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日産トップガンが語る GT-Rの真実(1)聖地ニュルブルクリンクを克服せよ

&GP / 2017年6月17日 21時0分

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日産トップガンが語る GT-Rの真実(1)聖地ニュルブルクリンクを克服せよ

最高出力600馬力、最高速度315km/h、そして、市販車開発の聖地にして世界最高難度のサーキットとしても知られるドイツ・ニュルブルクリンクでのラップタイム“7分08秒679”…。

そんな驚異的なパフォーマンスにより、ポルシェやフェラーリがしのぎを削る“スーパーカーリーグ”のレギュラーメンバーとなった「NISSAN GT-R」。

2007年にデビューを飾った現行のR35型GT-Rは、高度なエンジニアリングに加え、入念なテストに基づく改良を施すことで、進化を重ねてきたことはご存知の方も多いでしょう。その性能は、今や世界中の誰もが認めるところですが、乗り手やシチュエーションを選ばない走りの柔軟性もまた、スポーツカーファンを驚かせました。

クルマの開発には多くのエンジニアが携わっていますが、その成果をチェックし、進むべき方向を示す重要な役割を担っているのが“テストドライバー”。日産自動車では、運転技術や経験、試験可能な最高速度により、その資格は厳密にグレード分けされています。そして、頂点に当たる“AS”資格を持つのは、数えるほどの人数しか存在しないのです。

300km/hオーバーの最高速度を誇るR35の開発には、いうまでもなく、AS資格を有する日産自動車の“トップガン”が深く携わっていますが、彼らの仕事を見る、知るという機会は、まずありません。そこで、GT-Rの開発と進化を支えるふたりのトップガン、加藤博義さんと松本孝夫さんに、第2世代GT-Rと呼ばれるR32型、R33型、R34型の「スカイライン GT-R」の思い出と、現行R35 GT-Rの開発秘話をうかがいました。今回はその第1弾。

●右/加藤博義(かとう・ひろよし) 1957年、秋田県生まれ。日産工業専門学校を経て、1976年に日産自動車へ入社。車両実験部に配属され、「セドリック」、「フェアレディZ」ほかの実験を担当。1988年、シャシー実験課在籍時に、R32 スカイラインGT-Rを担当。その後、R33、R34、Z33フェアレディZの開発・テストを担当する。そこでの成果が認められ、2003年、厚生労働省により選ばれる「現代の名工」を受賞。2004年には「黄綬褒章」も受章している。  ●左/松本孝夫(まつもと・たかお) 1957年、栃木県生まれ。自動車ディーラーのメカニックなどを経て、1978年に日産自動車へ入社。810型「ブルーバード」の耐久性実験などを経て、1993年に商品性実験に移動し、総合評価車両競争力分析を担当。1997年からは、車両商品性実験部でR34、Z33、S15「シルビア」など、主にスポーツスペシャリティカーを担当。現在は、R35、Z34フェアレディZの開発ドライバーを担当する。プライベートでのレース歴が長く、ラリーやダートトライアルのほか、N1耐久レースなど、多くのレースにも参戦・活躍している

ーー今もなお高い人気を誇る“第2世代GT-R”ことR32、R33、R34スカイライン GT-Rといえば、ニュルブルクリンクで実施した本格的なテスト、開発が話題になりました。加藤さんが初めて現地でテストを行われたのは、いつ頃だったのでしょうか? また、現地のファーストインプレッションはどのようなものでしたか?

加藤:初めてニュルでテストを行ったのは、1988年のことです。当時、私は日産自動車・村山工場のテストコースで仕事をしていました。R32 GT-Rがデビューしたのは1989年ですから、発表までもう1年もないというタイミングでしたね。現地の第一印象は…本当に悔しいくらい走れなかった、というものでした。

現地へ持ち込んだのは、外板に偽装を施した試作車で、R32スカイラインのモノコックを使ってはいるのですが、試作部門がデザイン画を描き、先行して発売されたS13型「シルビア」に見えるよう仕立てられたクルマでした。遠目に見ると、ちょっと太ったS13、といった車両です。

このテストカーを、最初は現地のドライバーに運転してもらったのです。当時の私は、ニュルブルクリンクという名も「聞いたことがある」くらいでしたし、何しろ1周21kmもあるコースのレイアウトを全く知りませんでしたからね。今では目を閉じてでも、なんていうとさすがにオーバーですが、臆することなく走れるようになりました、でも1発目の時は、コースイン直後から度肝を抜かれました。

ニュルは、ピットをスタートするとすぐに下りになるんです。2km過ぎにフックスルーレ(Fuchsrohre)という勾配4%くらいの結構な下り坂があるのですが、そこを現地のドライバーは全開でいくんですよ。当時の日本人の感覚からすると、200馬力オーバーのクルマで下り坂を全開、なんて考えたこともなかった。まぁ初めて来た日本人に対して「自分の腕前を見せつけてやるか」なんてパフォーマンスもあったとは思うのですが…。

私はその時「エンジンブレーキを使って下っていくんでしょ?」と思っていましたが、彼は2速、3速って全開で加速していくんですよ。「こいつ、何考えてるんだ!?」と、本当に驚きましたね。

松本:当時、私は栃木のテストコースに所属していました。R32スカイラインについては開発末期から携わりましたが、現在の商品性実験の所属ではありませんでした。

ーー当時の日産自動車には複数のテストコースがあったのでしょうか? また、テストドライバー同士の交流などはあったのですか?

加藤:日産自動車が初めて設けたテストコースは、神奈川の追浜事業所にあるコースです。今は存在しませんが、東京・武蔵村山にあったテストコースは、スカイラインや「グロリア」を生産していた旧プリンス自動車の村山工場内にありました。もちろん、私が入社した1976年には、もう日産自動車になっていましたけどね。あとは、1960年代末に竣工した栃木工場内にもテストコースがありました。

追浜と村山はクルマで2時間くらいの距離にあるので、テストでの相互交流も始まっていました。でも、村山には当時、まだまだプリンス生粋の人が大勢いたんです。こちらも、フェアレディZやブルーバード、セドリックとガチンコでぶつかるクルマが多くあり、本家というプライドもあるから、結局はなかなか相容れませんでしたね(笑)。

その後、会社全体のテストコースを見直す動きがあって、私は1980年に村山工場へと転勤になったのです。一方、栃木のテストコースは、1周6.4kmの高速周回路を備えるなど、当時としては世界屈指の規模を誇りました。ですので、フェアレディZや「プレジデント」といった高速タイプの車種は栃木で、FF車や商用車系は村山でといった具合に、分担してテストを行うことになったのです。その頃の私は、810型、910型のブルーバードや「レパード」などを担当していました。

日産自動車の栃木工場とテストコース

ハンドリングをチェックする村山のコースにはアップダウンもあったのですが、基本的にはセカンドギヤのスピード領域。ですから、ニュルの高速っぷりには、本当にビックリしましたよ。

ーーやはりニュルは、想像以上に過酷なんですね。ドイツをはじめとするヨーロッパの自動車メーカーは、いつ頃からニュルでテストを行っていたのでしょうか?

加藤:ニュルで最も古くからテストを行っていたのはBMW。その次がポルシェだと聞いています。日産自動車が訪れるようになった頃には、すでに欧州メーカーの多くがテストを行っていました。でも、ニュルブルクの村の中に自社のガレージを構えているのは、BMWくらいでしたね。

ニュルブルク村の入口から500mくらいのところに“BMW Mテストセンター”があるんです。村に住んでいる人がガレージを建てるのは問題ないのですが、ニュルブルク村は日本でいうところの景観保護区域になっていて、外部の人間には簡単に建築許可が下りなかったんです。2000年以降は規制がだいぶ緩くなりましたが、それでもガレージを村の中に建てるのは大変なんですよ。日産自動車は、ニュルの村から離れた隣の隣の村、ポルシェは手前の隣村、トヨタは方角違いの隣村といった具合に、すべて村の外にあるんです。

意外に思われるかもしれませんが、メルセデス・ベンツは2000年頃まで、ニュルでテストを行っている姿を滅多に見かけなかったんです。ニュルでテストを行うようになって、村の中にガレージを建てようとしたみたいですが、場所を確保できなかったみたいですね。結局、近隣に工業団地ができたタイミングで、メルセデス・ベンツとフォルクスワーゲン、アウディもガレージを構えるようになりました。

ーー自動車メーカーがニュルでの車両開発を本格化させたのは、ここ20年ほどのようですが、日産自動車ではどなたが最初に、ニュルでのテストを提案されたのですか?

加藤:その話をする前に、まずはクルマの歴史をたどる必要があるかもしれませんね。スカイラインといえば、“ハコスカ”、“ケンメリ”という3世代目、4世代目のモデルが数々の伝説を残しました。しかし、“ジャパン”という愛称で呼ばれた5世代目のC210辺りから、その神通力が通じなくなりつつあったのは事実です。R31の開発責任者は、当初、かの有名な櫻井 眞一郎(※1)さんでしたが、体調を崩され、途中で櫻井さんの右腕だった伊藤修令(※2)さんにバトンタッチされたのです。

“ハコスカ” スカイライン GT-R(KPGC10)

“ケンメリ” スカイライン GT-R(KPGC110)

“ジャパン” スカイライン(C210)

※1/櫻井 眞一郎(さくらい・しんいちろう) 1929年、神奈川県生まれ。横浜国立大学機会工学部卒業後、清水建設を経て1952年に、たま自動車へ入社。たま自動車は後に、プリンス自動車工業へと改称し、1966年に日産自動車と合併。1957年に発売された初代スカイラインから設計を担当、以降、2世代目のS50系から6世代目R30までスカイラインの開発責任者を務める。7世代目のR31開発中に病に倒れ、開発責任者の役目を右腕の伊藤修令氏に引き継ぐ。病からの回復後、オーテックジャパンの初代社長に就任したほか、スカイラインミュージアムの館長に就任するなど、精力的に活動を続けた。2011年、死去
※2/伊藤修令(いとう・ながのり) 1937年、広島県生まれ。広島大学工学部卒業後、プリンス自動車に入社。初代スカイラインのほか「ローレル」や「マーチ」など、幅広いクルマの開発を担当。桜井 眞一郎氏の後を受け、7世代目R31スカイラインの開発末期から開発責任者となる。8世代目R32スカイラインでも開発責任者を務め、GT-R復活を指揮した。後にオーテックジャパンの常務取締役、日産自動車のモータースポーツ部門であるニスモのテクニカルアドバイザー、オーテックジャパンの顧問などを歴任

“7th” スカイライン(R31)

R31スカイラインは、ローレルとシャーシモノコックを共有していて、トヨタの「マークII」を追いかけていました。ローレルと同じシャーシを使うことでクルマも大きくなっていましたし、セールス的にも伸びなかった。

伊藤さんは、スカイラインの没落が許せなかったみたいです。常々「スカイラインの根底にあるのは走りだ」とおっしゃっていました。そこで、次のR32は「まずFR(後輪駆動)で100点のクルマを作れ!」と指示されたのです。モノコック、エンジンはもちろん、マルチリンク式のサスペンションなど、新しい技術・機構を随所に導入。そして、その仮想ターゲットは、当時、完成度の高いFRスポーツカーとして評価を得ていた、ポルシェの「944」でした。

スカイライン(R32)

ですが、伊藤さんの頭の中には「スカイラインを復活させるには、より高性能なGT-Rの存在が必要だ」という考えがあったようです。私たちにも詳細は知らされていなかったのですが、“GT-X計画”、つまり、GT-Rの開発が、早期からスタートしていました。そもそも、FRで100点なんですよ。それよりハイパワーで、高度なシステムなクルマを組むとなると、100点の枠には収まらないでしょう(笑)。

そこで、当時の開発メンバーの間で「そのクルマをどこで開発するのか?」という話になり、「じゃあ、ドイツだ!」となったのです。なぜドイツになったかといえば、ポルシェやメルセデス・ベンツの本拠地がある国だし、速度無制限のアウトバーンがある国だから、という理由です。その頃、実験の主担だった渡邉衡三(※3)さんはニュルをご存じでしたので「では、ニュルに行こう!」と決まったようです。

※3/渡邉衡三(わたなべ・こうぞう) 1942年、大阪府生まれ。東京大学 工学部 修士課程終了後、1967年に日産自動車へ入社。「スカイライン」、レース車両のシャーシ設計などを経て、本社開発本部へと異動。後に、車両実験部に配属となり、R32の実験主任を担当。その後、R33、R34スカイラインの開発責任者を務める。1999年に取締役としてニスモへと出向。2006年に引退

ーー初のニュルテストは、何名、何台の体制で臨まれたのですか? 先ほど、最初にステアリングを握られたドライバーは現地の方とおっしゃっていましたが、どのような経歴の方だったのでしょうか?

加藤:クルマは先ほどお話した試作車が1台で、日本から向かったのは全部で10名ほど。そのうち実験部は5名くらいでしたね。当時、ベルギーに日産自動車の事業所あって、駐在員もいたのです。ベルギーは経済も金融もEUの中心地ですからね。

最初にステアリングを握った現地のドライバーというのは、そのベルギー事業所にいた人間です。聞けば、レースをやっていて、ニュルを走ったことがあるらしい、と。今にして思えば、ちょっと尾ヒレが付いていたようで、ニュルはさほど走ったことがなかったみたいですけどね(苦笑)。ともあれ、ウチの社員だし、まずは走らせてみよう、ということになったのです。ですから、私たちはドライバー兼メカニックではなく、メカニック兼ドライバーといったスタンスで初めてのニュルに臨んだのです。なので私のニュル初体験は、助手席でした(苦笑)。

ーーテストカーは、どんなスペックのクルマだったのですか?

加藤:見た目こそS13 シルビアでしたが、エンジンはGT-Rと同じRB26DETT型でしたし、駆動方式もフルタイム4WDの“アテーサE-TS”でした。少なくとも日本のサーキットでは“問題なく”走れるレベルに仕上がっていたんです。

ーー記念すべき初のニュルテストですが、テストカーが記録した最初のタイムを覚えていらっしゃいますか?

加藤:いやいや…。実をいうと、半周しか走れなかったんです。油温が上がってしまい、アクセルペダルを踏める状態ではなくなってしまったんですよ。私はクルマの状態をチェックするため助手席に同乗していましたが「もうやめよう。クルマを止めてくれ」と叫んだくらい、油温が危険なところまで上がってしまったんです。

日本で走っても問題はありませんでしたし、ベルギーからニュルまでも自走して行けたんです。通常プラスαレベルの走りでは、問題が出ないレベルに仕上がっていました。それがニュルを走らせた途端、半周でギブアップですよ(苦笑)。

忘れもしない、スタートしてから11kmくらいのところにある“ベルクヴェルク(Bergwerk)”という名のコーナーでストップです。コースは1周約21kmですから、半分で終了ですよ。残りはもう本当に、ゆっくり、ゆっくり走って戻りました。でも、あそこでやめといてよかったんです。後半は3速、4速、5速ギヤで全開のセクションが続きますから、あのままのペースで走り続けていたら、確実にエンジンブローしていたでしょう。何しろ、我々が持って行ったテストカーは1台だけですからね。

ーー意外な結果ですね…。初めてニュルを走られた印象はどんなものでしたか?

加藤:率直にいって「こいつら、何を考えているんだ!?」でした(苦笑)。ドライバーもコースも、そして、コースを作った国も含めて、すべてに驚きましたね。そして、ポルシェはこんな過酷なコースでテストをしていたのか! と。悔しいけれど「これは敵うわけがないな…」と思いましたね。

何がショックだったかというと、コース半周でスローダウンし、残りの10kmを30分くらいかけて青色吐息でピットに帰ったんですよ。ようやくピットに着いて、まずはとにかくクルマを冷やせ、と…。そして、皆でクルマを囲んで、原因を調べないと、直さないと、という感じであわてていたんです。

そんな時、ポルシェ「924」がピットに戻ってきたんです。今にして思えば、ポルシェの開発チームだったのかな、と思いますが、ドライバーはジーンズにTシャツというラフな格好でね。彼はクルマから降りるなり、タバコをくわえながらクルマのまわりを1周して、タイヤの状態をチェックしているんですよ。そして、タバコを1本吸い終えると、またコースに戻って行ったのです。

それを見て「この差はなんだ!?」と思い悩みました。我々だってメーカーですし、結構な規模の体制でテストに挑んでいるのに、1周こなすのもままならなかった。なのにポルシェは、何事もなかったかのように再スタートしていったんですよ。カッコいいなと感じたのと同時に「今に見てろ!!」とも思いました。

ーーご自身でステアリングを握られた、ニュルの最初の1周を覚えていらっしゃいますか?

加藤:ワケが分からなかったです。正直にいえば、怖かったですね。日産自動車のテストドライバーになりたくて、なりたくて、ようやく夢が叶った。もちろん、それなりに経験を積んでいましたし、プライドもありました。その時、テストしていたクルマの名前がGT-Rになるとは思ってもいませんでしたが、日産自動車で一番速いクルマだというのは、うすうす感じていました。ただ、ニュルはおっかなくてアクセルを踏めなかった。何しろ、次に迫ってくるコーナーが、右なのか左なのかも分かりませんでしたからね。

ーーかなりツラいスタートだったんですね。そんな過酷な経験から、R32 GT-Rのデビューまで、あまり時間がなかったかと思いますが、初のニュルで得られたものはありましたか?

加藤:そうですね、1989年にはニュルでR32 GT-Rの試乗会を行っていますが、初めてニュルを走った日から1年弱ですか。GT-R愛好家にはご存知の方も多いのですが、R32のニスモ仕様には、ボンネットフードの先端にモールが付いていたり、バンパーのナンバープレート脇に穴が開いていたりするんです。それらは、ニュルでのテストからフィードバックされたものなのです。ボンネット内に風を入れ、エンジンやインタークーラーを冷やすために有効なんですね。

スカイライン GT-R ニスモ(R32)

現地では、かなり試行錯誤を重ねました。あくまで、テストだからと割り切って、ヘッドライトやウインカーを外して走行するという手もあったんですけどね。そうすることでエンジンルームはかなり冷えるのですが、当時の上司から「ここは公道だ」といって止められました(苦笑)。

結局、1988年10月9日から10月30日まで、1カ月くらいニュルに滞在した結果、最後はなんとか周回できるようになりました。R32 GT-Rについては、ニュルでアラを出し、その対策を施した、という感じでしょうか。結果的にラップタイムで見ると、8分30秒くらいでは回れるようになりました。当時は、9分を切ればかなり速いというレベルだったので、パフォーマンス的にはまあまあ満足できるところまでは到達できたんじゃないかな、と思っています。

ーー松本さんにとっての初ニュルは、R32 GT-Rのデビュー後ですか?

松本:1989年ですね。デビューを前に、ニュルにジャーナリストの方々にお集まりいただいた際、初めて連れて行ってもらいました。その時は、数日間滞在しただけ、という程度でしたけどね。とにかく21kmもありますし、コースレイアウトも分からないので、加藤に運転してもらい、私は助手席で体感した、というのが最初でしたね。それでも「この次はどちらに曲がるんだろう?」って感じで、完全に“お客さん状態”でしたけどね。

加藤:松本はラリードライバーですから、本当はそういったコースは得意なはずなんですけどね。当時も国内ラリーに参戦していて、日本の峠道はかなり走りこんでいましたから。

松本:でも、ニュルは本当に、とんでもないコースでした。実際に行ってみたら、想像と全く違っていました。最初の時は、全然“目”が追い付かなかったのを覚えてます。今になって思い返すと、ベストなギヤに対し、1速もしくは2速下のギヤを使って、妙な汗をかきながら走っていたと思います。コースレイアウトを知らないというのもありましたが、とにかくスピードレンジが高すぎて驚きました。

ーーニュルのコースをゆっくり走りながらテストをしているクルマというのはいないのでしょうか? そして、そもそもニュルでテストを行う意義とは、どんなことなのでしょうか?

加藤:ちょっと前だと、スマートがテストで走っていましたね。開発段階ですから、見ていて「転んじゃうんじゃないか?」と思うこともありました。ほかにも、スピードレンジの低いクルマが時々テストをしていますよ、本当にニュルは“呉越同舟”なんです。

でも、だからといって、ニュルは“共存共栄”ではなく、“共存競争”の世界なのです。そしてニュルは、唯一無二の場所でもあるんです。

例えば、ホンダの「NSX」。私が「GT-Rの方が速い」といっても、それは栃木にある日産自動車のテストコースでドライブしているからです。ホンダさんがホンダさんのテストコースにR32 GT-Rを持ち込んでドライブしてみたら「やっぱりNSXの方が速いじゃないか」っていう話になりかねません。

けれど、ニュルという同じフィールドに、どこのメーカーも自慢のクルマを持ち込むわけですよ。そして、どのメーカーも、超一流のテストドライバー、トップガンを連れてきます。その結果、記録されたタイムを見比べてみれば、公明正大じゃないですか。ニュルっていうのは、そういう場所なんです。

話は少し脱線しちゃいますが、私が現地でテストをしていた時、ある欧州メーカーがZ33 フェアレディを2台、コースアウトさせたんです。それを見た時に私は「やった!」と思いました。

もちろん、彼らがコースアウトしたことや、失敗したことを喜んでいるわけじゃありません。かつて欧州メーカーは、日産自動車のことなど気にも留めていなかったはずです。でも、コースアウトするほどニュルを攻め込んでいた、ということは、自社でフェアレディZを購入し、その性能をテストしていた、ということなんですよ。本気でコンペティターだと思わなければ、他社のクルマなんて買わないですし、ライバルだと位置づけているからこそ、本気でニュルを攻め込んでいたわけです。本当にうれしかったですね。

フェアレディZ(Z33)

ーーライバルメーカーのクルマをニュルで試されることもあるのですか?

加藤:2016年の10月半ばから2週間ほどトレーニングに行った際には、イギリスのナンバープレートを付けたR35 GT-Rにぶち抜かれました(苦笑)。“インダストリープール”(※4)の走行期間中でしたから、プロの集団しかニュルを走ることはできません。ということは、どこかの自動車メーカーか部品のサプライヤーが、R35を持ち込んでテストをしていた、ということです。

※4/インダストリープール ニュルブルクリンクにおける、自動車メーカーやタイヤメーカーなどによる連合。コースを占有してテストや車両開発を行う。

我々も以前、ポルシェの「ボクスター」や「ケイマン」などを購入し、勉強させてもらいました。ですから、先ほどお話したように、他社がZ33を購入していた、というのは、我々にとっては本当に勲章みたいなものなんですよ。なぜなら彼らが、それだけ日産自動車を意識してくれている、ということの証ですからね。(Part.2へ続く)

(文/村田尚之 写真/村田尚之、日産自動車)

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