「秀才だったのに…」 2時間で30人の内臓が飛び散った「津山30人殺し事件」とは?

ハピズム / 2013年6月18日 21時30分

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 世界の犯罪史上でも類を見ない残虐極まりない大量殺人「津山30人殺し」。1938年(昭和13年)5月21日、岡山県の農村で発生。犯人・都井睦雄(22歳)は、2時間足らずで村人30人を殺害。いわゆるスプリー・キラー(spree=お祭り騒ぎ、馬鹿騒ぎ)短時間に不特定多数を殺害する殺人者)のパイオニアである。

■犯人像に迫る

 犯人の都井睦雄は1917年(大正6年)3月5日、生まれ。幼い頃に両親を亡くし、姉とともに祖母いねに育てられる。学校の成績もよく、秀才であったため、いずれ進学するつもりだった。しかし、進学すれば寮生活となるため家から離れることになる。いねから「寂しくなるから」と反対された。優しい睦雄は、いねの気持ちを考えて進学を断念。

 その後、もともと身体が弱かった睦雄は、肋膜炎を患い、家に引きこもりがちになる。さらに、慕っていた姉も嫁いでしまってから、彼は孤独感をいっそう強めていったようだ。

 テレビやパチンコなどといった娯楽のない当時の村では、セックスが唯一の楽しみであり、夜這いの風習が残っていた。

 夜這いとは、夜になると女の寝間に男が侵入して、性行為を楽しむこと。昼間でも人目につかない場所で密かに性交することもあった。既婚者も独身も、大いに夜這いの風習を堪能していたのである。

 当然、睦雄の村にも夜這いの風習があり、彼も村の女と複数関係を持っていたようだ。

 やがて、睦雄は軽度の結核の診断を受ける。今でこそ結核は治せる病気だが、その当時は死病として怖れられていた。それに追い打ちをかけるように徴兵検査で不合格を言い渡される。お国のために兵役に就くことができないということは、当時の男子にとって最も屈辱的な結果であった。

 睦雄は結核ということで村の女たちから忌み嫌われ、やがて村人たちからも陰口を叩かれるようになる。

 かつて村の秀才と言われていた睦雄。閉塞的な村での疎外感、屈辱……。村人や女たちに対するどす黒い復讐心が芽生えていき、彼は悪鬼に変わっていった……。

■凶行の日

 犯行の前日、睦雄は電線を切り、村を停電にした。夜半に睦雄は起き上がり、支度を始める。黒の詰襟服を着て、地下足袋を履き、足にゲートル(ケガやうっ血を防ぐために軍人が使用する)を巻いた。頭には、懐中電灯を取り付けた鉢巻を装着。頭から突き出た2本の懐中電灯はまるで鬼の角のように見えた。

 自転車用ランプを首から吊り下げ、薬きょうや弾薬を入れた袋を肩にかけた。日本刀や短刀、9連発のブローニング猟銃を携え、いざ凶行に向かった。

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