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「仕事とサッカーのどっちが大事なんだよ!」by上司(『それ自体が奇跡』第8話)

ゲキサカ / 2017年12月27日 20時0分

「仕事とサッカーのどっちが大事なんだよ!」by上司(『それ自体が奇跡』第8話)

30歳、結婚3年目、共働き。
夫は本気のサッカーを目指し、妻は違う男に惹かれ始めた。
初めて訪れる危機を二人は乗り越えられるのか!?
夢を追うすべての男女に贈る、話題の小説「それ自体が奇跡」をゲキサカで特別公開!


暴走の七月

 届く、と思ったボールに届く。頭を越されない。空中で相手フォワードと競り合う。自分の頭にボールを当てる。競り勝つ。
 どんなボールであれ、相手が狙ってくるなら必ず競る。邪魔をする。自由にプレーをさせてはいけない。シュートを打たせてはいけない。とにかく競ることが大事。
 競り合いは、たいていディフェンダーが勝つ。理由は簡単。有利だからだ。自分に向かってくるボールは対処しやすい。そのボールを自分たちのゴールから遠ざければいい。相手フォワードは、ゴールにボールを入れなければならない。的が遥かに小さい。だからディフェンダーが有利。
 だがいいフォワードは、一度のチャンスをものにする。そしてディフェンダーは、一度のチャンスをものにされただけですべてが台なしになる。そこまでゼロに抑えたことはほめられるべきだが、現実にはほめられない。失点したことを重く見られる。
 そうならないために、今日もおれは競る。一度も負けないつもりで競りまくる。体はだいぶ動くようになった。走り負けないようにもなった。拓斗とのコンビもよくなってきた。マークの受け渡しもスムーズにいく。意識しなくてもやれる。体が勝手に反応する。
 ウチは今四位。今日の相手は首位。上を目指すチームではない。去年までおれがいたような、一企業の部のチームだ。だからこそ、負けられない。長身のフォワードがいるが、足もとの技術はないので、そうこわくもない。自称百八十センチ、実は百七十九センチのおれよりも、五センチは高い。だがヘディングの競り合いでも負けない。ジャンプ力はおれのほうが上だ。ただ、ヘディングの際に頭を振ってくるから、気をつけなければいけない。ボクシングでもそうだが、頭と頭がぶつかると、その箇所は簡単にパックリ切れるのだ。血がかなり出る。ダラダラ流れもする。
 まあ、血が出るのはいい。経験ずみ。慣れている。試合中は昂っているので、痛みもそうは感じない。だがおれは百貨店の社員だ。頭に包帯を巻いたり眉の上に大きなガーゼを貼った状態で売場に立つわけにはいかない。それなら手足の骨折のほうがまだましだろう。頭や顔の傷はマズい。ケンカや暴力といった不穏な事態を連想させる。眉の上にガーゼの男から婦人服を買いたいとは誰も思わないだろう。
 とはいえ、試合中はそこまで考えない。考えるようではダメだ。まちがいなく、出足は鈍る。そこはしみついている。ケガをおそれたプレーこそがケガにつながることを、体が知っている。
 疲れの見える長身フォワードが競らなくなってきたので、おれは胸でトラップしたボールを足もとに落とし、中盤にフリーでいた明朗に長めのパスを出した。それがうまく通り、明朗は素早く前を向く。フォワードの新哉と圭翔が走りだす。ほぼ同時に、相手ディフェンスの裏へと抜ける。明朗がスルーパスを出したのは圭翔だ。おい! と新哉が声を上げる。こっちだろ、というわけで。
 ボールを受けた圭翔は、ペナルティエリア内へと進入する。そして相手センターバックを抜きにかかり、倒される。主審の笛がピッと鳴る。PKだ。後方、おれの位置からでもわかる。今のは完全なファウル。センターバックにはイエローカードが出された。レッドでもおかしくないが、イエロー止まりだ。
 PKはいつものように明朗が蹴る。と思いきや、明朗はキッカー役を新哉に譲る。ボールを差しだすことで、その意を示す。新哉の、おい! におそれをなしたわけではない。単純に、配慮したのだ。ここはリーグ八試合めでいまだ無得点のフォワード新哉に蹴らせようと。情けをかけるのでなく、きっかけを与えようと。
 新哉がそれを断った。ボールを受けとらず、ペナルティエリアの外に出ていく。だったら自分が、とばかりに圭翔が歩み寄る。
「明朗、いけ!」との指示が、ベンチの監督から出る。
 開幕からここまで、新哉のプレーは決して悪くない。やや強引なきらいはあるが、荒々しく見えて実は繊細なボールタッチなど、さすがと思わせる部分も多い。だがやはり数字はもの足りない。元プロ選手が下部リーグでそれ。本人も自覚しているだろう。
 新哉に断られたことでの動揺も少しはあったはずだが、明朗は冷静にPKを決めた。キーパーを左に跳ばせ、ボールをゴール右隅に蹴り入れた。
 その後もウチは攻めつづけた。ピンチというピンチはなかった。そして試合終了の笛を聞いた。一対〇。リーグの第三戦と同じ、PKによる一点のみでの勝利。だがあぶなくはなかった。むしろ手応えがある試合だった。それでウチは一気に二位に上がった。昇格に近づく、大きな勝利だ。
 試合後に明朗と新哉がもめるようなこともなかった。そこは大人。どちらもがさらりと流した。ミーティングで監督がその件に触れることもない。次だぞ、次、と監督は言った。今日勝って次負けたら何の意味もない、ゆるめるなよ。ういっす、と皆が応じた。
 勝った。この試合に出てよかった。そう思った。出られない可能性もあったのだ。
 婦人服部は、百貨店のなかで最も規模が大きい部署だ。売場面積を見ればわかる。店によっては、三フロア、四フロアを占めたりする。催事も多い。七月と十二月には、婦人全体での大催事がある。その大催事と今日の試合が重なった。もちろん、初めからそうなることはわかっていた。催事は週単位でやるし、一日は必ず日曜が入る。重ならないわけがない。
 その催事中は勘弁してくれよ、と中尾さんには言われていた。仕事に出ろよ、ということだ。シフトを決める前までは、まあ、どうにか、などと言ってごまかしていた。決めるときに、出られません、とはっきり言った。
「は?」と言われた。「おいおい、それはなしだろ。仕事とサッカーのどっちが大事なんだよ。どっちで給料をもらってるんだよ」
「すみません」と謝った。「それは本当に申し訳ないと思ってます」
「思ってるなら、出ろよ。行動で示せよ」
 黙った。何も言えなかった。返す言葉がないということを、行動で示した。水越専務に認められてますから、とはもちろん言わなかった。それだけは言わないつもりでいた。中尾さん自身、不可との判断は下さなかった。その程度のことで上に盾つく気にはならなかったのだろう。
 翌月曜。その中尾さんを含む売場の全員に謝った。先輩後輩を問わず、一人一人にだ。何人かには、勝ったんですか? と訊かれ、おかげさまで、と答えた。なかには、二位じゃないですか、と言ってくれた人もいた。黒須くんだ。
 大催事なので、月曜とはいえ忙しく、倉庫に行かされたりもしなかった。開店からずっと売場でお客さまに応対した。だが中尾さんにはこう言われた。
「田口くん、次の催事の売場図面は?」
「あ、今日じゅうには。昼休みに仕上げます」
「朝のうちに出してくれないと。今日が期限てのはそういう意味だよ」
「あぁ。はい」
「もし手直しが必要だと、こっちが大変なんだ。残ってやんなきゃいけないから。こんなことは言いたくないけどさ、黒須くんなら前日には出してくれるよ。で、手直しも必要ない。置けないスペースにレジを置くなんてミスもしないよ」
「すみません」とやはり頭を下げるしかなかった。
「できる奥さんに負けないようがんばれよ」
 その発言は明らかに上司としてアウトだが、言えなかった。そんなことを言ったら自分がみじめになる。迷惑はかけてしまったが、試合には勝ったからいい。そう思うことにした。
 数日後、珍しく綾と帰りが一緒になった。その週はシフトが同じだった。ともに早番。チームの練習がある火、水、木でもない。金曜日。綾はほぼ定時に上がるが、おれは何だかんだで後ろへずれ込むことが多い。だがその日はすでに催事も終わっており、急ぎの仕事もなかったので、定時の十分後には店を出た。
 東京から乗った電車が同じだった。乗っているときは気づかなかったが、ホームから階段を下りるときに気づいた。少し先に綾がいた。後ろ姿だが、そこは妻。すぐに目がとらえた。一瞬、どうしようかと思った。そう思ったことにあせった。妻だ。同じ家に住んでいる。そこに帰る。当然、一緒に帰るべきだろう。寄っていき、声をかけた。
「おぅ」
 綾は振り向いて言った。
「あぁ。同じ電車?」
「うん」
「早いじゃない」
「何もなかったから」
 改札を通り、駅を出る。海側、みつば南団地へと歩く。
「買物は?」と尋ねる。
「いい。ご飯は、あり合わせのものでどうにかする」
 綾と並んで歩くのは久しぶりだな、と思う。そう言ってみようかな、とも思う。先に言われる。
「出勤を断ったの?」
「え?」
「出勤を断って試合に出たの? こないだ」
「あぁ。断ったということでもないよ。一応、試合の日は休んでいいと言われてるし」
 中尾さんには言わなかったが、綾にはそう言った。すでに何度も言っていることだ。
「普通、言うよね」
「ん?」
「仕事に出ろって。大きい催事なんだし」
「でも」
「強く断ったんでしょ? 絶対に出ませんて」
「そんなことないよ。強く言われただけ。強く言い返してはいない」
「そう聞いたけど」
「誰に?」
「いろんな人に」
「いろんな人って、誰?」
「婦人関係の人。あと、ほかの売場の人からも」
「ほかの売場って。何だ、それ」
 話に尾ひれがついて広まっているらしい。それがフロアを越えて綾にも伝わったのだ。
「誰が言いだすんだろうな、そういうことを」
 綾は応えない。応えなかったのだとおれが判断するに充分な間をとってから、言う。
「普通の人はおかしいと思うんだよ、やっぱり」
「何を?」
「会社員が一番忙しいときに会社を休むことを。会社を休んでほかのことをすることを」
「普通の人って、誰?」
「ごく普通にきちんと働いてる、ごく普通の人。世の中の大多数」
 同じ家に向かって歩く二人の会話じゃないな、と思う。おれたちはこれから同じ家に帰り、同じテーブルで夕食をとり、同じ部屋で寝るのだ。なのに、同じ家に向かって歩く今の時点でこの感じになっている。こんなことが、もう半年も続いている。
 七月。さすがに暑い。まだ梅雨は明けないが、雨はそう降らない。渇水がどうのとテレビのニュースでやっている。湿度が高い。空気そのものがベタついている。この先梅雨が明けても、ベタつきは残る。
 八月に二週ほどリーグの中断期間があるが、それだけだ。あとはずっと試合がある。夜の試合もあるが、昼の試合もある。ここからが勝負だ。まさに体力勝負。おれ自身、乗りきれるかわからない。試合時間が七十分だった去年のようにはいかないかもしれない。
 おれが試合に出なかったらチームはキツい。そもそもおれ自身が、退団した小林恭太のバックアップ要員だったのだ。だからセンターバックの選手層は薄い。おれに何かあったら、ボランチコンビの光と至のどちらかをセンターバックに下げるだろう。そしてボランチには、中盤ならどこでもやれる二宮要を入れる。
 綾がすぐ隣にいるのに、こうしてサッカーのことを考えている。マズいな、と思う。
「サッカー、そんなに楽しいの?」と訊かれる。
「楽しいからやってるわけじゃないよ」と答える。
「じゃあ、何でやるのよ」
 答えない。何でやるのか、よくわからない。やりたいから、という小学生レベルの答しか思い浮かばない。綾にしてみれば、納得できない答だろう。
 公園のわきを通る。遊具はブランコとすべり台と鉄棒しかない、みつば第三公園。街灯の明かりに引き寄せられるのか、小さな羽虫が何匹も飛んでいる。その一匹が口に飛びこんでくる。反射的につばを吐く。綾とは反対側の路肩に。そして歩きつづける。しばらくして、綾が言う。
「つばを吐かないでよ」
「虫が口に入ったんだよ。ちっちゃい虫」
 綾は黙っている。理由を言うのが遅すぎた。うそだと思っているのだろう。
「でも、吐かないでよ」
 虫を飲みこめと? とは言わない。いや、ほんとだよ。ほんとに虫が入ったんだよ。とも言わない。何のことはない。つばを吐いてすぐに、虫! と言えばよかったのだ。そんな簡単なことさえ、できないようになっている。それを言わなかったことで、逆にうそを言ったようになっている。
 みつば南団地が見えてくる。A棟からD棟までしかない、こぢんまりした団地だ。五階建て。一棟に四十世帯。D棟の五〇一号室が、田口家だ。結婚してからずっと住んでいる。子どもができるまでは住むつもりでいる。
「ちょっとはわたしのことも考えてよ」
「考えてるよ」
「どこがよ。ちっとも考えてくれないじゃない。職場で家族のそんな話を聞かされるとどんな気分になるか、わかる?」
「聞き流せばいいよ」
「ウチの人は仕事のことも考えてます、仕事のことも考えてボールを蹴ってますって言えばいいの? それとも、ウチの人はサッカーが好きなんです、仕事よりも好きなんですって言う?」
「何も言わなきゃいい。笑ってやり過ごせばいい。何でもないだろ、そのぐらい」
「ほんとに何でもないと思う?」
「思うよ」
 久しぶりの、何もない日。残業も練習もない日。体には疲れがたまっている。左ひざに、痛みとまではいかない違和感がある。今日はゆっくり休もうと思っていた。みつばから四葉までのランニングもなしにしようと思っていた。だが、家にいる気にはならないだろう。綾と向かい合って食事をする気にもならないだろう。綾もならないはずだ。やはり走るしかない。綾が夕食の支度をしているうちに出て、走る。綾はおれを待たず、先に食事をすませるだろう。そしておれが戻り、食事をし、食器を洗う。同じ家に住んでいながら、すれちがう。
 いろいろな理屈をすっ飛ばして、おれはこんなことを言う。よせよせ、言うな、と思いつつ、言ってしまう。
「おれだって楽じゃないんだよ」
「なら、やめればいいじゃない」
 やめる。もちろん、サッカーをだ。わかっていながら、おれは一瞬、仕事を、と考える。綾はすぐ隣にいるのに、距離があるように感じる。ただの狭い歩道なのに、深い溝を挟んで歩いてるように感じる。
 二人、みつば南団地の敷地に入り、D棟へ向かう。
 子どもができるまではここに住む。
 子ども、できるだろうか。


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▼第1話から読む
○30歳サラリーマンがJリーガーを目指す!?(第1話)
○ある日突然、夫が本気のサッカーを始めたとき、妻は……(第2話)
○入社13年目でやらかしてしまった痛恨のミス(第3話)
○30歳のDF、試合で体が動かない!(第4話)
○試合の翌日、起きられずに会社に遅刻!?(第5話)
●エピソード一覧へ


<書籍概要>

■書名:それ自体が奇跡
■著者:小野寺史宜
■発行日:2018年1月9日(火)
■版型:四六判・272ページ
■価格:電子版 500円(税別・期間限定)、単行本 1,450円(税別)
■発行元:講談社
■kindle版の購入はこちら

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