セクハラ報道に逮捕…地に落ちた「女子バレー3冠監督」のその後【東京五輪への鎮魂歌 消えたオリンピアン】

日刊ゲンダイDIGITAL / 2020年6月30日 9時26分

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ロス五輪準決勝で中国に負けた山田監督は憮然(左は江上由美)/(C)共同通信社

【東京五輪への鎮魂歌 消えたオリンピアン】山田重雄さん(下)

 1976年のモントリオールオリンピック。日本女子バレーボールチームは、決していい状態ではなかった。緊張する松田紀子は、消化不良を起こして食事はおかゆ。ソ連との決勝戦直前には、岡本真理子はトイレでパンツの紐がほどけずに焦り叫び、前田悦智子は洗面所でコンタクトレンズを失くした……。

 ハプニングは起こったものの、監督の山田重雄は冷静だった。両国の6人がコートに散らばったときだ。日本選手は一斉にベンチの山田を見てほほ笑んだ。ソ連のメンバーは、顔ぶれもポジションもシミュレートし、練習してきたものとまったく同じだったからだ。

 結局、日本はソ連を寄せ付けず、セットカウント3―0。1時間ほどで金メダルを奪取し、中継していたNHKアナの西田善夫は「泣かない優勝です……」と表現した。エースの白井貴子は、監督・山田に言った。

「オリンピックって面白くなかった。練習通りやったら、金メダルだもん」

 山田はこう語った。

「簡単に金メダルを取ったからね。選手もそうだけど、帰国後もあまり喜んでもらえなかった。判官びいきの好きな日本人は、強すぎると感動しない」

 山田は、74年世界選手権と77年ワールド杯でも優勝。“3冠監督”となり、84年のロスオリンピックでは銅メダルを獲得した。

 一方、日立監督としても日本リーグで18度も日本一となった。ただし、当時の山田は、私に語っている。

「大企業の日立は、何百億円もの宣伝費を動かしている。いくら女子バレーがテレビで放映されてメディアが取り上げても、か弱き腕には期待していないんだな。『君たちはバレーという特技を持っているんだから、目いっぱい青春を謳歌しなさい』って感じ。私が日立本社で重役に会えるのは年に1回。それも優勝し、挨拶に行くときだけだね」

 88年ソウルオリンピック(4位)後に山田は代表監督を辞任し、日立に戻った。90年代に入るとサッカーのプロ化(93年)に触発され、日本バレーボール協会常務理事でもある山田は、日本リーグ加盟チームもプロ化すべきだと奔走。メディアを通じて強く主張した。

 だが、協会も親会社の日立も他チームもプロ化に大反対。私が山田を取材したときは監視役として協会職員が同席した。

 そして、前後して好事魔多し。週刊誌上で日立での選手指導の際にセクハラを行っていることを大きく報じられ、山田は常務理事を退任。日立も解雇を通達し、バレーボール界から姿を消した。

 その後の山田は、株取引の違反で逮捕されるなど、晩年は悲惨だった。98年2月5日、66歳で亡くなった際は、葬儀は親族のみで行われ、バレーボール関係者の姿はなかった。

 生前、山田は言っていた。

「ソ連のバレー関係者に『山田、バレーを辞めても友人を少なくとも4人はつくっておけ』と言われた。つまり、死んだときにひつぎを担ぐ4人をね」

 没後8年目の2006年7月。発祥の地・アメリカのバレーボール殿堂入りが発表され、山田重雄の名誉は回復した。

▽やまだ・しげお 1931年、静岡県生まれ。東京教育大(現筑波大)卒業後に高校教員を経て女子バレーボールの日立監督に就任し、日本リーグ優勝18回。五輪監督は68年メキシコ大会銀、76年モントリオール大会金、84年ロサンゼルス大会銅。2006年にバレーボール殿堂入り。

(岡邦行/ルポライター)

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