覚悟で現地に入ったが、その2カ所目で急展開を迎える。駐車場で話しかけた老婦人が写真を指さし、「この人は家が燃えて亡くなった」と証言。住所を調べて急行すると、その隣人が岡村の姉の孫と判明したのだった。鄭さんは「野球の神様の祝福を感じた。おかげで本として形になり、岡村さんのご家族にも届けられてよかった。まだ日本語版を出す話はないが、100年以上にわたる野球を通じた日台の交流や先住民族との関わりを、日台で広く知ってもらえたらうれしい」と話している。 (笹森倫)

■岡村俊昭(おかむら・としあき 1912年5月4日―96年1月24日) 日本統治下の台湾・花蓮でアミ族集落に生まれ育ち、29年に平安中に進学。主に捕手として春夏通算9度、甲子園大会に出場。日大を経て39年に南海入団後は外野手に転向。44年に打率・369で首位打者。49年限りで引退し60年までコーチ、72年までスカウトを務めた。身長170センチ、体重60キロ。右投右打。プロ10年間で通算651試合出場、467安打、3本塁打、189打点、77盗塁。

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