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【世界で最も素敵な瞬間】北のウォール街「小樽」が今に伝える、日本近代化の歴史が輝く瞬間

GOTRIP! / 2015年12月3日 2時36分


北海道・小樽市。運河の街として、そして寿司の街として、さらにウイスキーファンには余市観光の拠点として、多くの観光客が訪れる一大観光都市。

実はこの小樽市、日本の近代化の歴史が詰まった栄枯盛衰(えいこせいすい)を感じられる場所であることをご存知でしょうか。

戦前の小樽は北海道各地で採掘された石炭の最大の積出し港として、ニシン漁の最大の拠点として、そしてロシアを初めとする海外との国際貿易港として、札幌はおろか北海道で函館と1、2を争うほど繁栄していた一大都市でした。

・北海道の近代史のはじまり
北海道における近代史は開拓使が明治2年(1869年)に置かれたことから始まります。当時函館におかれていた開拓使は、北海道全体からみると南に偏りすぎているという理由から、北海道の中央部である札幌に本庁を設けることになります。

この時に活躍したのが現在の小樽市銭函にある港でした。この場所から荷揚げされた資材によって札幌の建設がすすみ、開拓史設置から2年後の明治4年(1871年)5月、開拓使庁は札幌に移ることになります。

実は当時は、中央政府の財政基盤は弱く、北海道の全域を統治する余力はありませんでした。そのため諸藩や団体・個人に呼びかけて北海道を分領することで開拓を推進していました。この制度は開拓使庁が札幌に移った年に廃止されます。

・転換点となった「開拓使10年計画」
北海道の大きな転換点明治4年(1871年)には、のちに内閣総理大臣となる黒田清隆が立案した「開拓使10年計画」が決定されます。

黒田清隆によってもたらされた潤沢な予算を使って、39の各種官営工場の設立、幌内炭山の開発、その石炭輸送のための鉄道の建設が始まります。その鉄道こそ、小樽発展の基礎となったものの1つ、北海道初(全国で3番目)の鉄道、官営幌内鉄道です。

また、アメリカから有識者を招くことにより様々な開発技術が生まれ、泥炭地の多かった札幌郊外はこの外国人からの灌漑技術(かんがいぎじゅつ)によって土地改良が行われ、農業や住宅地として爆発的な開発が行われました。

さらに麦をつかったビール、ビートをつかった製糖などの農産加工工場やそれらに付随した産業が勃興(ぼっこう)し、更なる人口増加が小樽港を経由して発生します。
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官営幌内鉄道は小樽市の手宮駅と、札幌・岩見沢を経由して、石炭の町三笠市の幌内駅を結ぶ全長100kmにも及ぶ鉄道として明治13年(1880年)に開業、以降、石炭だけでなく多種多様な産業商品が小樽市に集積され、日本国内だけでなく、海外へと運ばれていきました。もちろん札幌を初めとする都市部の爆発的な開発に伴う資材運搬も小樽を通して、全道へと展開されたのでした。

・小樽の繁栄を支えた3つの産業
小樽を繁栄へと導いた産業はすでにご紹介した石炭の他に、2つのものがあります。それが「ニシン漁」と「ロシアとの交易(こうえき)」でした。

江戸時代から明治、大正時代において、ニシンから作られる鰊粕(にしんかす)は綿花・菜種・藍など商品作物の肥料として、大きな利益を生む資源として活用されていました。

現在では化学肥料の普及によって使われていないので「魚から肥料」と聞くと、あまり想像できませんが、大量のニシンを釜で茹で上げて作る鰊粕(にしんかす)はまさに北海道の基幹産業の1つであり、その運搬や貯蔵のために、小樽の運河や倉庫街が急速に発達することになります。

また、日露戦争に勝利した日本は北緯50度線を境界に南樺太を領土として手に入れます。そのことにより、小樽は樺太と北海道果ては本州との中継点として莫大な富が集まる都市へと成長していきます。

・「北のウォール街」へ
また当時、石炭やニシン、豆類などの穀物は相場商品として資産運用の対象とされ、さらにロシアとの交易や海運業には為替や保険などの対応が発展に伴って求められることになります。

そういった金融としての機能の必要性の高まりから、小樽初の銀行支店である旧第四十四銀行小樽支店が明治9年(1878年)に開設されます。

北海道の爆発的な発展により、明治9年(1878年)を皮切りにたくさんの銀行が小樽へと進出し、小樽初の銀行支店開設から遅れること15年後の明治24年(1893年)とうとう日本銀行小樽派出所が開設されます。

以降、第一次世界大戦後の大正11年(1922年)に旧三菱銀行小樽支店が開設されるまで、合計20以上の銀行が小樽の運河近くに軒を連ねます。

明治39年(1906年)に日本銀行小樽支店が開設されてから、昭和17年(1942年)に札幌支店が開設されるまでの36年間、北海道にある日本銀行の支店は小樽のみでした。このことからも小樽の繁栄の凄まじさが理解できます。

小樽はまさに、「北のウォール街」へと発展をとげるのです。

・小樽の衰退と現在
経済の繁栄を謳歌(おうか)していた小樽にまず影響を与えたのが、ニシンの不漁でした。さらに第二次世界大戦の敗戦により、樺太や満州を失った日本の影響は小樽の経済に色濃く陰を落とします。

それに加えてさらに追い打ちをかけたのがアメリカのジョン・ロックフェラーが産業として育てた石油によるエネルギー革命でした。

1970年代には北海道の石炭鉱山はほぼすべて閉山となり、小樽の街は急速に冷え込むことになります。都市銀行の支店も次々撤退し、日銀小樽支店も2002年(平成14)についに閉鎖となります。

しかしながら、小樽は、私たちにその繁栄と衰退の歴史を景色として見せてくれます。美しい運河に、トロッコ線路が敷かれている石造りの巨大な倉庫。それらはまさに、小樽の歴史そのものです。




冬の街にそれらの遺構がオレンジ色の街灯で光り輝く時、それはきっとこの街が長い間に渡って守り続けてきた、歴史の灯火、そのものが光り輝いている瞬間なのかもしれません。

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Post: GoTrip! http://gotrip.jp/ 旅に行きたくなるメディア

Via: 北海道歴史・文化ポータルサイト あかれんが

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