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元プロFWがついに魅せる…!(『それ自体が奇跡』第14話)

ゲキサカ / 2018年1月2日 20時0分

元プロFWがついに魅せる…!(『それ自体が奇跡』第14話)

30歳、結婚3年目、共働き。
夫は本気のサッカーを目指し、妻は違う男に惹かれ始めた。
初めて訪れる危機を二人は乗り越えられるのか!?
夢を追うすべての男女に贈る、話題の小説「それ自体が奇跡」をゲキサカで特別公開!


 相手フォワードの肩にもたれるようにジャンプする。ボールはおれの頭に当たる。競り勝つ。
 ディフェンダーは、一つ一つ小さな勝ちを積み重ねていくしかない。たった一つの負けがチームの負けにつながるから、とにかく負けないこと。負けたら、素早く対処にまわること。味方には遠慮なく頼ること。挽回しようと一人で動きまわらないこと。
 ディフェンスは、基本、受けだ。相手の攻撃を受け止める。はね返す。ただ受けるだけでもダメ。能動的な受けが必要だ。矛盾するようだが、しない。相手を誘うこともある。あえて攻めさせることもある。
 相手にうまく攻められたときは、ヤバい、と思う。一方で、さあ、来い、とも思う。身が締まる。しびれる感覚がある。プレー中は、ほかのすべてを忘れる。忘れようとしなくても忘れる。明日は催事の準備かぁ、と思いながら相手フォワードにスライディングタックルを仕掛けるようなことはない。
 最終戦。負けも引き分けも許されない試合。おれはスタメンに名を連ねた。幸い、黒須くんの風疹は治った。土曜からでなく、金曜から出勤してくれた。中尾さんはもう少し休んでもいいと言ったが、黒須くん自身がだいじょうぶだと言った。診察した医師も、金曜からはだいじょうぶでしょう、と言ったそうだ。
 ご迷惑をおかけしてすみませんでした、と黒須くんは売場の全員に謝った。おれ個人にはこう言った。日曜は、ほんと、すみませんでした。ホームページで見ましたけど、負けちゃったんですね、チーム。おれがいても勝てなかったよ、と返した。ダメなときはダメなんだ。チーム自体の調子も底だったし。とにかく、治ってくれてよかった。売場にエースがいてくれなきゃ困るよ。
 チームは底。まさにそのとおり。司が退団し、おれがキャプテンになった途端、底。このまま沈みつづけるわけにはいかない。ウチはそんなチームじゃない。今が底なら、あとは浮上するだけだ。センターバックのコンビを組む拓斗には、アップのときに言った。前半ゼロなら、後半はセットプレーのたびに上がるから。
 試合前、ミーティングのときには、キャプテンとして、ワントップのフォワード新哉にも言った。
「変な意味にとらないでほしいんだけど。元プロの凄みを見せてくれよ」
「変な意味って何すか?」と新哉。
「点をとってないからどうこうってこと」
「あぁ。気にしてませんよ。点をとることだけがフォワードの仕事じゃないし。と、まあ、ここはそんな優等生発言をしときます」
「ガラの悪い優等生ですよね」と圭翔が言い、
「うるせえよ」と新哉が言って、
 皆が笑った。
「ほんと、頼むぞ」とこれは監督。「このリーグでは、お前らは紛れもなく優等生だ。上に行かなきゃいけない。優等生の力を見せてくれよ」
「ういっす」と全員の声がそろった。
 前半は、本当に〇対〇で終わった。先制点がほしかったが、無理はしなかった。カウンターを食って逆に先制されるのを警戒したのだ。
 そして後半の立ち上がり。ついに新哉が見せた。魅せた。明朗にワンツーを返すふりをして体をくるりと反転させ、相手センターバックをかわした。そのままペナルティエリアに進入し、シュートを打とうとしたところで、詰めてきたもう一人のセンターバックにつぶされた。完全なファウル。ウチにPKが与えられた。明朗がボールを拾い、差しだした。自身が得たPK。新哉はすんなり受けとった。ベンチの監督も、明朗が蹴れとの指示は出さなかった。
 新哉がペナルティマークにボールをセットした。短めの助走距離をとる。ピッと主審の笛が鳴った。新哉はためをつくらなかった。キーパーとの駆け引きもなし。向かって左に、インステップで速いボールを蹴った。キーパーはそちらへ跳んだが、触れなかった。ボールはゴールに突き刺さった。チームメイトが歓喜の声を上げた。おれも上げた。新哉自身は上げなかった。走りまわりもしなかった。うしっ! とばかりに両拳を腰の高さにかまえた。それだけだ。
 そこにこそ、おれは元プロの凄みを見た。動じないこと。自分を保つこと。これはとても重要だ。プロに最も必要な資質はそれではないかとさえ思う。フィジカルは鍛えられるが、メンタルは鍛えられない。いや、鍛えられなくもないが、限度はある。
 勝たなければならない試合で、後半の立ち上がりに先制点。一対〇。いい形ではある。が、これはこれで難しい形でもある。残りは四十分。その一点を守りにかかるのか。もう一点をとりにいくのか。監督が選んだのは、後者だ。といっても、無理はしない。チャンスがあれば狙う。前半と似た戦い方だ。
 相手はもちろん攻めてきた。攻めてきてくれた。そうなれば、こちらにもカウンターのチャンスが生まれる。新哉と圭翔と明朗の三人でどうにかできる。だがそこはリーグ最終戦。相手も奮闘した。捨て身で点をとりにきた。
 おれ自身は、ケガをしたくなかった。会社員だからではない。ここで勝っても、まだ次があるからだ。関東社会人サッカー大会。そこでも勝たなければならない。準決勝を勝ち、二位にならなければならない。
 そして後半三十分になるところで、ボランチの光がファウルをとられた。ペナルティエリアのすぐ外。フリーキック。ちょっといやな位置だ。壁は五枚つくった。おれもそこに入った。左からも右からも三番め。真ん中だ。両手で股間を守る。顔はさらす。人間だから、顔に速いボールが来たら、反射的によけてしまうこともある。よけるなよけるな、と自分に言い聞かせる。初めから顔に来るつもりでいろ。むしろ当たりにいけ。
 相手のフォワードが蹴る。ボールは顔には来なかった。おれの左方に飛び、視界から消えた。直後に相手チームの何人かが声を上げた。後半立ち上がりにおれらも上げたそれ。歓喜の声だ。振り向くと、ダイヴしたキーパーの潤がピッチに横たわっているのが見えた。ボールはその向こう、ゴールのなかに転がっていた。やられた。
 一対一。同点。相手のキックをほめるしかない。壁の位置が悪かったとも思えない。一番左には、おれより背が高い新哉がいた。ボールは、たぶん、その左を巻いて、ゴールの上の隅ぎりぎりに入ったのだ。誰のせいでもない。切り換えるしかない。
 残りはアディショナルタイムも含めて二十分。今がスタート。ここからが本当の勝負だ。もう一点とられたらウチは終わる。だから、まずは守る。そのうえで、攻める。多少は無理もする。試合の流れを見て、いけると思えば一気にいく。
「勝負! 勝負!」と監督からも声がかかる。
 観客は数十人。プロの試合のような応援はないので、指示はすべて聞こえる。相手ベンチからの指示までもが聞こえる。もう一つ狙え、がそれだ。もう一つ狙ってくれるならありがたい。守りに入られるよりはいい。ウチとしても互角の勝負ができる。そして互角の勝負ができるなら。ウチはこのリーグでは優等生。負けない。
「前行くわ」とおれが言い、
「オッケー」と拓斗が返す。
 セットプレー時に限らず、チャンスがあれば前線に上がる、ということだ。後ろは頼む、ということでもある。半年一緒にプレーしたから、もうわかっている。拓斗になら頼める。
 左腕に巻いたキャプテンマークを少し上げる。ポンポン、とそれを右手で叩く。おれはキャプテンだ。チームのためなら何でもやる。人に頼ることがチームのためになるなら、いくらでも頼る。
 とはいえ、まずは守った。無理に上がったりはしない。サイドバックもセンターバックも、オーバーラップだのビルドアップだのばかりが注目されるが、大事なのは守備だ。何よりも守備。守備をきちんとこなしたうえで、攻め上がる。仕事をきちんとこなしたうえでサッカーをやるのと同じだ。
 後半四十分あたりで、コーナーキックをもらった。そこは上がった。新哉とともにゴール前でターゲットになるつもりだった。ヘディングシュートを狙う。無理なら、明朗や圭翔の足もとにボールを落としてもいい。
 右からのコーナーは、利き足が左の悠馬が蹴る。左足だと、ゴールに近づいていくボールが蹴れるからだ。実際、悠馬はそんなボールを蹴る。おれは自分についたマークを外し、ゴールから離れたほうへ走る。シュートは無理、こぼれ球を狙う。
 新哉がキーパーと競る。パンチングでボールをはじかれる。それを相手ボランチが拾う。ドリブルする。一気に形勢逆転。ウチがカウンターを食う。かと思ったら、右サイドバックの智彦が出足のいいスライディングタックルでそのボールを奪いとる。相手ボランチは転ぶが、笛は鳴らない。今のはきれいなタックル。ファウルじゃない。ナイスジャッジ。
 智彦は素早く立ち上がり、悠馬にパスを出す。おれ自身はダッシュで自陣へ戻ろうとしていたが、とどまる。引き返す。ここが勝負どころだと感じる。走りつつ、左手を挙げる。さあ、カウンター、と思ったところでボールを奪われた相手が混乱しているのがわかる。あらためて上がり直したおれにマークはつかない。さっきついていたセンターバックがつこうとするが、後手にまわる。遅れる。
 オフサイドラインぎりぎりで智彦からのパスを受けた悠馬が、今度は利き足でない右でクロスを入れる。来た。間に合う。おれは走りながら跳ぶ。どんぴしゃり。空中で、はっきりとボールが見える。とれるときはそうなのだ。ヒットする直前、ボールが止まって見える。相手センターバックも詰めてくる。が、関係ない。おれの間合いだ。
 額の真ん中にボールを当てる。お手本のようなヘディング。子どものころに教わった。正しい場所に当てれば痛くない。衝撃も少ない。体のほかの部分が、受けた力を分散させてくれるのだ。キーパーは跳ばない。やや左に動くだけ。ボールはゴールに飛びこむ。その軌跡もはっきり見える。カピターレ東京に一点が入る。
 おれは倒れない。よしっ! と声を上げ、そのまま、ゴールから遠ざかるように左へと走る。そしてコーナーの辺りまで行き、また戻る。走りまわる。チームメイトが寄ってくる。明朗が抱きついてくる。圭翔も抱きついてくる。ピッチに倒される。あちこちを叩かれる。乗られる。体の自由を奪われる。世の中で一番気持ちのいい自由の奪われ方がそれ。
 だがそこまで。すぐに立ち上がる。おれはキャプテン。切り換える。両手をパンパンと叩き合わせて、言う。
「あと五分! 抜くな!」
 自陣へと駆け戻る。皆も続く。
 あとの五分は守った。アディショナルタイムも守った。
「守備! 守備!」と監督もそれだけを言った。
 アディショナルタイムは長かった。五分以上あった。集中は切らさない。フォワードの新哉も含めた全員で守りきった。
 ピッ、ピッ、ピーッと主審の笛が鳴った。二対一。勝利。カピターレ東京は東京都社会人サッカーリーグ一部で第三位。関東社会人サッカー大会に進むことが決まった。
 試合後のミーティングで、立花さんによその結果を聞いた。昨日まで二位のチームが、三位のチームに勝ったらしい。後者はそれで四位に落ちた。ウチも、引き分けで終わっていたらアウトだったのだ。勝点一の差で。ウチがコーナーキックをもらってよかった。智彦が相手ボランチからボールを奪ってくれてよかった。悠馬のクロスがおれに通ってよかった。本当に、よかった。それ以外に感想はない。
「いやぁ。あの鬼ヘディングはヤバいっす。マジ、鬼っす」と圭翔には言われた。
「あんな武器があるならもっと早くにつかってくださいよ」と明朗には言われた。
「そしたらウチはもっと楽に突破できてたかも」と拓斗には言われた。
 監督はこうだ。
「貢が田中マルクス闘莉王に見えたよ」
 リーグ最終戦で初得点。確かにうれしかった。だが新哉もそうできたことのほうが、ずっとうれしかった。これでチームは上向くはずだ。新哉のワントップ。最後の最後で、いい結果が出た。おれのゴールはボーナスみたいなものだ。ディフェンダーとしては、むしろ崩されて点をとられなかったことのほうがうれしい。
 ミーティングの最後に、立花さんが言った。
「みんな、今日は喜ぼう。ただし今日だけな。ウチはまだ何も達成してない。やっとスタートラインに立てただけだ。祝勝会は関東の決勝を戦ったあとにしよう。そのときは、浴びるほど飲もう」
「ういっす」
 リーグ戦の最終日。といっても、試合が終わってしまえば、ただの日曜。明日も仕事だ。家に帰らなければならない。今日ぐらいは歳が近い明朗や伸樹あたりと軽く飲んでもいいかと思ったが、そこは自制した。立花さんが言ったとおり、関東二部への昇格を決めるまでは待つべきだろう。
 シャワーを浴び、成島さんのマッサージを受けて、試合場をあとにした。それが午後五時。グラウンドの敷地から出て、通りを歩いていると、後ろから声をかけられた。
「おつかれさま」
 振り向き、立ち止まる。春菜だった。会社の同期、横井春菜だ。
「え? 何で?」
「今日も観に来たの。最終戦だから」
「あぁ、そうなんだ。どうも」
「すごいね、田口くん。劇的。ちょっと感動した」
「ゴールはたまたまだよ。運がよかった」
「さすが得点王。衰えてないね」
「衰えてるよ。今年はこれが初得点だし」
「リーグのレベルがちがうからでしょ」
「まあね」と言い、続ける。「何、待っててくれたの?」
「うん。今日も声はかけないつもりだったんだけど。何か、ほんとに感動しちゃって。試合のことをよく覚えてるうちに話したいなと思った。お茶ぐらい飲める?」
「うん」おれは自ら言う。「せっかくだから、ビールにしよう。おごるよ。一時間待たせたから」
「それはいいよ。わたしが勝手に待ったんだし」
「言っといてくれれば、シャワーもマッサージも、もうちょっと早くすませたのに」
「元マネージャーがそれをやっちゃダメでしょ」
「まあ、そうか」
 飲まないはずが、飲むことになった。これぐらいはいいだろう。サッカー選手として、チームのキャプテンとして、抜くわけではない。一会社員として抜くだけだ、同期と。
 駅前まで歩き、居酒屋に入った。ごく普通のチェーン店だ。日曜の午後五時すぎ。さすがに空いていた。四人掛けのテーブル席に通してもらえた。春菜もそれでいいと言うので、中生を二つ頼む。空いているためか、お通しと一緒に、わずか一分で届けられた。枝豆と焼鳥の盛り合わせを頼み、乾杯する。
「関東大会進出、おめでとう」
「ありがとう」
 ガチンとジョッキを当てる。ビールを飲む。一口で止めるつもりが、二口三口四口と飲む。結局、ジョッキの半分ほどを一気に飲んでしまう。
「あぁ」と声を洩らす。「うまいわ」
「確かにうまそう」と春菜が笑う。「わたしがビール会社の社員なら、今の、CMにつかいたい」
 ビールはキンキンに冷えている。人によっては冷えすぎだと言うだろう。日によってはおれも言うかもしれない。だが今日はこれでいい。うまい。逆に言えば、ぬるくたってうまいだろう。とりあえず、第一関門は突破したのだから。
「あの場面であのヘディングを決めちゃうんだね。さすが田口くん」
「ボールがよかったんだよ。いいとこで、ばっちり合った」
「練習してるから合うんでしょ」
「いや。そんなには練習してない。おれは土曜の前日練習に出られないから、合わせる機会もそうないんだ」
「うまい人たち同士だから、合わせられるんだね」
「ほんとにたまたまだよ」
「田口くん、キャプテンマーク巻いてたよね」
「巻いてた」
「なったの? キャプテンに」
「うん。前のキャプテンが海外に転勤しちゃったから」
「そうかぁ。そういうこともあるんだね」
「おれが試合に出るようになったのも、レギュラーのセンターバックが北海道に転勤したからだよ」
「何とも言えない話だね。転勤した人たちも、それまであったサッカーが、急になくなっちゃうんだ」
 そう。急になくなっちゃうのだ。勤める会社の都合で。それはツラい。
「綾さんは、観に来ないの? 試合」
「日曜は休めないし、サッカーに興味もないから」
 言ってみて、ちょっと痛みを覚える。試合中は忘れていた綾のことが頭に、というか心に戻ってくる。最近はこうなることが多い。プレー中に一度忘れる分、戻ってきたときの反動が大きい。
 まず枝豆、次いで焼鳥の盛り合わせが届く。食べる。うまい。が、のんきな感じがする。今こうして春菜と向き合ってビールを飲んでいることが奇妙に思える。
 わたしも好きにするから。そう言って、綾は好きにした。天野亮介なる男との関係自体は疑ってない。おかしな関係になったのなら、天野亮介もカピターレ東京をビジネスにはしないだろう。綾の夫を自分のビジネスに絡めはしないだろう。リスクが大きすぎる。
 一度めは有楽町の映画館で、二度めは銀座の映画館。綾はそんなことまで説明した。そこでしか上映していなかったのだと。どちらも店から近い。銀座のほうは、特に近い。綾だけが休みだった日。おれは店にいたはずだ。ラックを引いたり、階段を駆け上がったりしていただろう。二度めの映画のあとに行ったという韓国料理屋は、おれも行ったことがある。豚丼がうまい。
 おれが訊くと、綾は映画名までスラスラ答えた。どちらも、知らない映画だった。いわゆるミニシアター系らしい。おれとは観ることがなかった類の映画だ。
「そんなのが好きなんだ?」と、つい的外れな質問もした。
「天野さんが好きだったの」と綾は答えた。
 一瞬、あせった。天野さんのことが好きなの、という意味かと思って。ちがった。天野さんがその映画を好きなの、という意味だった。
「でもすごくおもしろかった」と綾は続けた。
 正直だな、と思った。やはり的外れに。二人の関係は疑ってない。だからショックは受けなかったかと言うと、そんなことはない。ショックは受けた。かなり強いやつを。おれと綾は夫婦だ。にもかかわらず、綾にはおれ以外の相談相手がいる。おれと綾は、みつば南団地のD棟五〇一号室に住んでいる。にもかかわらず、妻が困ったときに相談する相手は、その外にいたのだ。夫自身が相談ごとの原因だから、と言ってしまえばそれまでだが。
 ビールを飲み干し、お代わりを店員に頼む。頼んでしまってから、春菜に言う。
「あ、いいよね?」
「もちろん」と春菜は言ってくれる。「飲みなよ、めでたいんだから。料理ももっと頼もうよ。今日はだいじょうぶなんでしょ? 綾さんも、飲んでくると思ってるよね?」
 思ってはいないかもしれない。だがそれはあとづけでどうにでもなる。勝ったからみんなと飲むことになって、と言えばいい。
 二杯めのビールもやはりすぐに届けられる。ついでに、シーザーサラダとジャーマンポテトも頼む。ビールを一口飲んで、言う。
「綾と、うまくいってないんだよ」
「そうなんだ」と春菜はあっさり言う。
 何となくは察していたのかもしれない。俊平の披露宴でのおれたちを見たことで。
「おれがサッカーをやってることを、あんまりよく思ってない」
「それは、今年から?」
「そう。すごく反対された。今もされてる」
「まあ、するかもね。奥さんなら」
「チームに入ることを決めてから、話した。それもよくなかった」
 天野亮介のことは言わない。言えば誤解されるような気がしたのだ。二人の関係を疑っているのだろうと。
「去年まで部のマネージャーをやってたわたしでさえ驚いたもんね。田口くんが今のチームに入るって聞いたとき」
「驚いたんだ?」
「驚いたよ。よくやるなぁ、と思った。綾さん、大変だなって。女なら、ほとんどの人が思うでしょ。会社のサッカー部とはわけがちがうもんね。わたしだって、自分が結婚しててその相手がいきなりそんなことを言いだしたら、反対するかも。正直、人ごとだからこんなふうに応援できるとこもあるし」
 人ごと。まあ、そうだ。人は案外簡単に他人を応援する。本腰を入れて応援しなくていいなら、応援するよ、と簡単に言える。実際には何もしなくても、応援している気分にはなれる。そう考えれば、春菜のこれは正真正銘の応援だ。試合まで観に来てくれたのだから。
「尊敬はするけどね、田口くんのこと。普通、やれないもん。職場からの理解だって、そんなには得られないだろうし」
「チームメイトはみんなそうだからね。やらせてもらえるだけありがたいよ。というか、おれの場合は強引にやっちゃってるんだけど」
「だとしても。そういうのを、よその売場の人にまで言うことはないよね」
「ん?」
「それは上司としてどうかと思う」
「どういう意味?」
「わたしの上司の国吉さんね、田口くんのとこの中尾さんと同期なの。中尾さん、よく不満を洩らしてるみたい」
「おれの?」
 春菜はうなずく。そして通りかかった店員にレモンサワーを頼む。店員が去るのを待って、口を開く。
「田口くんへの不満というよりは会社への不満なのかな。特別待遇はマズいだろっていう」
 特別待遇。日曜日に休ませること。
「まあ、それを今度はわたしに洩らしちゃう国吉さんも国吉さんだけどね。で、それをさらに田口くんに洩らしちゃうわたしもわたし。でも、そういうのは知っておくべきかと思って」
「綾にも言われたよ。そう見られるのはしかたないかな。催事場で一人で一日百万売るとか、そんなことができるなら別だろうけど、できないからね」
「会社って、めんどくさいね。自分はできると思ってる人ほどそういうこと言うし」
 そうだろうか。例えば黒須くんは明らかにできる人だが、そんなことは言わない。陰でも言わないだろう。もしかすると、黒須くんは自分をできる人だと思ってないということかもしれない。本当にできる人は、そんな無粋なことは思わないのかもしれない。
 相変わらずの速さで届けられたレモンサワーを飲んで、春菜が言う。
「わたしもさ、いろいろあって、今年はちょっとしんどい。しんどくなって、初めて気づいたよ。あぁ、そうか、サッカー部のマネージャーが息抜きになってたんだなって」
「部は部だけど、会社から離れた感じはあったもんな」
「そうそう。店から抜け出した感じね。外の空気を吸えて、お日さまにも当たれるっていう。会社は同じでも部署はちがう人ばかりだったし。いい具合に安心感だけがあったよね」
「確かに」
「田口選手には、もの足りなかったかもしれないけど」
「いや、そんなことは」
「ない?」
「なくはない」
「わたしも、日曜を休みにしてもらえるなら、カピターレ東京のマネージャーをやりたいよ。でも無理か。選手ならともかく、マネージャーじゃ。しかも田口くんに続いて二人め。許すわけないよね、会社が」
 許さないだろう。たとえ許したとしても、女性社員なら、職場での風当たりはなお強いかもしれない。特に同性からの風当たりが。親しい同期だからセクハラにもならないだろうと思い、言う。
「横井はさ、まだ結婚しないの?」
「別れちゃった」
「え?」
「二ヵ月前かな」
「そうなの?」
「そう。いろいろあったっていうのは、それ」
「あの彼氏だよね? 大学時代から付き合ってた」
「うん」
 大学時代から。約十年。長い。おれと綾が知り合ってから今までより、長い。
「何で?」とつい訊いてしまう。
「転勤。向こうの」
「どこ?」
「大阪。悪い話ではなかったの。本社が大阪の会社だから」
「二ヵ月前っていうと、七月の転勤?」
「ううん。転勤は四月。別れたのが七月。三ヵ月は遠距離でがんばった。無理だった。その前に十年付き合ってるからだいじょうぶかとも思ったんだけど、甘かった。試してみて、すぐにわかったよ。あぁ、やっぱり離れたらダメなんだなって」
「そうなっちゃうんだ?」
「なっちゃう。一緒に来てほしいって言われたの。異動の辞令を受けたあと」
「それは、プロポーズ?」
 うなずいて、春菜は言う。
「わたしも時間をかけて考えた。でも踏みきれなかった。仕事はやめたくなかったし、今さら東京を離れたくないっていうのも、ちょっとはあって」
「そうか」
「若松くんの披露宴のとき、結構キツかったよ。別れてすぐだったから。田口くんと柳瀬くんには言っちゃいたかったけど、言えないじゃない。場も場だし。披露宴の席で、別れた、はないよね」
「言ってもよかったんじゃないの? 研吾も別れてるわけだし」
「それはだいぶ前じゃない。別れた直後だと、言えないよ」
 そうかもしれない。おれだって、あのときは思った。綾とうまくいってないことを悟られないようにしなきゃな、と。
 三杯めのビールを頼む。試合後の昂りや綾とのあれこれや春菜に聞いたあれこれが、胸のうちで混ざる。アルコールがそれをさらにかきまわす。試合に勝ったのに、何かに負けたような気分になる。
「そういえばさ」と春菜が言う。「入社二年めぐらいかな。わたしたち、ちょっとあやしくなりかけたことがあるよね」
「あやしいって?」
「付き合いかけたというか何というか」
「付き合いかけてはいないよ」
「でも田口くんがそんなようなことを言ってくれたの。何ならどうか、みたいなこと。わたしに相手がいたから、そうはならなかったけど。でもね、考えたことは考えたよ」
「ほんとに?」
「うん。そのころは、ちょうどあぶない時期だったの。大学のときから付き合ってる彼氏彼女って、たぶん、一度はそうなるのよ。就職して、ガラリと環境が変わるから。それぞれが新しい人とも知り合うし」
「まあ、そうだろうね」
「実際、半分以上はそこで別れちゃうんじゃないかな。で、わたしたちもそうなりそうだったわけ。そこへの田口くんのそれだったから、結構真剣に考えた」
「真剣に考えてる感じはなかったけど」
「そりゃそうでしょ。見せないよ、そんなふうに。見せたら、田口くんだって思うじゃない。彼氏がいるのに考えるのかって。わたしに彼氏がいるのは知らないでそう言ったんだから」
「そうか。じゃあ、惜しいとこまではいってたわけだ」
 少しずつ自分がゆるんでいくのを感じる。どんなに飲んだところで、おれは明日もきちんと出社する。起きる時間は遅くなったとしても、JRみつば駅までアスリートダッシュをかけてどうにか通勤電車に乗りこむ。それを知ってるからこそ、もういいや、と思う。
 もしも春菜と結婚してたら、どうなっていただろう。そんな、中学生のようなことを考える。サッカーが好きな春菜。結婚しても、部のマネージャーは続けたかもしれない。その部が解散したあと。春菜はおれのカピターレ東京への入団に反対しただろうか。さっきは反対するかもと言っていたが、最後には賛成してくれたのではないだろうか。少なくとも、入団したあとも反対するようなことは、なかったのではないだろうか。
 綾と天野亮介のことが頭に浮かぶ。天野亮介の顔など知らないのに、浮かぶ。映画って、何だよ。おもしろかったって、何だよ。天野亮介。カピターレ東京への支援を自社に提案し、見事に実現させた男。優秀なのだろう。おれよりもずっと仕事ができるのだろう。だがおれよりサッカーは下手だろう。一対一を百回やったら、おれは一回も抜かせないだろう。いや、それとも。昔Jリーグのユースチームか何かでサッカーをやっていて、実は相当うまいなんてこともあるのか。一対一を百回やったら、おれを五十一回抜き去ったりもするのか。サッカーの経験者だからこそ、カピターレ東京に興味を持った、のか?
 ビールをさらに飲み、正面の春菜を見る。春菜もおれを見ている。視線が合う。そらさない。アルコールがおれのストッパーを外しにかかっている、と思う。それならそれでいい、とも少し思う。七年も前とはいえ、一度は誘った相手。気が合うと感じた相手だ。わざわざ試合を観に来てくれた相手。その後一時間もおれを待ってくれた相手だ。
 日曜の午後七時。時間なら、まだある。




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○入社13年目でやらかしてしまった痛恨のミス(第3話)
○30歳のDF、試合で体が動かない!(第4話)
○試合の翌日、起きられずに会社に遅刻!?(第5話)
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<書籍概要>

■書名:それ自体が奇跡
■著者:小野寺史宜
■発行日:2018年1月9日(火)
■版型:四六判・272ページ
■価格:電子版 500円(税別・期間限定)、単行本 1,450円(税別)
■発行元:講談社
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