ゲームの進化について

ガジェット通信 / 2012年10月17日 14時0分

ゲームの進化について

今回はmedtoolzさんのブログ『レジデント初期研修用資料』からご寄稿いただきました。

■ゲームの進化について

「シューティングゲームは、「弾をよけながら敵を撃破するゲーム」ではなく、「弾幕デザイナーの意図にそってレバーとボタンを操作する作業」であるといえる。「RPGも同様に、プレイヤーは操作や判断を洗練させるほど、それはゲームデザイナーの意図した通りの動きに収斂していく」とTwitterに書き込んだら、「そんなことはないだろう」という反響がけっこうあった。そのあたりのいいわけ。

●昔話

小学生の昔、ブロック崩しにこそ出遅れたけれどスペースインベーダーは現役で間に合って、ギャラクシアンに驚き、ムーンクレスタ3号機の理不尽に泣き、ディグダグの画面がカラフルなのに驚いたらもう中学受験は目前だった。

中学校に入って、久しぶりのゲームセンターではボスコニアンが稼働していて、よく聞こえない合成音声に首を傾げる真横では、同級生がハイパーオリンピックに熱中していて、ゲームセンターではそれからしばらく、ボタンが溶けた筐体をよく見かけた。

定期的にゲームセンターに通うのは高校生になってからで、自分は大体、飛翔鮫から究極タイガーを経由してTatsujinあたりで大学受験だった。横スクロールシューティングはグラディウス2の全盛期だったけれど、あれはヘタレゲーマーには難しすぎて、手が出なかった。

大学以降はゲームからはずいぶん遠ざかり、途中でTVゲームを買ったこともあったけれど、20年ぐらい、シューティングゲームには縁がなかった。最近になって、Androidスマートホンに怒首領蜂大復活が移植されて、画面の緻密さや効果音の進歩にはもちろんだけれど、何よりも個人的には、撃墜された時の感想が、昔とずいぶん異なるのに驚いた。

●怒首領蜂大復活を買った

究極タイガーの昔、敵弾は自機を撃墜するために発射されるものであって、何度も撃墜された。撃墜された反省はといえば、「自分が下手だった」ということに尽き、上手なプレイヤーはずっと先の面まで進んでいたし、下手な自分はコインを入れてもすぐに撃墜されて、ルールは分かりやすかったけれど、ゲームは下手な人間に冷たかった。

怒首領蜂大復活の弾幕は、開始早々に凄まじいのだけれど、「弾幕にはげまされる感覚」に驚かされた。

シューティングゲームを極める道筋は厳しくて、敵の配列や置きボムのタイミングを覚えなくてはいけないのはもちろん、クリア計画やリソース管理をしっかりしないと、最終面を見ることすらおぼつかない。そんな先入観でゲームを始めて、 案の定開幕早々、画面を埋め尽くす弾幕に襲われた。これはもうだめだと諦めてみれば偶数弾に助けられたり、明らかに自機を殺しにきている弾幕に囲まれて、今度こそもう駄目だろうとショットボタンに力を込めたら、敵の中ボスが撃墜されるのと同時に弾幕がコインに変わって、案外先に進めてしまった。

絶対に無理だろうという先入観でゲームを始めたロートルは、敵の弾幕に怯えながらもはげまされ、「もしかしたら俺はけっこうやれるんじゃなかろうか」なんて錯覚できた。うれしかった。

●上手でない人をはげます仕組み

もちろん怒首領蜂難度の高いゲームでもあって、まじめにやらないと中盤までしか進めないのだけれど、下手な人間が撃墜されて、「自分が下手だった」というミもフタもない感想が、20年経って「俺はもしかしたらまだまだやれたんじゃなかろうか」なんて希望に変わった。これはたぶん、ゲームをデザインする側が、それだけ進歩したからなんだろうと思った。

飛翔鮫や究極タイガーのデザイナーは、ある意味正直であったのだと思う。プレイヤーを驚かせるような敵弾の配置が行われた面は、そのまま難しい面だった。ゲームの序盤は敵弾も少なく簡単そうで、実際に簡単で、ゲームが進むと敵弾が増えて、見た目のとおりにゲームは難しく、「自分の実力ではここまでなんだな」という印象を、ゲームが裏切ることはなかった。

怒首領蜂大復活は、ゲームの序盤から、「弾幕」と形容される無数の敵弾がプレイヤーを出迎えて、下手は驚くその割に、撃墜されることなく先に進める。ゲームが進むに連れて、たしかに弾数も増えるのだけれど、「この面は難しい」という明らかな印象は隠蔽されて、あたかもこう、「たまたま」本気の敵弾に撃墜されてしまったような印象を受ける。上手でない人間は結局撃墜されるのだけれど、撃墜されても「自分の実力に許されたのはここまでだ」ではなく、「俺はもしかしたらもう少しやれる」という気分になれる。

最近のシューティングは、あくまでもn=1ではあるけれど、前半部分には上手でない人をはげますための仕組みがたくさん用意されているような気がした。上手な人は「攻略」すればいいのだろうけれど、そうでない人間も、ゲームデザイナーが意図したであろう自機の動きをぞらされることで、自然に「俺はけっこうすごかったんだ」という感想が味わえる。これは進歩なのだと思う。

●公文式と学習塾の違いについて

「数学オリンピックの選手には公文式出身が多い」とか、受験分野ですごく要領のいい人が、昔は公文式で勉強していた逸話を時々耳にする。伝統的で成功した学習手法だから、公文式はたぶん、実際に良くできていて、あの仕組みで成績を伸ばす人はたしかにいるのだろうけれど、システムが素直でよく作られていることと、システムの間口が広いのとは少し違う。

公文式のプリントは、最初の頃はすごくやさしい。すぐに終わるし、終わったら次のプリントに進める。ところがプリントを進めるほどに内容は難しくなって、難しいプリントは、容易なことでは終わらない。すごい子供はどんどん先に進んで、そうでもない子供は、自分の実力に見合ったどこかで足踏みをする。公文式のやりかたは、すごい人をもっとすごく、そうでもない人はそうでもないレベルにとどめおくやりかたでもあって、システムとしては正しくても、「上手でない」子供を学習の面白さに取り込む仕組みとしては、必ずしも正解ではないのだろうと思う。

たまプラーザの日能研には、「お前天才だね」を決まり文句にする理科の先生がいた。誰にでも「天才」を発行するその先生は、公文で天井にぶち当たった自分みたいな子供にも「天才」をくれて、あれから理科が大好きになった。お金支を払って授業を販売する学習塾は、授業がつまらなかったら学生がいなくなる。ものすごく頭のいい学生よりも、そこまでじゃない学生のほうが多いだろうから、そういう人達に「頑張れば俺いけるかも」と思わせるような仕組みを入れないと、もしかしたら塾には人が集まらない。

飛翔鮫とかTatsujinは公文式で、怒首領蜂大復活みたいな最近のシューティングゲームは学習塾を目指しているのではないかと思う。

●人を幸福にする歪み

「その人の実力を歪みなく反映する鏡」があったとして、それは果たして「いい鏡」と言えるのだろうか ?

歪みのないことは疑いようもなく正しいのだけれど、もう少し間口の広い、「いい歪み」を持った鏡というものが、別の正解として存在してもいいのではないかと思う。

下手には撃墜を返す昔のゲームは、下手にはあんまり面白くない。そうしたゲームをならば、イージーモードでプレイすれば楽しいかといえば、やっぱりこれもそうでもない。プレイヤーの実力を歪みなく反映するゲームにもイージーモードはあって、そうしたモードはいかにも下手に易しそうに見えて、実際に易しい。でもその優しさは、下手にとっては決して「優しい」ものではなくて、イージーモードで高次面まで進めても、「俺はすごいんだ」とは思えない。

昔のシューティングゲームを最終面まできちんと攻略して終えられる人は、公文式を最後までやり通せる子供にちょっと似ている。「すごい人はすごい」を増幅する装置として、昔のシューティングゲームや公文式はとてもよくできているのだろうけれど、上手でない人間は、その見通しの良さに挫折する。

下手をきっちり狩りにくるシューティングゲームを最終面まで遊び通せる人は、怒首領蜂の序盤からドットを見切り、弾幕を攻略し、最初から最後まで、自分の力でゲームを楽しむ。ゲームの下手は、たとえば飛翔鮫の中盤で挫折して、でも怒首領蜂なら中盤までは頑張って、下手をはげます弾幕に自機を誘導されながら、「俺は案外すごいんだ」なんて満足できる。

上手は見切り、下手は錯覚する。やっていることはぜんぜん違うのに、ドット単位の正確なレバー操作も、レバー握りしめ、目をつぶってお祈りしても、ゲームの序盤なら「初心者には同じような結果が出たように見える」。これは大きな進歩なのだと思う。

自分はそういう演出を、露悪的に「騙す」という言葉を使ってデザインした人を称えたいのだけれど、お金を支払った人を気持よく騙すための仕組みづくりが、ゲームの進歩を物語る上で、大切な側面でもあるような気がする。

執筆: この記事はmedtoolzさんのブログ『レジデント初期研修用資料』からご寄稿いただきました。



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