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時代を先取りした偉大すぎる女性科学者列伝(歴ログ -世界史専門ブログ-)

ガジェット通信 / 2019年8月31日 13時0分

今回はtamam010yuheiさんのブログ『歴ログ -世界史専門ブログ-』からご寄稿いただきました。

時代を先取りした偉大すぎる女性科学者列伝(歴ログ -世界史専門ブログ-)

時代に先んじた女性科学者たちの生き様と研究

現代の世界の科学者には女性は少なくありませんが、昔から多くの女性が活躍してきました。ラジウムを発見したキュリー夫人、世界初のプログラマー、エイダ・ラブレスなどが有名ですが、もっとたくさんの女性科学者がいます。

科学者列伝第2回目の今回は、女性科学者のピックアップです。

科学者列伝第1回

「あまり知られていない、世界を変えた科学者列伝」2019年5月28日『歴ログ -世界史専門ブログ-』

https://reki.hatenablog.com/entry/190528-World-Important-Scientists

1. 女預言者マリア 1~3世紀

錬金術の祖と言われる人物

女預言者マリア(Marie the Jewess)は卑金属を金に変える錬金術を確立した人物であると言われています。錬金術とは、鉛や水銀といった卑金属と硫黄などの物質を、溶かしたり煮たり焼いたりして黄金に変える技術のことです。

彼女について残された記録は多くありませんが、3世紀にエジプトに生きた錬金術師パノモリスのゾシモスという人物が、マリアという人物が1世紀前後にエジプトに住んでいて、彼女が後に錬金術をする上で定番の蒸留の技法を編み出したと書き記しています。マリアが錬金術で蒸留をしたという伝説は、「湯煎」という英単語「Bain-marie(バンマリー)」に残っています。

12世紀に書かれた錬金術の碑文「エメラルド・タブレット」には、蒸留は「一度地上を離れて天に達し、再び天から地上に降下する上下の力によって結合される」と書かれており、錬金術自体はかなりスピリチュアル世界でありました。しかし後年、錬金術で鍛えられた技術は現代化学の礎となっていくので、現代化学の多くは彼女から出発したと言っても過言ではないかもしれません。

2. カロライン・ハーシェル 1750-1848(ドイツ)

兄の薫陶を受けて大成した天才天文学者

カロライン・ハーシェルは18世紀後半から19世紀半ばにかけて、新しい星雲や恒星を発見し天文学の発展に寄与した人物です。

ドイツ・ハノーバーで生まれたカロライン・ハーシェルは、教養ある父アイザックの方針のもと、5人の男の兄弟たちと数学やフランス語や音楽の教育を受けて育ちますが、10歳の頃にチフスにかかって死にかけ、回復しますが身体の成長が止まるという後遺症に襲われました。両親はカロラインを嫁がせることをあきらめ、22歳に兄ウィリアムの家庭に家政婦として住まわせました。

ウィリアムは父アイザックと同じく音楽家で、彼は妹に声楽や数学を教えました。才能のあったカロラインはプロのソプラノ歌手として有名になりました。

一方でウィリアムは天文学が趣味で、時間を見つけては望遠鏡を手作りして夜空を観察していました。カロラインは最初は兄の助手として望遠鏡作りを手伝っていましたが、次第に兄にも勝るほどの情熱を見せ始め、とうとう兄を上回る天文学の才能を開花させることになります

1783年に3つの新しい星雲を発見し、1786年から1797年の間に8つの彗星を発見しました。後年、カロラインは兄ウィリアムと自身のこれまでの業績をカタログ化して発行しました。そのうち2つは現在でも使われています。長年の天文学に対する功績が認められ王立天文学会ゴールドメダルを受賞し、96歳の誕生日にはプロイセン王から科学金賞が授与されました。

3. メアリー・アニング 1799-1847(イギリス)

イギリスの自然科学の発展に寄与した在野の化石ハンター

メアリー・アニングは始めてイクチオサウルスの全体化石を発掘した市井の女性発掘者として有名な人物です。

1799年、「ジュラシック・コースト」と呼ばれることもある英仏海峡に面した海沿いの村ライム・リージスに生まれました。生家は貧しく、父リチャードは海岸で取れる化石を土産物屋に売って家計の足しにしていました。幼いメアリーも兄ジョセフと父と一緒に海岸に繰り出しては化石堀りの手助けをしていました。当時イギリスでは自然科学に関する関心が高まり始めていた時期で、ライム・リージスの村に化石を堀りに教養の高い人が集まってきます。例えば、ロンドンの法律家フィルポット家の娘で考古学に関心の高いメアリー・フィルポット、地質学者ウィリアム・バックランド、後にロンドン地質学協会の会長を勤めることになるヘンリー・デ・ラ・ビーチ卿などなど。メアリーはこのような教養レベルの高い人たちの交流の中でレベルを上げていきます。

しかし11歳で父が死亡。子どもたちが海岸で化石を掘り母がそれを売るという形で一家は生計を立てていました。メアリーをよく知る人たちは、彼女の頭脳の明晰さや旺盛な好奇心が生活のためだけに使われることをもったいなく思い金銭的な援助を行ったものの、父が作った借金の返済に加え日々の暮らしのお金を稼ぐことで精一杯でした。

1811年の冬、メアリーとジョセフは1メートル余りのイクチオサウルスの頭部の化石の発掘に成功。その後完全な胴体の発掘にも成功しました。当時はまだ化石は「ノアの箱舟に乗ることができなかった生物の残骸」くらいに思われていたようで、イクチオサウルスも巨大なクロコダイルと思われていましたが、その後研究が加えられ1817年、「ノアの箱舟以前」のはるか大昔の生物であることが認められました。

まとまったお金を手に入れたメアリーは、独学で地質学と解剖学を勉強し、掘った化石を売るだけでなく、観察して分類したりスケッチして特徴を見分けたりと、学術的な領域にシフトしていきました。メアリーは在野の化石ハンターとしては名を馳せていたものの、低い身分に加えて生活のために化石を売っている事実が認められず、アカデミックの分野に名を残すことはありませんでした。

ダーウィンが「種の起源」を発表するのは、メアリーの死から12年後のことです。

4. エリザベス・ギャレット=アンダースン 1836-1897(イギリス)

イギリス初の女性医師

エリザベス・ギャレット=アンダースンは19世紀後半にイギリス初の女性医師となり、女性に医師になる道を開いた人物です。

生まれはロンドン東部の裕福な質屋の一家で、父親は彼女を上流階級の娘が通う学校に通わせました。ある時、アメリカ初の女性医師エリザベス・ブラックウィルの講演を聞き、医師を志すようになりました。しかし当時イギリスでは女性は医師となることを許されていませんでした。アンダースンは大学の医学部で学ぼうとするもすべて拒否されたため、ロンドンのミドルセックス州病院で看護師見習いとして働きながら医師になるための勉強をしますが、男性医師のための講義にこっそり参加しようとして叩き出されたりなど苦労が多かったようです。薬剤師協会は女性の試験を禁止してないことを知ったアンダースンは受験をして1865年に見事合格。1866年に父親の支援で女性用の診療所をオープンさせました。1870年にはイーストロンドン病院の訪問医になりました。この時に実業家のジェームズ・アンダースンと結婚もし、三人の子供も後に儲けています。

しかしどうしてもイギリスで医師の資格をとる許可が下りなかったので、アンダースンは独学でフランス語をマスターしてパリ大学を受験をして合格。フランスで医師の免許を取ってしまいました。しかしイギリスの医師登録機関は外国の免許を認めなかったのです。

そこでとうとうアンダースンは資産をはたいて自らの病院をオープンさせてしまいました。婦人科の院長には、憧れのエリザベス・ブラックウィルを招聘しました。そのような努力が実って、1876年にとうとう女性が医師になることが認可されました。1883年にはアンダースンはロンドン女子医学校の学長にも就任しました。

1902年に医師を引退し、1908年にはオールドバラの町の町長選挙に出て当選。イギリス初の女性町長ともなりました。

5. リーゼ・マイトナー 1878-1968(オーストリア)

元素プロトアクチニウムや核分裂を発見した物理学者

リーゼ・マイトナーはオーストリア出身の物理学者で、放射線・核分裂の研究により新元素プロトアクチニウムの発見や、核分裂の理論を発見した人物です。ノーベル物理学賞の候補にもなっています。

1878年に貧しくないユダヤ人の家庭に生まれるも、苦学して23歳でウィーン大学に合格。物理の博士号を取得後、ベルリン大学の物理学者マックス・プラントを頼って研究所で働くためにベルリンに赴きました。そこで紹介されたのが、長年の研究パートナーとなる若手研究者オットー・ハーンでした。マイトナーは物理学、ハーンは化学の知識があり、二人は互いの知識を補完しあい放射線の研究を進めました。1912年にカイザー・ヴィルヘルム研究所に移動し、第一次世界大戦中の1918年に新元素プロトアクチヌウムを発見することに成功。この業績により研究所の部門の主任に任ぜられました。

1923年にはオージェ効果という名で知られる無放射遷移現象を発見。2年後にフランスの物理学者オージェの名前がつきますが、最初に発見したのはマイトナーでした。

しかしヒトラーが政権をとってユダヤ人に対する迫害が酷くなっていき、とうとう1938年にオーストリアがドイツに併合されると、マイトナーはスウェーデンへの亡命を決意。ストックホルムにあるマンネ・シバーグマンの研究所で引き続き放射線の研究を続けました。相棒であるハーンとも相変わらず連絡をとっていましたが、ハーンが発見した「ウランの原子核に中性子を照射する実験」で今まで見たことがない現象が確認されたとの手紙を受け、秘密裏にコペンハーゲンで会って実験を行いました。この実験結果は1939年1月に始めて「核分裂が起きたことを証明した」論文として発表されました。

この研究結果がのちのマンハッタン計画に繋がっていくのですが、マイトナーは後に核兵器製造への協力を求められた時、自分は兵器を作るつもりはないと答えています。

20世紀の最も偉大な女性科学者であると賞されていますがノーベル賞を獲ったことはなく、1944年のノーベル物理学賞はハーンが授与してマイトナーは無視されてしまいました。

6. バーバラ・マクリントック 1902-1992 (アメリカ)

時代を先取りしすぎて長年冷や飯を食わされた女性研究者

バーバラ・マクリントックはアメリカの細胞遺伝学者で、一部の遺伝子の配列が丸ごと別の箇所に移転する「トランスポゾン」の発見をした人物です。

幼いころから聡明で、1919年にコーネル大学に入学して生物学を専攻し、1923年に修士号を取得し、細胞学、遺伝学、動物学を専門とする博士号を取得しました。大学院時代、彼女はその後のキャリアでライフワークとなるトウモロコシの染色体分析を開始します。顕微鏡と染色技術を使用して、個々のトウモロコシの染色体を調べ視覚化する作業です。

1931年、マクリントックは大学院生のハリエット・クレイトンと共に「トウモロコシの染色体の乗り換えと色の表現の発生パターン」についての論文を発表。これによりマクリントックは奨学金を獲得し、コーネル大学の他、ミズーリ大学やカリフォルニア工科大学などいくつかの大学を渡り歩きながら研究をし、1933年にはドイツに留学しますが、当時はナチスが政権を取ったばかりでアメリカ人女性研究者には快適な環境ではなかったようで、わずか半年で帰国しています。マクリントックは珍しい女性研究者で、しかも強情で変わった性格のキャラクターで、あまり世渡りが上手い方ではなく生活費や研究費の稼ぎには生涯すごく苦労しました。

1941年には安い月給でコールド・スプリング・ハーバー研究所に畑を持って研究を開始。定期的に研究成果を発表しその頃には一流の遺伝子学者としてひとかどの人物になっていましたが、長年温めた研究成果を1951年に満を持して発表。それが、一部の遺伝子の配列が丸ごと別の箇所に移転する現象についてのレポートでした。しかしこの研究は発表当初はまったく評価されず、他の研究者にも理解されませんでした。

マクリントックは立場を失い、しばらく研究費をもらいながら様々なトウモロコシ栽培などのプロジェクトに参加して研究を続けました。しかし 「トランスポゾン」の研究発表から20年以上たった1970年代前半に、マクリントックが発見した「動く遺伝子」が様々な研究によって確認され、立て続けに数多くの研究賞を受賞し一躍時の人に。1983年にはノーベル生理学・医学賞を受賞しました。

7. ドロシー・ホジキン 1910-1994(イギリス)

物質の分子構造の決定でノーベル化学賞を受賞したママ

ドロシー・ホジキンは、最先端の技術だったコンピュータを用いてX線解析方により物質の分子構造を解析して決定した女性。1964年にノーベル化学賞を受賞しました。

生まれは父の赴任先だったエジプトで両親は考古学の権威でしたが、ドロシーは幼い頃から化学に興味を持ち、15歳の時に母に買ってもらった誕生日プレゼントは物理学者ヘンリー・ブラッグの名著「物の本性について(Concerning the Nature of Things)」。この本にはX線を用いて物質の分子構造を「見る」方法についての議論が書かれており、大人になったドロシーがまさにその方法を実現化し成果を上げていくことになります。

オックスフォード大学サマービル校に入学し物理学と化学を専攻し、X線結晶学のプロジェクトに参画します。これは物質にX線を当ててその分子構造を可視化するというもので、1915年に開発されたもののまだ改良の必要が大きい未発達の技術でした。大学卒業後にケンブリッジ大学でX線結晶学の第一人者ジョン・デスモンド・バナールの下で研究を積み、1935年にはペプシンの結晶の解析に成功しました。

1937年に博士号を取得し、同年歴史学者トマス・ホジキンと結婚。3人の子を儲け、ホジキンの家族の助けを借りながら学術的成果を上げていき、インスリン、ペニシリン、ビタミンB12の分子構造を分析し構造決定しました。1964年にノーベル化学賞を受賞。化学賞としては、史上3人目の女性の受賞者でした。

ドロシー・ホジキンは人道支援に対しても功績があり、冷戦がもっとも激しい時期に中国や北ベトナムといった東側諸国の科学者や庶民の暮らしを支援し、核兵器廃絶を訴えるパグウォッシュ会議の議長も務めました。

まとめ

まだ一部そんな雰囲気がありますが、アカデミックの世界はかつて圧倒的な男性社会で、女性が待遇面や評価面で差別を受けるのは「ごく当たり前」のことでした。

そんな中で自らの生涯をかけて信念を貫き通して成果を出すことによって、女性のアカデミック進出を認めさせていった功績はまことに大きなものがあると思います。現代の我々が想像する以上に職場での差別はひどかったと思われます。安楽な道は他にもいくらでもあるのに、めげずに生涯をかけて選んだ道を極めるその姿勢には本当に頭が下がります。

参考サイト

“Maria the Jewess: An Inventor of Alchemy” National Library of Israel

https://web.nli.org.il/sites/NLI/English/library/reading_corner/Pages/maria_the_jewess.aspx

“10 amazing women in science history you really should know about” sience focus

https://www.sciencefocus.com/science/10-amazing-women-in-science-history-you-really-should-know-about/

“Caroline Herschel” StarChild – NASA

https://starchild.gsfc.nasa.gov/docs/StarChild/whos_who_level2/herschel.html

“Mary Anning” Famous Scientists

https://www.famousscientists.org/mary-anning/

“Elizabeth Garrett Anderson (1836 – 1917)” HISTORY – BBC

https://www.bbc.co.uk/history/historic_figures/garrett_anderson_elizabeth.shtml

“Lise Meitner (1878 – 1968)” atomicarcive.com

http://www.atomicarchive.com/Bios/Meitner.shtml

“Barbara McClintock – AMERICAN SCIENTIST” Encyclopedia Britannica

https://www.britannica.com/biography/Barbara-McClintock

 

執筆: この記事はtamam010yuheiさんのブログ『歴ログ -世界史専門ブログ-』からご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2019年8月29日時点のものです。

―― 面白い未来、探求メディア 『ガジェット通信(GetNews)』

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