「関電被害者論」の根拠、「集落立ち退かせた」説は本当か? 航空写真検証で明らかになった嘘

HARBOR BUSINESS Online / 2019年10月12日 8時32分

写真

<strong>2013/07/20国土地理院撮影</strong> <a href=”https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1569032&isDetail=true” target=”_blank”>国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス</a>より 特高は2系統4回線500kV運用となり、更に77kV予備系統1回線がある 福島核災害により全炉運転休止中である

◆差別的な「関電被害者論」の「風変わりな根拠」

 前回、関西電力資金還流事件について、安倍自公政権与党政治家へ波及したときと同じくして差別扇動と言っても良い「関西電力被害者論」が跋扈したことを厳しく批判しました。

「関西電力被害者論」では、話題の渦中となったもと元高浜町助役(故人)が強大な権力を持ったその根拠としてこの手の資金還流事件(裏金事件)としては一般的な、地域ボスへの企業からの不正な資金供与ではなく、大変に風変わりな根拠が提示されました。それが次に挙げるものです。

a)高浜発電所立地において、ある部落*(集落のこと)が立ち退きになり、それが森山氏の利権の源であった

b)森山氏の居住する集落(または関係する集落)が、高浜発電所への主要道路にあり、森山氏にたてつけば交通遮断された

<*九州や四国など西日本では集落を日常的に部落と称する場合が多い。また筆者が小中高校生の頃もごく当たり前に集落を部落と呼称していた>

 これから第三回、第四回にかけて上記のa)及びb)についてファクトチェックをします。第三回の今回は、高浜発電所建設にあたり立ち退きになった部落はあったのかです。

◆事実はどうか 立ち退き部落(集落)はあったのか?

 ここでは、前述の関電被害者論の根拠とされるa)b)の二点のうちa)について証拠を添えて論じます。

a) 高浜発電所立地においてある部落が立ち退きになりそれが、森山氏の利権の源であった

 こういうときには、原子炉設置許可の審議議事録を見るのが第一です。幸い、インターネットで公開されています。

◆関西電力株式会社高浜発電所の原子炉設置に係る安全性について 昭和44年11月24日(1969/11/24) 原子炉安全専門審査会

※※※ 抜粋ここから ※※※

本発電所の立地条件および施設の概要は、次のとおりである。

1.1 立地条件

(1) 敷地および周辺環境

 発電所の敷地は、若狭湾内にあって内浦湾を形成する音海半島の根元にあり、東は若狭湾に直接面し、西は内浦湾に面している。南北は山に狭まれ、中央は平地となっている。敷地はほとんど山林で人家はない。

 敷地全体の面積は、約2,500,000m2(平方メートル:筆者追記)である。

 原子炉は敷地北部の山麓に設置する。原子炉施設の中心から敷地境界までの最短直線距離は約800mである。また、敷地内には、原子炉施設の北側に一般道路のトンネルがあり、原子炉施設中心から、トンネルの出入口までの最短距離は、約200mである。

 音海半島の大部分は山地であるため、海岸沿いに若干の部落*があるだけで人口密度は稀薄である。

 敷地周辺には、南約1.3kmに小黒飯、西約1.3kmに神野浦、西南西約1.4kmに神野、北約1.8kmに音海の部落があり、人口は1km以内で0人、5km以内で約5,100人、10km以内で約20,000人、15km以内で約75,500人である。

<*集落のこと(筆者注)>

※※※ 抜粋ここまで ※※※

 はい、「人口は1km以内で0人」と公文書に明記されています。原子炉から1km以内に人家があってはなりませんが、高浜発電所では対象家屋はありませんでした。これで立ち退きに失敗してしまい、原子炉設置場所を変更に追い込まれたのが電源開発の大間原子力発電所です。

 公文書を示しても、申請前に地上げをしたのだと言う人も出るでしょう。当時は、原子炉設置審査は、チョーユルユルで、高浜発電所の場合、申請日は1969/05/24です。許可の内示まで半年しかかけていません。申請書一部修正日に至っては、1969/10/16です。ちなみに12月に入って正式な許可がなされ、同月着工でした。

 幸い日本では国土地理院で航空写真が全国に渡って公開されています。しかも航空写真の黎明期まで遡って公開されています。多くの写真は、戦後の米軍によるものと占領解除後の国土地理院によるものとなります。

 ここでは、高浜発電所が立地する音海半島の航空写真を1948年からほぼ同位置、だいたい同じ縮尺で引用して、高浜発電所立地点がどのような場所であったかを見てゆきましょう。そして小屋一つ無かったというだけでは寂しいので、終戦後まもなくから福島核災害後までの高浜発電所の変遷を見てゆきましょう。

 ここから説明は、本文と写真キャプションで行います。なお、配信先によってはすべての画像が表示されるわけではないため、その場合は本体サイトにて御覧ください。

◆国土地理院空中写真で見る田ノ浦周辺(高浜発電所)の歴史

 まず国土地理院1/25,000地形図で田ノ浦(高浜発電所)周辺を示します。これから示す空中写真(航空写真)は、地形図にあわせています。当然ですが、上が北です。

 地図上で北(上)内浦港のある集落が音海(おとみ)集落です。地図中央の高浜発電所が田ノ浦、やや下(南)の東海岸側が小黒飯(おぐるい)集落、更にその南が難波江(なばえ)集落となります。この高浜発電所のある半島を音海半島と呼びます。

 この音海半島は、かつては集落間を接続する道路の整備状態がきわめて悪く、渡船による海上輸送が盛んだったとのことです。

 次に、1947年11月と1948年10月の米軍撮影航空写真です。写真を精査すると、小黒飯から田ノ浦を経て音海まで、道路はあるにはありますが、自動車が通れるものには見えません。

 田ノ浦には平地が広がっており、その全体が稲作耕地となっていますが、人家は全く見当たりません。また田ノ浦周辺も音海と小黒飯まで人家どころか道路の見分けすら困難です。

 田ノ浦は、明治、大正の地形図でも稲作農地となっており、音海半島では、貴重な農地として使われてきたことが分かります。一方で居住の実態は見いだされず、道路も整備状態がきわめて悪いことから、昭和20年代は、せいぜい渡船による移動が基本であったものと思われます。

 ところがこの田ノ浦は、航空写真からも分かるように小川からの土砂が海岸線に堆積しており、渡船による交通が困難であったことから、集落が開けなかったものと思われます。結果として田ノ浦は、通い農地として使われてきたことが分かります。

 1963年(昭和38年)になると、音海半島全体が大きく姿を変えはじめます。世は高度経済成長9年目ですが、全国津々浦々に路線バスが運行されるようになり、自家用車の普及も進みつつあった頃です。しかし、音海半島はきわめて急峻な海岸線の地形で、道路の整備は遅々として進みませんでした。

 ここで昭和37年(1962年)に昭和天皇の若狭行幸があり、昭和40年(1965年)に高浜町による原子力発電所誘致が行われています。この間またはその少し以前に陸上自衛隊による道路敷設・改良が行われ、音海まで自動車通行が可能となった*ことが分かっています。

<*原発のある風景 柴野徹夫 前衛1979/08 pp.224に長老の証言として紹介されている。この時期、陸上自衛隊が訓練の一環として一般の公共土木では工事困難な道路の敷設、改良を行っている。基本的に自動車通行可能な道路が敷設されている。よく知られる事例では栃木県道266号中塩原板室那須線 塩原・板室間の山越え区間、通称「塩那道路」がある>

 1965年に高浜町による原子力発電所誘致が行われると関西電力は、田ノ浦の調査を開始し、1969年5月には原子炉設置申請がなされています。

◆原発誘致開始以降の68年になり道路改良工事が進む

 1968年になると、関西電力による用地買収が進行しているらしく、すでに農地に何らかの土木工事が入っています。更に田ノ浦・音海間の道路改良工事が大規模に進行しています。

 1969年5月になると、原子炉設置申請前にもかかわらず造成工事は大きく拡大しており幾つかの建物も見えるようになります。ここで初めて田ノ浦に建物が現れたことになりますが、当然これらは高浜発電所建設に関係する建屋です。この時点で田ノ浦隧道の建設が始まっており、発電所敷地に取り込まれる道路の付け替えが始まっています。

 ここまでではっきり分かったことは、原子炉設置審査の報告にあるとおり、田ノ浦には集落はおろか居住者は一人もいなかったということです。ここで最近流布されてきた立ち退き云々は、嘘であったことが自明となりました。ここにその嘘を再掲します。

a)高浜発電所立地においてある部落(集落のこと)が立ち退きになりそれが、森山氏の利権の源であった

 これは航空写真を調べれば一目で分かることで、否定は容易です。そうではあってもファクトチェックを誰かがやらねばなりません。こういう非生産的な嘘を羅列するのは止めてほしいものです。

 ここまでで嘘を一つ潰すことは出来ましたが、折角ですのでその後の推移を見てみて行きましょう

◆原子炉工事開始からはこう変化した

 1969年12月12日に原子炉設置許可が下り、同年12月26日に工事が本格的に始まります。航空写真は、1970年5月1日に撮影されています。

 1970年5月1日になると造成工事は田ノ浦全域に拡大しており、高浜湾側(東側)への取水路の開削(かいさく)も進んでいます。特別高圧送電線(特高:設計500kV運用275kV)の鉄塔敷設が始まっていることも分かります。道路の改良工事も活発化しており、小黒飯地区南の交通難所を迂回する為の白浜トンネルの工事が始まっています。

 田ノ浦地区から内浦湾へは大規模に土砂流出が起きており、漁業への影響があったものと思われます。これは、海岸を埋め立てて専用港を造成していた為です。

 1972年5月3日になると1年あけて1970年11月25日に設置認可が下りた2号炉も含めて原子炉格納容器の設置が終えており、1号炉2号炉ともに生体遮蔽板(鉄筋コンクリート(RC)構造の茶筒のような原子炉建屋)の取り付けが始まっています。

 敷地も取水路、排水路共に姿を見せており、更に3,4号炉用地の造成も進んでいます。この取水路の建設によって道路が遮断される為、内浦大橋が供用開始されています。

 1974年10月25日では、すでに1号炉は完成しています。1号炉は、3月27日初併入11月14日営業運転開始で、撮影時点では、試運転中です。2号炉はまだ建設中ですが、大きな工事はすでに終わっています。

 1975年08月31では、1号炉定格出力運転中、2号炉試運転中となります。特高は一系統二回路のみで、加えて音海までの高浜連絡線77kV一系統一回路が接続されておりますが、脆弱性があります。ここで気がついたのですが、特高の鉄塔が地図・写真検閲で消されているようです。発電所直近の三本は写っていますが、四本目が不自然にぼけており、五本目、六本目の鉄塔があるべき場所の写真を最大に拡大すると、不自然なぼかしがあります。こういった子供だましの無意味な行為は止めていただきたいです。

 1976年7月8日では、1号炉2号炉共に定格出力運転中です。排水路の流量が多いことが写真からよく分かります。なお、2号炉の営業運転開始は、1975年11月14日です。

 このように高浜発電所1,2号炉は建設されましたが、着工から営業運転開始まで1号炉が59ヶ月、2号炉が58ヶ月と5年未満です。

◆3号炉、4号炉の建設

 次いで3号炉、4号炉の建設を追います。高浜3,4号炉は、1,2号炉着工から約10年経過した1980年12月に同時着工しています。但し4号炉は、3号炉に工期を6ヶ月遅らせています。

 高浜3号炉は、わずか50ヶ月の工期で1985年1月17日に営業運転開始、高浜4号炉は、計画を2ヶ月繰り上げて54ヶ月の工期で1985年6月5日に営業運転を開始しています。

 高浜3,4号炉は、大飯3,4に先立ち関西電力原子力黄金期を体現する原子炉と言えます。

◆そして福島核災害以降の高浜発電所周辺

 時を隔てて2011年、福島核災害により全原子力発電所は順次停止となり、一挙に大量のバックフィットのための工事を行うこととなりました。これは80年代以降運開の改良標準化炉(PWRの場合は、川内1,2、玄海3,4、伊方3、高浜3,4、大飯3,4、敦賀2、泊1,2,3)を除く原子炉では工事量=費用が著しく増加することを意味します。

 高浜発電所では、3,4号炉の操業再開は、司法リスクの顕在化などで停止期間が生じましたが、BWR陣営や、古いPWRに比べれば圧倒的に円滑であったと言えます。

 ここで航空写真は2013年7月20日となります。原子炉は全炉停止中で、写真の時点では、取水路を除き大きな工事は行われていません。また、外部電源は500kV二系統四回線、77kV一系統一回線となっており、最低限の冗長性があります。

 この写真の時点で、1号炉は残り1年強、2号炉は残り2年強の残余寿命しか残しておらず、延命に向けてのバックフィット工事の膨大さから費用と工期を考えればこのまま廃炉が妥当でした。

 一方で3,4号炉は、残余寿命がまだ十分にあり且つ、炉の設計・施工も優れている為に特重を除けば大規模な工事を必要としていません。

 Google Map衛星写真が2018年後半から2019年3月頃の撮影と思われますが、本シリーズ第一回でご紹介しましたとおり、高浜発電所では、経営陣の正気を疑うようなたいへんに大規模な工事が行われています。1,2号炉延命工事、バックフィット工事に加えて特定重大事故等対処施設(特重)工事が行われており、その工事量は膨大です。結果として工事は遅延し、電力業界と財界による圧力を原子力規制委員会が当然拒否した事もあって、3,4号炉は来春から少なくとも1年、工事遅延の度合いによっては数年間の停止となることは必至で、1,2号炉の操業開始も大幅に遅れます。これは明らかに戦力分散・戦力逐次投入の愚の結果であって、関電経営陣の初歩的且つ致命的な判断ミスです。

 また最後のGoogleによる衛星写真に赤い橋が見えますが、これは原子力発電施設等立地地域特別交付金事業 一般県道 音海中津海線(大飯郡高浜町音海~小黒飯)によるもので、約55億円の国費・県費が投じられています*。

<*原子力発電施設等立地地域特別交付金事業 一般県道 音海中津海線(大飯郡高浜町音海~小黒飯) 2018/02/09 福井県>

 勿論、地方の生活道路改修は大切なことですが、これも原子力の費用です。



◆完全に否定された関電被害論「集落立ち退かせ」説

 ここまでで、まず「関電被害者論」のデマゴギーの一つである「高浜発電所は集落を立ち退かせた」は完全に否定されました。

 同時に高浜発電所近傍の歴史を俯瞰することによって、その栄光と急速な衰亡が明らかとなりました。このままですと、1,2号炉に引きずられる形で3,4号炉の運転実績も大幅に劣化するでしょう。

 こうなることは、当初から自明であって関電経営陣がなぜこのような判断ミスをしたのか不思議でなりません。狂った経営判断には、狂った事情があったとしか考えられません。

 そこへ浮上したのが長年の宿痾としての関電巨額資金還流事件です。この膿は完全に出し切ってしまわなければ関電にも日本の原子力産業にも将来は無いでしょう。

 次回は、音海半島、高浜町全体を俯瞰しながら、もう一つのデマゴギーについてその虚構を露わにします。

◆『コロラド博士の「私はこの分野は専門外なのですが」』~緊急特集・関西電力資金還流問題編3

<取材・文/牧田寛>

【牧田寛】

Twitter ID:@BB45_Colorado

まきた ひろし●著述家・工学博士。徳島大学助手を経て高知工科大学助教、元コロラド大学コロラドスプリングス校客員教授。勤務先大学との関係が著しく悪化し心身を痛めた後解雇。1年半の沈黙の後著述家として再起。本来の専門は、分子反応論、錯体化学、鉱物化学、ワイドギャップ半導体だが、原子力及び核、軍事については、独自に調査・取材を進めてきた。原発問題についてのメルマガ「コロラド博士メルマガ(定期便)」好評配信中

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