JCO臨界事故の悲劇から20年。事故当時の村長、村上達也氏が語る「あのとき」

HARBOR BUSINESS Online / 2019年10月1日 15時30分

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撮影/井田真人

◆2019年9月30日でJCO臨界事故発生から20年

 茨城県東海村の株式会社ジェー・シー・オー(以下、JCO)で臨界事故が起きてから早20年となる。不適切極まりない取り扱いをされた核燃料が何の変哲もない事業所内で臨界に達し、“裸の原子炉”となって強烈な放射線を放ち続けたというこの未曽有の核事故は、救いのない、陰惨な亡くなり方をした2人の死亡者と、一般住民を含む多くの被ばく者を出した。

 この事故の発生日1999年9月30日から20年になるのを機に、事故の現場となった東海村内では様々な催しが企画・実施されている。9月7日には豪華講演陣によるフォーラム「 JCO臨界事故を教訓として、ともに考える」が開かれ、300人ほどの来場があった。筆者もその来場者の1人であることは、前の記事でお伝えしたとおりである。

 今回はその記事の続きとして、上記フォーラムで村上達也 前東海村長が行った講演から、とくに筆者の印象に残った部分を紹介したい。

◆村上達也 前東海村長の講演から

 村上達也氏の演題は『JCO臨界事故の東海村への衝撃』であった。村上氏は元々、銀行マンであったが、1997年に東海村の村長になり、2013年9月までの4期16年を務めた。同氏はその間、JCO臨界事故と福島第一原発事故の両方に直面している(後で述べるが、実は、少なくとももう一つの大きな事故に直面している)。

 以下、村上氏が行った講演の内容について、私見を交えながらつらつらと、箇条書き的に書いてみよう。他者が行った講演についての記録であるため、やや散漫な書き方になってしまうが、お許しいただきたい。村上氏の示唆に富んだ講演内容を少しでも読者に伝えられれば幸いである。

◆事故収束に尽力した1、2、3、3

・講演の序盤だったと記憶しているが、村上氏は「この事故の収束に尽力した人には、名前に数字が付く人が多い。1、2、3、3。田中俊一、住田健二、越島建三、齋藤伸三。私は例外」(筆者の記憶で書いているため、細かな表現は異なる)と述べた。このうち、今回のフォーラムの講演者の一人であり、当時は日本原子力研究所 東海研究所の副所長だった田中俊一氏と、同研究所の所長だった齋藤伸三氏、そして、原子力安全委員会委員長代理だった住田健二氏の3名は、前の記事にすでに登場している。残る越島建三氏は、事故の舞台となったJCO東海事業所の当時の所長である。同氏は後の刑事裁判で有罪判決を受けた6名のJCO職員のうちの1人でもある。

 なお、田中氏と齋藤氏の当時の所属である日本原子力研究所は、以下に登場する核燃料サイクル開発機構と2005年に統合され、現在の日本原子力研究開発機構になった。

◆JCO臨界事故の責任の所在

・前の記事で触れた田中俊一氏と同じく、村上氏もこの事故の原因と責任をJCOだけに被せることには大いに不満があるようだった。直接の事故原因はもちろんJCOによる複数の違反行為であるが、発注者である核燃料サイクル開発機構や、監督官庁である科学技術庁(現在の文部科学省の一部)には責任がないと言い切れるのか。例えば、発注者からJCOに対し、違反を誘発するような要求がなされたことはなかったか。そして、監督官庁の安全審査はまともに機能していたか。違反の見逃しなどはなかったか、ということである。

 ちなみに、同じことは事故後に様々なところで議論されており、国会での答弁にまで登場している。例えば、2002~2003年の「JCO臨界事故と安全審査に関する質問主意書」とその答弁に記録が残されている。なお、この質問主意書の提出者は福島瑞穂参議院議員である。

◆東海村を終わらせないために心掛けたこと

・この事故では、国道6号線や常磐自動車道の一部区間が通行止めにされたり、JR常磐線の一部区間が一時運休にされたり、久慈川からの取水が中止されたり、近隣で予定されていた様々なイベントが中止されたり等々、かなりの大騒動が起こった。そのため、新聞やテレビによる報道はいささか過熱気味になっていた。

 そういった状況を見て村上氏は、「東海村は終わったかもしれない」と絶望的に思ったそうである。核燃料が原因で起こった事故であり、さらに、多くの被ばく者が出たこともあり、「東海村は放射能汚染地域である」というレッテルが貼られてしまうことを村上氏は恐れたのだ。

 そのような事態になるのを可能な限り防ぐため、村上氏は村長として以下のことを心掛けたそうである。

 (1) 放射線が漏れた事故であり、放射能汚染事故ではない、ということを強調する。

 (2) 徹底して環境の放射能測定を行い、徹底してその結果を公表する。

 (3) 徹底した被ばく診断(つまり、被ばく量の測定や推定)と健康診断を行う。

 これらが本当に実行されたのか、それとも口先だけなのか、以下で少し検証してみよう。

 多くの研究者・技術者の協力があり、(2) と (3) の測定や推定については実際に事故直後から多数の実施例がある。現在でも入手しやすいものでは、例えば以下の3つの資料に様々な記録がある。

●JCO臨界事故における原研の活動(2000年、日本原子力研究所)

●JCO臨界事故の終息作業について(2001年、核燃料サイクル開発機構)

●東海村ウラン加工工場臨界事故に関する放医研報告書(2001年、放射線医学総合研究所)

 また、測定から得られた結果はこれら3つの資料を含め様々な形で公表され、ジャーナル論文になったものもある。例えば、土壌等の環境の汚染調査に関するジャーナル論文には以下のようなものがある。

●Radioactive contamination from the JCO criticality accident(2000年、Koideら)

●The JCO criticality accident at Tokai-mura, Japan: An overview of the sampling campaign and preliminary results(2000年、Komuraら)

 前者は小出裕章氏や今中哲二氏など京都大学の4名による論文、後者は金沢大学の小村和久氏が率いたプロジェクトによる、総勢43名の研究者が参加した論文である。

 上記の資料その他の報告を見るに、寿命の長い、厄介な核種のはっきりとした検出例は確かに無い。半減期が約30年あるセシウム137(福島第一原発事故後に大問題になっているあの核種である)が検出された例はあるが、検出値がJCO事故“前”の測定値の範囲内であるため、その大部分あるいは全部が過去の核実験に由来するものと結論付けられている。このように、長寿命核種のはっきりとした放出が無かったことは、JCO事故の不幸中の幸いの一つであった。

 このことから、(1) の中の「放射能汚染事故ではない」はおよそ事実と言えるだろう。村上氏は東海村を守るため、このことを新聞紙上で強調したり、IAEA(国際原子力機関)に訴えたりしてきたそうである。

 ただし、正確を期するため加えておくと、初期の調査で寿命の短いヨウ素131(半減期は約8日)やヨウ素133(同20.8時間)などが検出されたとする報告は複数ある。上に挙げた5つの資料の中では、日本原子力研究所の報告書と2つのジャーナル論文がそのことに触れている。したがって、放射性物質の幾ばくかの漏えいがあったこともまた事実なのである。

 前の記事でも既に触れたが、(3) の健康診断も実際に行われている。例えば、近隣住民に対する健康診断は現在でも続けられており、東海村の広報誌『広報とうかい』の2018 年10月25日号には、昨年度の健康診断の予定が記されている。

 以上のように、村上達也 前東海村長は、口先だけの人ではなかったのだ。

◆JCO事故後の風評被害との闘い

・村長による上述のような努力はあったものの、残念ながら、発生した風評被害は小さなものではなかった。被害は東海村にとどまらず、茨城県全県に広がった。東海村では特に農作物への影響が大きかったようで、JCOに対し多くの損害賠償請求が出されている。この時の損害賠償の経緯については、例えば以下の文科省資料に細かな記録がある。

●JCO臨界事故時の原子力損害賠償対応について(文部科学省)

●その別紙「補償対策等一連の動き」(同上)

 損害賠償については、村上氏は村が先頭に立って対応することを心掛けたそうである。実際、村内に損害賠償対策協議会が立ち上げられた時には、村上氏自らがその会長に就いたほか、損害賠償の交渉の場に村役場の職員を立ち会わせるなどの支援を行っている。東海村のこういった対応は、上で紹介した文科省資料では次のように称賛されている。

「被災者に最も近い立場である村は、被害の拡大防止や賠償交渉の仲介役として重要な役割を果たした」

 「県及び村の職員が交渉窓口となることにより、感情論にならず妥当な請求を促すことができたとの評価が多い」

避難判断にまつわる苦悩と称賛

・この事故では近隣住民の避難までが行われたが、東海村から住民に対して行われた避難要請などの知らせは、国や県からの指示を待たず、村上氏が独断で行ったものとされている。この判断については称賛する声が多く、国の原子力安全委員会(現在の原子力規制委員会)も後になって

「今回の事故においては国の初動対応が必ずしも十分でなかったため、結果的には非常に適切な措置であった避難要請は国や県の指導助言なしに東海村長の判断で行われた」<*参照:ウラン加工工場臨界事故調査委員会報告の概要(1999年、原子力安全委員会)>

と、村上氏の判断の適切さと国の初動対応の不適切さを認めている。

 村上氏は講演で、「あのとき、避難範囲を“350 m圏内”としたことについては、いまだに正しかったかどうか分からない」と告白した。ちなみに、放射線量率については、事故現場から約350 mの地点にも(屋外で)80~90 μSv/hほどにもなる場所があったという報告*がある。

<*原研の保健物理関係の取り組み(2000年、山本ら)>

 これなどを見ると、筆者は「避難範囲はもう少し広くてもよかったのではないか」と思うが、これは完全に“後知恵”というものであろう。

 先行きの見えぬ未曽有の事態のなか、自治体の長として迅速な判断を繰り返し求められた村上氏が背負った責任の重さは、一村民でしかない筆者の想像を絶している。

◆語られなかった「もう一つの事故」

・最後に、筆者に直接関係する話題があったので触れておこう。

 村上氏の講演によると、JCO臨界事故の年(1999年)の7月、「J-PARC」を東海村に設置するという知らせが村に届いた。J-PARC(大強度陽子加速器施設)というのは、3台の加速器を連結した巨大な陽子加速器と、その加速器で作られる大強度陽子ビームを様々な研究に利用する3つ(4つに増える予定)の施設からなる、先端的な科学研究施設群のことである。対象とする研究分野は多岐にわたり、ニュートリノ研究を始めとする素粒子物理や原子核物理、多種多様な対象を扱う物質科学や生命科学が含まれる。

 J-PARCは日本原子力研究開発機構(以下、原子力機構)と高エネルギー加速器研究機構(通称KEK)の共同プロジェクトであり、施設群は原子力機構の東海村の敷地内に建てられることになった。東海村に知らせがきたのは、そのためである。

 折からの原子力不況に加え、「もんじゅ」ナトリウム漏えい事故(1995年、福井県敦賀市)や動燃火災爆発事故(1997年、東海村)が重なり、原子力エネルギーへの不安感・不信感を高めていた村上氏は、このJ-PARC設置の知らせを「東海村の“第二の夜明け”だ」と感じたそうである。これはすなわち、東海村を「原子力の村」から、J-PARC等の先進的施設を中心にすえた「先端科学研究の村」に転換できるのではないか、という希望である。

 J-PARCはその後、2001年に建設が開始され、2008年に主だった施設が完成、利用運転を開始している。現在ももちろん稼働中である(メンテナンス期間以外は)。

 ところで、J-PARCのことを話す村上氏について、筆者は少々の違和感をもった。村上氏は講演でJCO臨界事故はもちろん、「もんじゅ」や福島第一原発の事故にまで触れながら、J-PARCで起きた大きな事故、すなわち、2013年5月のハドロン実験施設における放射性物質漏えい事故には一切触れなかったのだ。

 大きく期待したJ-PARCでの事故であり、ショックが大きすぎて話題にすることができなかった、といった事情でもあったのかもしれないが、あの事故は、もしも「先端科学研究の村」に転換したとしても油断をすればあのような事故が起こり得るのだ、ということを示す教訓となるものであるため、村上氏にはぜひ、事故に触れ、聴衆に改めて周知してほしかった。そして何より、原子力機構J-PARCセンターの元職員である筆者は、村上氏の現在の見解を聞いてみたかった。

<文・撮影/井田 真人>

【井田 真人】

いだまさと● Twitter ID:@miakiza20100906。2017年4月に日本原子力研究開発機構J-PARCセンター(研究副主幹)を自主退職し、フリーに。J-PARCセンター在職中は、陽子加速器を利用した大強度中性子源の研究開発に携わる。専門はシミュレーション物理学、流体力学、超音波医工学、中性子源施設開発、原子力工学。

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