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「作品には罪はない」という言説 – 薬物汚染された芸能の反社会性 (世に倦む日日)

ガジェット通信 / 2019年3月27日 13時0分

今回はyoniumuhibiさんのブログ『世に倦む日日』からご寄稿いただきました。

「作品には罪はない」という言説 – 薬物汚染された芸能の反社会性 (世に倦む日日)

5年前の2014年、CHAGE and ASKA の ASKA(宮崎重明)が覚せい剤取締法違反で逮捕されたとき、レコード会社のユニバーサルミュージックは、(1)関連契約の解約または停止、(2)CD/映像商品 全タイトルの出荷停止、(3)CD/映像商品の回収、(4)全楽曲・映像のデジタル配信停止の処分を発表している。理由として、「容疑内容、反社会的性質等、その影響の大きさに鑑みて、決して看過できるものではない」と言い、「厳正な措置をもって臨むべき」という判断を下していた。また、「社会の中で活動する企業としてコンプライアンスを重視すべき立場から、熟慮した上で決定した」と説明している。このとき、レコード会社の対応に対して批判が上がった記憶はなく、「作品には罪はない」とか「決めるのは視聴者だ」などという抗議の声は上がらなかった。10年前の酒井法子が逮捕されたときも、ビクターエンタテインメント社が関連商品の出荷停止、店頭からの回収、楽曲の配信停止を行なうと発表、「こうした反社会的行為は決して許されるものではなく、弊社としても事の重大さを充分認識し、厳しく対処をしてまいります」とコメントを出している。5年経つとこれほど空気が変わるものか。

ピエール瀧の事件が報道されて4日後の15日、朝日の天声人語が問題を取り上げ、驚くべき意見を発表した。こう書いている。「出演した作品にまでフタをするのは行き過ぎではないか」「逮捕されたことと、作品の魅力は分けて考えるべきではないか。見続けたい作品かどうかを決めるのは視聴者である。NHKや映画会社ではない」。果たして朝日新聞は、ASKAや酒井法子の事件のときはどのような反応を示したのだろう。2012年に脱法ハーブについて朝日が書いた社説には、タイトルに「有害薬物から若者守れ」とあり、次のように警告を発している。「ハーブを吸った者が車を暴走させ、通行人にけがをさせる事故もたびたび起きている。そんなものが、厚労省がつかんだだけで繁華街やネット上の389店で売られている。おもしろ半分に興奮や快楽を求めて手を出すのは危ない。学校と力をあわせ、若い世代にそう教えなければならない。被害の多さや深刻さを具体的なデータで示さないと、怖さは伝わらない。ところが、何がおきているか全国の実態調査はまだない。早く始めるべきだ」。非常に常識的な見解だが、7年後の天声人語と比較してダブルスタンダードの感を禁じ得ない。

今回の件は、逮捕直後の13日に江川紹子が、「またも過去の作品お蔵入り、収録済み映像も編集し直し消去、みたいなことをやるのか…」「薬物自己使用とか被害者がいない事件で、そういう非生産的なことは、もうやめた方がいい」と口火を切って流れを作った。さらに15日に坂本龍一が「なんのための自粛ですか? 電グルの音楽が売られていて困る人がいますか?」「ドラッグを使用した人間の作った音楽は聴きたくないという人は、ただ聴かなければいいだけなんだから。音楽に罪はない」と加勢し、左翼を中心に怒濤のように擁護論が高まって流れが固まった。朝日新聞が天声人語でエンドースしたことで、世論はほぼ決まりという状況になり、17日のバンキシャで紹介された街頭世論調査では、作品自粛に反対の声が賛成の2倍という結果になっていた。今回の事件では、不思議なことに、企業のコンプライアンスという言葉がマスコミに登場しない。最近の日本社会で水戸黄門の印籠のような威力を持つ「コンプライアンス」の語が前面に出れば、江川紹子や坂本龍一の主張は一蹴され、大衆は常識に即いたと思うが、コンプライアンス論を中身として言ったのは、サンジャポで「遵法精神」と「モラル」を口にした武井壮だけだった。

関連して、マイケル・ジャクソンの楽曲が、性的虐待疑惑の追跡報道を受けて、英国・カナダ・NZの大手ラジオ局で放送停止処分になったニュースがあり、注目するべきだろうと思う。マイケルの性的虐待の容疑がほぼ確実で、きわめて深刻で重要な意味を持つ問題であることから、社会倫理上の判断として彼らは放送停止の決定を下している。この状況でマイケルの曲を公共の電波で流すことが、客観的にマイケルの犯罪についての相対視・過小評価に導き、社会的に容認し擁護する方向に繋がっていく恐れがあるからであり、モラルの面で悪影響が大きいからである。マイケル・ジャクソンの場合は、あくまで犯罪は疑惑のレベルであり、裁判で事実が認定されて有罪になったわけではない。一方、ピエール瀧の場合は、逮捕されて容疑を認めており、有罪になるのは確定的の身である。麻薬取締法の場合は「被害者なき犯罪」だから他とは違うという声もあるけれど、単に法形式上の被害者がいないだけで、実際には家族が被害者であり、損害を受ける映画会社や共演者やスタッフが被害者だし、CMに起用して裏切られた企業の被害もきわめて大きく、「被害者がいない」という認識は間違っている。巨人を解雇された野球賭博の選手たちも同じで、きわめて厳しい制裁を受けた。

「作品には罪はない」という言説、すなわち、薬物違反で逮捕された芸人の作品の配給を自粛する必要はないという主張だが、われわれはこれを肯定してよいのだろうか。この主張をする者の理屈は、薬物犯罪を犯した芸人個人と、その芸人が出演する作品は別物であり、作品に不当性を遡及して指弾するのは間違いだという論法だ。しかし、その作品が仕込まれた内実はどうかと言うと、ピエール瀧は台詞を覚えながらコカインを吸い、コカインを吸いながら役作りを続けている。20年以上ずっと薬物を使用してきたという本人の証言があり、芸(音楽・演技)と薬物の身体効能が切っても切れない関係であったことは疑えない。つまり、ピエール瀧の芸は薬物を日常的に摂取しながら創作されたもので、薬物の力に助力され、薬物を資源とし、薬物に依存して作られた芸能である。そのようにして作られた作品は、やはり汚れた作品と言わざるを得ず、価値を割り引いて評価されるのが当然だろう。公共放送で国民に自慢して見せるべき性格のものでないことは明らかだし、アカデミー優秀助演男優賞を授与される資格があるとは到底言えない。対価が暴力団の収入源になっていた点も看過できず、視聴者や制作関係者に対する重大な裏切りが行われている。

江川紹子や坂本龍一や朝日新聞の主張は、芸能人による薬物使用をむしろ積極的に容認しようという方向づけの問題提起に聞こえる。そしてそこには、さらに薬物そのものの解禁へ踏み切ってよいという思想が潜んでいるように窺える。江川紹子や坂本龍一は、そもそも薬物使用を罪悪の行為だと考えておらず、バレて他人に迷惑をかけなければ個人の自由であり、それが芸能の創作活動に役立っていれば使用しても構わないと考えているのではないか。もし、ここで江川紹子や坂本龍一が作った流れが支配的な方向性になり、今後は、俳優や歌手が逮捕されても作品の販売はお構いなしということになれば、業界にとってこれほど楽でありがたいことはないだろう。映画の撮り直しはしなくて済む。テレビも撮ったものをそのまま使える。ネットで流して料金を取れる。本当は、業界は資本の論理で自粛などしたくないのだ。

 

執筆: この記事はyoniumuhibiさんのブログ『世に倦む日日』からご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2019年3月26日時点のものです。

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