夫婦で久しぶりの休日は天皇杯(『それ自体が奇跡』第20話)
ゲキサカ / 2018年1月8日 20時0分
30歳、結婚3年目、共働き。
夫は本気のサッカーを目指し、妻は違う男に惹かれ始めた。
初めて訪れる危機を二人は乗り越えられるのか!?
夢を追うすべての男女に贈る、話題の小説「それ自体が奇跡」をゲキサカで特別公開!
さすがに十二月は寒い。外となると、特に。でも案外気持ちいいものだな、と思う。まずこの広さがいい。周りにはたくさん人がいるが、それでも広い。開けた感じがする。都市部でこの感覚を味わえることはあまりない。いや、田舎でもないだろう。スタジアムというもの自体が、やはり特殊なのかもしれない。
グラウンドでは、選手たちが走りまわっている。一人一人が豆粒大になってしまうかと思ったが、そんなこともない。少なくとも小豆ではない。大豆。
メインスタンドの真ん中辺り。観やすい席だ。ゴールの裏側だったりしたら、ちょっと観づらいだろう。そろいのユニフォームを着てチームの旗を振るサポーターの人たちに交ざる自信もない。
応援の声は大きい。プレーに対する歓声も大きい。声だけでスタジアムが揺れる感じがする。こんなに広いのにそうなることが不思議。一人一人の声が合わさって一つの音の塊になるのも不思議。グラウンドに立つ選手たちには、どんなふうに聞こえるのだろう。これほどの音でも、プレーに集中すると聞こえなくなるものなのだろうか。
その選手たち。一チームが十一人であることは知っている。本当かどうか、数えてみた。ちゃんと二十二人いた。だいじょうぶ。ごまかされてない。その二十二人のなかに貢がいるわけではない。貢はすぐ隣にいる。左隣。わたしと同じお客さんとして、試合を観ている。
走りまわっている選手たちは皆、プロだ。つまり、プロチーム同士の試合。天皇杯、というのだ。その準決勝。よりにもよって、年末に行われている。十二月二十九日。決勝は、一月一日に行われるらしい。言われてみれば、毎年元日の午後にはNHKでサッカーをやっているような気がする。あれがこれだったわけだ。
元日に試合。選手たちは大変だ。選手の奥さんも大変だろう。選手自身はともかく、奥さんは、決勝の前に負けたら負けたでいいやと、ちょっとは思っちゃったりしないのだろうか。まあ、しないか。
貢は試合をじっと観ている。サポーターではないから、声を上げたり手を叩いたりはしない。わたしにプレーの解説をしたりもしない。たまに、あぁ、とか、おぉ、とか言うくらいだ。あとは、うまいな、とか、そこ出す? とか。わたしに言うのではない。完全な独り言。
年末。婦人も紳士も催事がある。催事は水曜に始まり火曜に終わることが多いが、年末は関係ない。たいていは二十三日の天皇誕生日に始まり、大晦日に終わる。そして一月一日だけが、店としての休みになる。二日からはもう営業だ。ウチは一日は休むが、よそは休まないところもある。昔はほとんどのデパートが三が日すべて休んでいたらしい。夢みたいな話だ。
十二月は書き入れどき。休みはあまりとれない。特に最後の週は、とれても一日。なかにはとれない人もいる。その休みを、貢と合わせてとった。貢のほうから言ってきたのだ。
「休みの日、何かしようか」
「何かって?」
「そこまでは考えてないけど」
考えてから言いなさいよ、と思った。でもそれが貢だ。そういうところがよかった。かまえてない感じがして。女は常にサプライズを期待している、などと妙な勘ちがいをする男よりはずっといい。本気でサッカーをやる、などと言いだす妙なサプライズがなければもっといい。
「久しぶりに映画でも観る?」
そう言ったのはわたしだ。ちょっと危険だとは思った。わたしが天野亮介と映画を観に行ったことを、貢が忘れてるはずがないから。でも、ミニシアター系の映画を貢に観せたい気もしたので、冒険した。
「年末は混んでないかな」と貢は言った。
「それもそうだね」と同意した。
座れないことはないだろうが、確かに混みそうだ。暖房のムンムンする熱気もやや苦手。そこで気分を変えて、言ってみた。
「サッカーとかは、もうやってないもんね」
やってないと思い、そう言った。貢たちのサッカーと同じく、Jリーグのサッカーも終わったはずだ。テレビのニュースでもやっていた。どこだかのチームが優勝したと。だが貢は言った。
「やってるよ。天皇杯」
リーグ戦ではなく、カップ戦だという。要するにトーナメント方式の大会らしい。東京都の代表を決める予選には、カピターレ東京も出た。貢は入団したばかりだったので、出場はしていない。チームは早い段階で敗退したそうだ。
「まあ、サッカーはいいか」
そう言った貢に、わたしはこう言った。
「サッカーでもいいよ」
だから、わたしたちは今ここにいる。二十九日の準決勝。二人とも休めた。チケットは貢がとった。どうせならいい席にしよう、と言って、ここになった。貢の試合を観るのでなく、貢と一緒に試合を観ることになるとは思わなかった。貢自身、思わなかっただろう。
先月の、あの夜のことを思いだす。カピターレ東京が負けて、今年のシーズンが終わったあの日。貢は朝早くから神奈川県に出かけていった。試合は午前十一時からなので、午後一時には終わったはずだ。延長戦とかそういうのがあったとしても、一時半。
早番だったわたしは、午後八時前に帰ってきた。貢はいなかった。夕食はいらないと言ってたから、一人、あり合わせのものですませた。試合に勝ったのだと思った。それで祝勝会をやっているのだろうと。ただ、それにしても遅かった。勝ったのなら、翌日曜も試合があるはずなのだ。祝勝会をやるにしても、お酒をたくさん飲んだりはしないだろう。
九時になるのを待って、電話をかけてみた。
「どうした?」と訊いた。
「負けたよ」と答がきた。
「そう」としか言えなかった。
屋内にいる感じではなかったので、こうも訊いた。
「今どこ?」
「外。海」
どこの海かと思ったら、みつばの海だった。帰ってはいたのだ。そこで一人で飲んでいるという。貢はポツリと言った。
「おれ、何か、キツいわ」
言葉がすんなり耳に入ってきた。あぁ、そうなのか、とすんなり思えた。
「ねぇ、だいじょうぶ?」
「もうちょっとしたら帰るよ」
電話は切れた。もうちょっと。それは何分なのか。何故、すぐ帰るよ、ではないのか。
一人にはしておけない。そんな気がした。もう夜は寒い。寒くなくてもダメ。そんな気もした。わたしはパーカーを羽織り、みつば南団地を出た。そして海に向かった。
貢のランニングコースはだいたいわかっている。防砂林と堤防のあいだの道を、浜の端から端まで走り、それから高台の四葉へと向かうのだ。信号を待って、広い道路を渡り、海岸ゾーンに入った。防砂林の辺りはちょっとこわい。だから堤防の海側を歩いた。砂浜があって、コンクリートのなだらかな段がある。そのコンクリートの部分だ。
貢はあっけなく見つかった。その堤防に座り、ぼんやり海を見ていた。近づいていくと、気配を感じたのか、わたしを見た。そして、かなり驚いた顔をした。何で驚くのよ、と思った。妻ですよ、と。
途中のコンビニで買ったらしく、貢は本当に缶ビールを飲んでいた。おじさんみたい、と言ったら、ホームレスの? と返してきた。つい笑ったが、ちょっとドキッとした。
わたしは今のように貢の隣に座った。あれこれ話をした。久しぶりに、まとまった話を。
「試合に負けるのって、そんなに悔しいの?」と訊いてみた。
「悔しいな」と貢は答えた。「何でこんなに悔しいんだよってくらい、悔しい」
でもやるのだという。
「負けるとわかってても、やる?」とも訊いてみた。
「負けるとわかってる試合なんてないよ」
そんな答がきた。ちょっと意外だった。負けるとわかっててもどうにか勝とうとする、のではない。負けると思わない、のだ。その感覚は、何というか、新鮮だった。あぁ、だからなのか。漠然と、そんなことを思った。
貢にもらって、わたしも缶ビールを飲んだ。ぬるかった。でもおいしかった。間接キスだな、と思った。中学生男子の発想だ。そして最後にはこう思った。来てよかったな。
試合の前半が終わると、貢が温かいコーヒーを買ってきた。紙カップに入ったコーヒーだ。冷めないうちに飲んだ。
「あったかいね」とわたしが言い、
「うん」と貢が言う。
「でも寒いね」
「うん」
「試合をしてる選手は、寒くないの?」
「初めだけかな。すぐに感じなくなるよ」
後半が始まった。試合は白熱する。前半でもうすでに高まっていた熱が、後半はさらに高まる。選手たちが走る。躍動する。ほとんど走らない二人のゴールキーパーさえもが、躍動する。横っ跳びし、芝の地面に落ちる。自分に向かって思いっきりボールを蹴ろうとする相手に正面から突っこんでいきもする。
貢と同じディフェンダー、守りの人たちも、体を張る。ボールが高く上がると、必ずヘディングしにいく。空中で相手と体をぶつけ合う。バランスを失い、やはり地面に落ちる。相手の頭と自分の頭がぶつかることもある。それで地面に倒れることもある。でもすぐに起き上がる。またボールが上がる。またヘディングにいく。貢もこんなことをやってるのか、と思う。知ってはいたが、自分の目で見て、あらためて思う。
観客たちほぼ全員の目がグラウンドに向けられている。そんななか、わたし一人が貢を見る。こちらを見ずに、貢が言う。
「ごめん」
聞こえたが、聞き返す。
「何?」
「チームに入ることを、綾に相談するべきだった」
言ったあとも、貢はこちらを見ない。その視線を追って、わたしもグラウンドを見る。
「こないだ。海にいたとき」と貢が言い、
「うん」とわたしが言う。
「綾が今ここにいてくれたらなぁ、と思った。ほんとに来てくれたから、びっくりした。来てくれと自分が電話で言ったのに、それを忘れたのかと思った」
「酔ってたもんね」
攻めていたチームのシュートが外れ、観客たちから、あぁっ! と落胆の声が上がる。その声が収まるのを待って、貢は続ける。
「うれしかった。泣きそうになった」
「泣かなかったじゃない」
「泣きそう、で止めた」
あのときは、わたし自身、貢があっけなく見つかったことに驚いた。見つかるんだな、と思った。見つかるまで探したろうな、とも。
「もう一つ、謝らなきゃいけない」
「何?」
「春菜と二人で飲んだ」
「え?」
さすがに貢を見た。貢もわたしを見る。
「リーグ戦の最後の日。試合を観に来てくれた」
横井春菜。つぶれてしまったサッカー部のマネージャー。貢の同期だ。店の通路で会えばあいさつする。若松俊平の披露宴でも会った。
貢がグラウンドに目を戻す。
「どうにか勝って、次に進めることが決まったから、おめでとうを言うために残ってくれてたんだ。試合中は、いることに気づかなかったけど」
「呼んだわけじゃないの?」
「呼ばないよ」
わたしもグラウンドに目を戻す。選手たちが走っている。ボールを蹴ったり、跳んだり、転んだりしている。
「ビールでも飲もうとおれが言った。で、飲んだ。正直に言うと、ちょっとだけ、よくないことも考えた。でも、そんなことにはならなかったよ。おれ自身がそれを選ばなかったんだと思ってる。これはほんとに」
わたしと天野亮介のことがあるから、貢もそのことを言ったのだろうか。亮介のことがなければ、言わなかったのだろうか。言っただろうな、と思う。言わないのが優しさだと考える男もいるだろう。でもそれは打算だ。都合のいい言い訳でしかない。そしてわたしは、貢がそんな器用さを持ち合わせてはいないことを知ってる。
「おれさ」
「うん」
「能力が低いんだよ」
「何?」
サッカーのことを言ってるのだと思った。だからプロにはなれなかった、というようなことを言ってるのだと。
「今年一年、サッカーも仕事も本気でやったからこそわかった。残念だけど、仕事の能力は低いみたいだ」わたしの返事を待たず、貢は続ける。「何ていうか、効率よくやれないんだよ。経済の仕組みとか流通の仕組みとかも、いまだによくわからない」
「そんなの、わたしだってわからないよ。すべてわかってやってる人なんていないでしょ」
「だと思う。ただ、わかってなくても、やれる人はやれるんだ。ちゃんとポイントをつかんで。それができないんだよ、おれは」
自分ができる社員であることをアピールする人はたくさんいる。でも貢はその反対。自分ができない社員であることを明かす。妻に。
「初めはさ、やれないことはないだろうと思ってたんだ。でも、じきに気づいた。あぁ、これはやれてないんだなって。売場の後輩なんかを見てるとさ、できる人はちがうなと思うよ。バランスがいいというか、やりくりがうまいんだよね。手をつけられる仕事から始めて、いつの間にかすべてを片づけてる」
「売場の後輩って、えーと、黒須くん?」
「そう。サッカーをやらせても、彼ならいいディフェンダーになるよ。いや、ディフェンダーというよりはボランチタイプかな。前も見られるし、後ろも見られる」
「でも」とわたしは言う。「貢のことをほめてくれる人も多いよ。いつも自分からあいさつをしてくれるとか、エレベーターをつかわないで階段を駆け上がってるとか」
それを聞いて、貢は笑う。
「そのくらいしか、できないからね」
「それだって能力だよ。みんながみんなできるわけじゃないよ」
神奈川での試合に負けて今シーズンが終わったあと、貢は上司の中尾マネージャーに詫びた。と、あとで本人からそう聞いた。日曜日に何度も休んだことを謝ったのだと勝手に思っていたが、それだけではなかったのかもしれない。
「綾は、優秀なんだな」
「え?」
「販促の落合さんが言ってたよ、ほんとは綾もほしかったって」
「何それ」
「言っちゃいけなかったのかな、これ。でも言っちゃったよ。自分の奥さんが優秀なのは、気分がいい」
さっきシュートを打ったのではないほうのチームがシュートを打つ。ボールはゴール上部の横棒に当たる。ダン! という音が響く。またしても、あぁっ! と落胆の声が上がる。わたしたちの前列、わたしの右ななめ前に座っている男女も、同じく声を上げる。男女。たぶん、六十代の、ご夫婦。ともに白髪頭。そろいのユニフォームを着ている。今シュートを打った側と同じ黄色いユニフォームだ。
「あぁ、残念!」と奥さんが言い、
「惜しい惜しい。次決めろ!」とダンナさんが応援グッズの小さな旗を振る。
奥さんがダンナさんを見て笑う。何かがおかしいからじゃなく、ただ笑う。ダンナさんの背番号は10、奥さんは8。後ろから見ると、108。煩悩の数だ。
日本語に夫婦という言葉があってよかったと、二人を見て思う。この二人を、husband and wifeと分けて呼びたくない。二人が加藤さんだとしても、Kato and his wifeとは呼びたくない。
そろいのユニフォームを着てサッカー観戦をするご夫婦。二人がこれまでどんなふうに過ごしてきたのかは知らない。今どんな暮らしをしてるのかも知らない。勝ち組や負け組という言葉は好きじゃない。その分類に何の意味があるのかと、聞くたびにいやな気分になる。でもそんなものが本当にあるのなら。勝ち組はこんな人たちなのだと思う。
わたしと貢は、こうなれるだろうか。
別に勝ち組にはならなくていい。せめて老夫婦にはなりたい。
好きだから、結婚した。結婚したからには、やっていく。
子どもだって、いずれはほしい。二人できちんと育てたい。
「仕事はできないけど」と貢は言う。「入社してよかったと思ってるよ。綾と会えたから」
グラウンドでは、攻めていた選手が守っていた選手にボールを奪われる。攻守が入れ替わる。奪ったチームが、ポンポンと小気味よくボールをまわす。そしてそれまでの膠着状態がうそであったかのようにあっけなくゴールが決まる。
ウォォォォーッと今日一番の大歓声が上がり、スタンドが揺れる。大げさじゃなく、本当に揺れる。拍手が鳴り、指笛も鳴る。周りでも何人かが立ち上がる。前列のご夫婦も立ち上がる。ダンナさんは旗を振り、奥さんは手を叩く。黄色いユニフォームが揺れる。煩悩も揺れる。わたしも何だかうれしくなる。黄色チームのにわかサポーターになる。
入社してよかったと思ってるよ。綾と会えたから。
プロポーズの言葉、結婚しよう、と同じ。ひねりはない。でも。
貢にしては、サプライズ。
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▼第1話から読む
○30歳サラリーマンがJリーガーを目指す!?(第1話)
○ある日突然、夫が本気のサッカーを始めたとき、妻は……(第2話)
○入社13年目でやらかしてしまった痛恨のミス(第3話)
○30歳のDF、試合で体が動かない!(第4話)
○試合の翌日、起きられずに会社に遅刻!?(第5話)
●エピソード一覧へ
<書籍概要>
■書名:それ自体が奇跡
■著者:小野寺史宜
■発行日:2018年1月9日(火)
■版型:四六判・272ページ
■価格:電子版 500円(税別・期間限定)、単行本 1,450円(税別)
■発行元:講談社
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