「表現の自由」が憲法で保障されなくなったら?<あべこべ憲法カルタ・第2回>

HARBOR BUSINESS Online / 2019年8月26日 8時32分

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Contents1 ようこそ、あべこべ憲法の世界へ2 【な】何してる! 反政府デモは 鎮圧だ!3 『公共の福祉』に取って変わった『公益及び公の秩序』から透けて見える政府の思惑とは?4 そもそも日本国憲法の『公共の福祉』とは?5 自民党改憲草案の『公益及び公の秩序』とは?6 『表現の自由』が『公益及び公の秩序』によって縛られる?7 『表現の自由』はゆっくりと規制されていく8 表現の自由を守ることは、民主主義を守ること

◆ようこそ、あべこべ憲法の世界へ

 WEBメディア「チャリツモ」では、現在「あべこべ憲法カルタ」を制作中だ。「あべこべ憲法カルタ」は、現行の憲法とは”あべこべ”な憲法が制定された世界を描いている。読者の皆さんには、この”あべこべ”な世界を通して、現行憲法への理解を深めてほしいと思う。

 今回ご紹介するのは「な」の札だ。この札では「表現の自由」について書かれた日本国憲法第21条について伝えている。

◆【な】何してる! 反政府デモは 鎮圧だ!

 カルタの絵札と読み札は、あくまで日本国憲法とあべこべの世界を表している。この札で描くのは「表現」が規制され、政府に批判する言動が圧殺される世界だ。もちろん現実世界の日本国憲法では、「表現の自由」が保障され公共の福祉に反しない限り、反政府デモであっても行うことができる。

【日本国憲法第21条】

1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 本連載では、さらに深掘りして改憲に突き進む与党・自民党が2012年に発表した「自民党改憲草案」を分析・検証していく。

 「表現の自由」を定めた憲法21条。自民党改憲草案でどのような改変がなされているのだろう。ズバリ、注目すべきは新設された2項だ。この新設された2項を、一言で表現すると「クソ」だ。

 日本国憲法下では、自民党改憲草案第21条2項を「クソ」と呼ぶ自由と、自民党改憲草案第21条2項が如何に「クソ」かを解説する自由が認められている。改憲されたら権力者を「クソ」と表現する自由が失われるもしれないので、今ある自由を噛み締めながら解説していく。

◆『公共の福祉』に取って変わった『公益及び公の秩序』から透けて見える政府の思惑とは?

 日本国憲法と自民党改憲草案の大きな違いは、「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」と書かれた項が新設された点だ。

【日本国憲法第21条】 

1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

【自民党改憲草案第21条】

1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。

2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。

 特に注目すべきは「公益及び公の秩序」という文言である。「公益及び公の秩序」という文言は、日本国憲法の「公共の福祉」という文言の代わりに使われ、自民党改憲草案に4度登場する。 第12条(国民の責務)、第13条(人としての尊重等)、第21条(表現の自由)、第29条(財産権)だ。

 自民党改憲草案、そして「公益及び公の秩序」の危険性を理解するためには、まず日本国憲法の「公共の福祉」の意味とその役割を理解する必要がある。

◆そもそも日本国憲法の『公共の福祉』とは?

 日本国憲法は第11条において、基本的人権を「侵すことのできない永久の権利」と絶対的に保証し、国民の権利と自由を国家権力から守っている。しかし、基本的人権は絶対的に保証されるが、無制限なものではない。社会において、ある人の人権と別の人の人権がぶつかった際に、制約を受ける。

 例えば「ある個人の表現の自由 vs 他者のプライバシー権」のような事例だ。AさんがBさんに関する暴露本を出版しようとしている。この本が出版されるとBさんのプライバシー権が侵害される可能性がある。Aさんは表現の自由を行使して出版を進め、Bさんはプライバシー権を行使して出版の取りやめを画策する。このような場合に、人権同士の衝突を調整し解決する原理が「公共の福祉」だ。

 昨今のネット空間を見ていると、公共の福祉の「公」=「国家」という考え方に基づいた発言を多く見かける。彼らは、国家政策に邪魔な存在や、国家や国の代表と相反する考えは、公共の福祉に反するため規制すべきと主張する。

 また、公共の福祉と聞くと、「社会秩序のために、個人はわがままを言ってはいけない」や「社会全体や多数派の利益になるときは、個人や少数派の権利は制限されるべきである」といった誤解を抱いている人が多くいる。

 これら2つの考えに共通しているのは、「国」や「社会」が個人の人権を制限できると考えている点だ。

「頭の中、金正恩かよ」とツッコミたくなる。

 個人を最大限尊重する日本国憲法下において、「国益に反するから」や「社会の利益に反する」という理由で個人の人権を制限することはできない。できるのは他の個人の人権を保障する時だけだ。

◆自民党改憲草案の『公益及び公の秩序』とは?

 自民党改憲草案第21条は、1項で日本国憲法と同じく表現の自由を保証している。一方で、2項において「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」と規定し、『公益及び公の秩序』によって『表現の自由』を制約している。『公益及び公の秩序』とは一体何か?

 2016年4月3日のNHK「日曜討論」において、現自民党憲法改正推進本部 最高顧問である高村正彦氏(元衆議院議員)は、「「公益及び公の秩序」とあるのは、いまの憲法の「公共の福祉」という言葉を分かりにくいから置き換えただけだ」と発言した。

 高村氏曰く、「置き換えただけ」だそうだが、本当にそうなのか?その答えは、自民党が出している日本国憲法改正草案Q&Aの中にあった。

【日本国憲法改正草案Q&A Q15「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えたのはなぜですか?】

「意味が曖昧である「公共の福祉」という文言を「公益及び公の秩序」と改正することにより、その曖昧さの解消を図るとともに、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです」

 注目すべきは、「憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではない」と述べている点だ。この一文に、「国家によって人権を制約してやる」という自民党の思惑が見え隠れ…いや、ダダ漏れしている。

 高村氏は「置き換えただけ」と言っていたが、「公共の福祉とは個人の人権が衝突した際に調整する役割」と勉強した私たちの目は誤魔化せない。「人権相互の衝突の場合に限らない」と言っている時点で「公益及び公の秩序」は「公共の福祉」と同じ意味ではないのは明らかだ。

「公益及び公の秩序」という言葉は、日本国憲法の「基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られる」という考え方を否定し、国家の利益(公益)や社会秩序の維持(公の秩序)という抽象的な概念によっても基本的人権を制約できる力を持っている。

 日本国憲法は、国家が個人よりも優先する国家主義や、全体が個人よりも優先する全体主義を否定し、個人を最大限尊重する個人主義がベースに存在する。そのため個人の人権は国家による制約を受けない。制約を受けるのは他の個人の人権を保障する時だけだ。こうした日本国憲法の考えの下、私たちは、個人が最大限尊重され、多様性のある社会をめざしてきたはずではないのか。

 しかし、自民党改憲草案「公益及び公の秩序」では、他人の人権だけでなく国家の安全や国家の利益(公益)、社会秩序(公の秩序)に反しない限りでしか、私たちの基本的人権が認められない。

 そんな社会、恐ろしすぎる。多様性も何もあったものではない。国家や多数派を優先し、個人の権利がないがしろにされる社会において一番割りを食うのはマイノリティだ。また、マイノリティに限らず、時に公益や社会秩序のために、「私」という「個人」を殺さなければならなくなる。「個人」が「公」のための駒になる社会が、私たちの目指すべき社会で本当に良いのか、熟考すべき必要がある。

◆『表現の自由』が『公益及び公の秩序』によって縛られる?

 誰もが自由に政治的意見を述べることができなければ、民主主義は成り立たない。そのため表現の自由は民主主義の根幹と呼ばれ、経済的自由権(職業選択の自由や財産権など)より優越的地位を占める。そして表現の自由を制約する際は、厳格な基準によって審査されなければならない。できる限り、表現の自由を制約してはいけないというのが日本国憲法そして民主主義社会の考え方だ。

 民主主義の根幹と言われる「表現の自由」に制約をかけたのが、自民党改憲草案第21条2項だ。「公益や公の秩序を害することを目的とした『活動』と『結社』は認めない」としている。その理由を自民党は、日本国憲法改正草案Q&Aで下記のように記している。

【日本国憲法改正草案Q&A Q18 表現の自由を保障した21条に第2項を追加していますが、この条文は表現の自由を大きく制約するのではないですか?】

「『活動』とは、公益や公の秩序を害する直接的な行動を意味し、これが禁じられることは、極めて当然のことと考えます。また、そういう活動を行うことを目的として結社することを禁ずるのも、 同様に当然のことと考えます。この規定をもって、公益や公の秩序を害する直接的な行動及びそれを目的とした結社以外の表現の自由が制限されるわけではありません」

「公益と公の秩序を害する活動以外の表現の自由は制限されない」と書かれているが、問題はその「公益と公の秩序」という言葉の曖昧さだ。そして、害する活動か否かを判断するのが権力者ということだ。

 そのため、「公益と公の秩序」を権力者が恣意的に使用し、自分たちの気にくわない表現を規制することも可能になる。権力者が自らの都合に合わせ、表現の自由をコントロールできる社会。それは表現の自由の死だけでなく民主主義の死でもある。

 もしもあなたが民主主義を愛し、民主主義の下で暮らしたいのであれば、表現の自由を守るために、権力者へ一切の妥協もすべきではない。

 私は護憲派ではない。日本国憲法下における諸問題を解決し社会を前進させるための改憲には賛成だ。しかし、自民党改憲草案第21条2項は社会を前進させるものではなく、社会を後退させるものだ。だから私は自民党改憲草案第21条2項に反対だ。

◆『表現の自由』はゆっくりと規制されていく

「憲法が改正されても公権力が表現の自由を規制することはほぼない」と思う人もいるだろう。先日まで私もそう考えていた。しかし、表現の自由を最大限認めている日本国憲法下でさえ似たようなケースが起きていると知り、危機感を募らせている。

 7月15日札幌市内で、応援街頭演説中の安倍総理へ対し、聴衆の一部からヤジが飛んだ。「安倍やめろ」と叫んだ男性や、「増税反対」と声を上げた女子大生は、10人以上の警察官に囲まれ排除された。その際の警察官と女子大生のやりとりを見ていただきたい。

——-警察と女子大生のやりとり——-

警察「さっき約束してって言ったじゃん」

女子大生「何を?」

警察「声あげないでくれよ〜って」

警察「ウィンウィンの関係になりたい」

警察「何か飲む?買うよ?お金あるから。なんか飲まない?ジュース買ってあげる」

女子大生「何も信用できない。あなたたちのこと」

警察「うちらも信用できないからさ~」

警察「一緒についていくしかないの。大声出さないでほしいだけなんだよ?」

警察「お願い。お願い。お願い。きょうはもう諦めて」

警察「ジンジャーエールですか?ウーロン茶ですか?」

警察「きょうはもう諦めて。何飲みますか?」

「増税反対」と政府の政策に反対する意見を言っただけで、警察官は、彼女を強制的に排除した。しかし、何を根拠に強制力を行使したのかが明確でない。確かに、公職選挙法は選挙演説を妨害することを禁しているが、動画を見る限り、最高裁判例が示している「聴衆がこれを聴き取ることを不可能又は困難ならしめるような所為」には当たらないと感じる。

 一連のやり取りにおいて、警察官はとてもフランクに優しく話しかけ、女子大生に黙ってもらうようお願いしている。「警察官が優しく諭しているのだから、言うことを聞けよ」と思われるかもしれない。しかし私たちは、警察官の「声を上げないで」や「きょうはもう諦めて」という一見穏やかな言葉の裏に隠された暴力性に目を向けなければならない。警察官の言っていることは「お前の意見は言わせない。さっさと帰れ」となんら意味の変わらない言葉だ。結果、一見穏やかな言葉によって、何を根拠に強制力を行使しているのか説明もないまま、彼女の表現の自由は制約された。

 これが現代の日本で起こっている現実だ。私たちの表現の自由はゆっくりと、したたかなやり方で、制約されていっている。

◆表現の自由を守ることは、民主主義を守ること

 同じく香港でも表現の自由が危機に瀕している。先月の1日から警察とデモ隊との間で、衝突が続き、デモという「表現の自由」の行使へ対し、警察官がゴム弾や警棒を使って鎮圧している。この光景を見た多くの日本人はデモ隊を支持し、「#香港加油」(香港がんばれの意味)とTwitterで呟く。

 日本と香港、一方は穏やかに、もう一方は圧倒的な力によって表現の自由が侵害されている。両国とも表現の自由が侵害されていることにかわりはないはずだ。しかし私たち日本人は、自国で起きている表現の自由の侵害に、あまりに無関心ではないか?

 香港のデモが終結した際に、表現の自由を失っているのはひょっとしたら日本なのかもしれない。

 思想に関係なく多くの日本人が、表現の自由を守るため闘う香港のデモ隊へエールを送るのに、日本で同じような事件が起きた時、表現の自由を守る側ではなく、侵害する政府側に立つ人が多くいるのことが私は不思議でならない。

 表現の自由を守ることは、民主主義を守ることに繋がる。それらを守ることに、保守もリベラルも関係ないはずだ。

 もういい加減、左右のポジショントークに終始し、守らなければならない私たちの基本的人権が犯されていくのはうんざりだ。

 そんなことをしている間にも、ゆっくりと優しく、しかし恐ろしいほどの攻撃性をもって、私たちの表現の自由は制約されていっている。今こそこの現実を見つめて、声を上げる必要があるのではないだろうか?

 日本国憲法第12条前段にこう書かれている「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」

 日本国憲法で保障されている権利を不断の努力によって守ることが、私たち国民の義務なのだ。だから私は、表現の自由を守るためにこれからも「表現」という不断の努力をやめない。

<文/日下部智海(くさかべともみ)>

明治大学法学部4年。フリージャーナリスト。特技:ヒモ。シリア難民やパレスチナ難民、トルコ人など世界中でヒモとして生活。社会問題から政治までヒモ目線でお届け。

<イラスト/「チャリツモ」>

【チャリツモ】

社会問題をクリエイターが発信するwebサイト「チャリツモ」。世界各国にいるライターが、日本や世界の社会問題を、イラストを用いてわかりやすく伝えている。

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