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三谷幸喜さん「『12人の優しい日本人』のヒット、こういう芝居をつくればいいと実感」【その日その瞬間】

日刊ゲンダイDIGITAL / 2024年9月24日 16時3分

三谷幸喜さん「『12人の優しい日本人』のヒット、こういう芝居をつくればいいと実感」【その日その瞬間】

三谷幸喜さん(提供写真)

【その日その瞬間】

 三谷幸喜さん
 (脚本家、映画監督/63歳)

  ◇  ◇  ◇

 最新映画「スオミの話をしよう」が公開中の三谷幸喜さん(63)。ターニングポイントとなった瞬間は、来年の再結成が話題の東京サンシャインボーイズ、最初のヒット公演という。映画や新刊のお話と併せて話してくれた。

 ──「12人の優しい日本人」(1990年)の公演が大きな出来事だったんですね?

三谷 そうです。実は劇団は最初の頃に一度解散しているんですよ。初めは大学の後輩や友達でつくって、本気で演劇で食べていこうという人たちではなかった。学生時代の思い出づくりに芝居をやろうという素人集団でした。お客さんは当然入らない。でも、それでもよかった。僕が大学を卒業した頃に解散しました。

 その後、テレビの放送作家を始めるあたりから、次は役者を志している人たちを集めてやってみようと決めて、結局、解散まで残ったメンバーが集まって第2次の東京サンシャインボーイズが出来上がったんです。

西村まさ彦は当時は劇団文化座にいて、僕がお芝居を見に行って誘いました

 ──メンバーが活躍される方ばかり。

三谷 後輩の友達が「面白いやつがいる」と紹介してくれた松重豊は2本ほど出演して去っていきましたが、彼の紹介で入ったのが梶原善でした。善が紹介してくれたのがミュージシャンの甲本ヒロトさんの弟の甲本雅裕と阿南健治。相島一之も後輩の友人の紹介。その相島が「銭湯で出会った面白い男」と誘ってきたのが近藤芳正。亡くなられた伊藤俊人だけが、僕と同じ日芸出身でした。

 西村まさ彦は当時は劇団文化座にいて、僕がお芝居を見に行って誘いました。小林隆はテアトルエコーの養成所で僕が書いたお芝居に出演した時の縁。

 僕の放送作家のギャラを使って毎回公演を打っていました。再結成後も、お客さんはなかなか入らなかった。あの頃の小劇場演劇というと、つかこうへいさんか野田秀樹さんの影響を受けた劇団がほとんど。僕みたいにニール・サイモンを意識したオシャレな喜劇を目指しているところなど一つもなかった。

 ニール・サイモンは学生時代から大好きでした。学校で見に行かされる新劇の難しい芝居はどれも苦手で、唯一気に入ったのがサイモンの「おかしな二人」。杉浦直樹さんと石立鉄男さん主演で。杉浦さんはテレビドラマ「あ・うん」の頃から大ファンで、それで余計にハマったのかもしれない。

 でも、そういった喜劇をいくらつくっても、当時の風潮とは真逆の作風なので、当然観客には受け入れられない。僕の脚本の技術も足りなかったんだと思います。再結成しても状況は変わらなかった。そんな頃に、芝居を見たテレビ関係者から深夜ドラマ「やっぱり猫が好き」のお話をいただけて、運よく脚本家としてデビューできました。それがきっかけで、ドラマのスタッフが芝居を見てくれるようになり、その頃から少しずつお客さんが入り始めた。

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