関電資金還流問題で飛び交う「元助役が交通遮断した」論を航空写真と地形図で検証する

HARBOR BUSINESS Online / 2019年10月18日 8時32分

写真

内浦湾より撮影した高浜発電所(筆者撮影)

◆自民党政治家の名前が出て浮上した「関電被害者論」

 このシリーズ(過去記事はHBOL本体サイトの欄外にリストアップしてあります)では、関西電力資金還流事件について、安倍自公政権与党政治家へ波及したときと同じくして差別扇動と言っても良い「関西電力被害者論」が跋扈したことを厳しく批判してきました。

「関西電力被害者論」では、話題の渦中となった元高浜町助役・森山榮治氏(故人)が強大な権力を持った結果として、この手の裏金事件としては一般的な、地域ボスへの企業からの不正な資金の供与とその資金還流ではなく、反対に森山氏が億単位の金品の贈与を関西電力幹部・社員に対し長年一方的に行ってきたという、大変に風変わりな「設定」になっています。

 そしてその根拠として次に挙げるものが流布されてきました。

a)高浜発電所立地において、ある部落*(集落のこと)が立ち退きになり、それが森山氏の利権の源であった

b)森山氏の居住する集落(または関係する集落)が、高浜発電所への主要道路にあり、森山氏にたてつけば交通遮断された

 前回、これらのうち「a)高浜発電所立地において、ある部落*(集落のこと)が立ち退きになり、それが森山氏の利権の源であった」という説を事実と証拠に基づいて完全に粉砕しました。

 この「立ち退き論」は、初期にでてきたもので最近は見かけませんが、いまだに時々見かけた、聞いたとの報告が読者よりなされます。この手の嘘は、一度完全に否定しないといつまでも残ります。そもそも否定しても忘れたころにまた持ち出されます。持ち出す側は、事実などどうでも良いのですから当然でしょう。

 さて今回は、「立ち退き論」よりも遙かに多く流布されてきた説について論説します。

b)森山氏の居住する集落(または関係する集落)が、高浜発電所への主要道路にあり、森山氏にたてつけば交通遮断された

 わたしはこれを「ピケット論」と呼称しています。

◆事実はどうか 道路封鎖の恐れはあったのか?

 ここでは、前述の関電被害者論の根拠とされるa)b)の二点のうちb)について証拠を添えて論じます。

b)森山氏の居住する集落(または関係する集落)が、高浜発電所への主要道路にあり、森山氏にたてつけば交通遮断された

 用地買収や、道路整備の遅れから原子力発電所の建設が遅延したり一時中止した事例としては、後年の大飯発電所1,2号炉建設工事*が挙げられます。

<*大飯原子力発電所建設工事の概要 畑中俊吉,本郷忠夫 関西電力(株) 建設の機械化1974/7 pp.43-47:pp.45の記述では、取り付け道路延長約11kmを道路法第24条に基づく請願工事として、後の福井県道241号線の建設を関西電力が実施した。しかし用地買収に難航したため道路建設工事は大きく遅延し、1972年には発電所を含めた全体の工事が三ヶ月間中止された>

 元々道路そのものが無く、集落間は渡船による移動のみであった大島の先端に建設された大飯発電所に比して、例え道路規格が著しく低くても音海まで自動車通行可能な道路が整備済みであった音海半島では、条件は大きく緩和されていますが、少なくとも1,000人/日という1日あたり千人規模の労働者の毎日の輸送と残土処分*の問題が生じる為に工事用の道路確保は重要です。

<*大飯発電所では、物資や人員の輸送などは海路で行っていたが、残土はその量の莫大さから、陸上輸送を必須とした為、取り付け道路工事の遅延がもとでスケジュールが破綻を来し、3ヶ月の工事中止に陥った>

 ここでもまた国土地理院地形図と、航空写真を見てゆきましょう。

◆地形図で見る高浜発電所への動線

 まずは、現在の1/25,000地形図を閲覧します。現在の地図を見る限り、高浜発電所のある田ノ浦までは、現在使われている高浜町からの福井県道149号線、舞鶴市から高浜町を迂回する場合は京都府道772号線・福井県道21号線の二つの動線が確保できます。

 また、音海地区にある内浦港も海上輸送の拠点と出来、有力な動線となり得ます。

 従って高浜発電所は、現在三つの独立した動線を確保できる可能性があります。これは、動線が非常に乏しい日本の多くの原子力発電所の中では珍しい優位点です。現在高浜発電所では、特重関連工事として動線の複数化が求められています。

 筆者は、おそらく神野側の県道21号線と第二動線を接続するのではないかと推測しています。仮に推測が正しければ、高浜発電所は、独立した2つの陸上動線と1つの動線を持ちうる国内では比較的珍しい発電所となります。

 海上輸送は、重機材や資材の輸送に使われますが、毎日1000人単位の労働者を現場に運ぶには、陸上輸送が確保されていることが望ましいです。現状では県道149号線の難波江(なばえ)・田ノ浦間こそ重複しますが、二系統の陸上輸送経路が確保されています。また福井県道21号線からは神野浦(こうのうら)から田ノ浦までの直通道路を短期間で仮設することは可能ですので建設にあたって陸上輸送経路の確保は容易と言えます。

 しかし地図はあくまで2019年現在の物です。約50年昔と大きく変わっている可能性があります。そこで今回も国土地理院空中写真閲覧サービスを用いて当時の音海半島周辺を広域にわたって調べましょう。

 なお、写真枚数が多くなりすぎる為、写真は音海半島と音海半島基部のみのご紹介とします。舞鶴市から塩汲峠を経た動線に関心を持たれた場合は、国土地理院地図・空中写真閲覧サービスで閲覧してください。

◆国土地理院空中写真で見る音海半島周辺地域の歴史

 まず1948年10月の航空写真を見ますと、音海半島にはまともな道路がありませんし、内浦港にも近代的港湾施設はありません。京都府と福井県境で道路が途切れていますので全くお話になりません。敗戦前の日本がモータリゼーションという一大社会変革を経ていなかったことがよく分かります。これでは渡船による海上交通しか頼れません。こんな貧弱な社会でよくも合衆国に戦争を仕掛けたものだと呆れかえるほかありません。

 この時点では、田ノ浦は事実上全方位に向けて孤立しており、山道を介してか、小舟で耕作の為に通うことになります。この時代にはそう珍しいものではなく、国内の海岸部にはあちこちに船通いの孤立した農耕地がありました。

 田ノ浦までの動線は、舞鶴市からは県府境界の塩汲峠(しおくみとうげ)で車両通行可能な道路が断絶しており(実際には塩を運んだ古道がある)、県内も神野浦まで車両交通がなんとか出来るという程度です。高浜町からは、難波江までは車両が辛うじて入れますが、難波江より北の小黒飯、田ノ浦までは徒歩となります。音海には近代的港湾施設がなく、道路も小黒飯まで精々徒歩です。



 次に1962年の昭和天皇若狭行幸翌年、1963年になると、陸上自衛隊による道路設営などもあって、舞鶴、高浜、音海の三方向の動線が、道路通行可能となります。まだ、なんとか通れる程度という箇所も残っていますが、予算を投入すれば数年程度で大型車両通行可能となりますので、原子力発電所建設への悪影響はありません。

 なにしろ隣の大島では、約4年遅れで計画の始まった大飯発電所用地までは、道路が全くなく、11キロの取り付け道路(後の福井県道241号線)を関西電力自ら建設しています。

 この時点で音海には、近代的港湾施設はありません。従って、陸路のみの二方向の独立した動線が確保されつつあります。

◆原発誘致から3年後。急速に進む道路整備

 1965年の高浜町による原子力発電所誘致から3年経過した時点、1968年になりますと、音海半島の道路整備が急速に進み始めます。とくに田ノ浦周辺には重機材が入り盛んに工事を行っています。

 大飯発電所の場合、原子炉設置認可の3年ほど前から準備工事と称して11キロに渡る取り付け道路の新規建設工事を始めていますので、高浜でも同様な事が行われていたものと思われます。

 特筆すべきは、音海地区で近代的港湾施設の建設がはじめられており、これによって陸路二系統、海路一系統で合計三系統の独立した動線が確保されつつあることです。

 次は1969年です。この5月に一号炉設置申請、12月に設置許可が下りて12月26日に本格着工しています。従って、1969年12月25日までは、あくまで準備工事です。ずいぶん派手にやっているなと思いますが、電力会社による事前調査に合格していれば設置審査もすんなり合格出来た時代なのでしょう。

 商用原子力利用の古き良き時代を感じますが、その時代の原子炉が三基まとめて過酷事故を起こして爆発したり破裂したのですからやはり原子力規制の特徴であるバックフィットはきわめて、きわめて重要です。

 1969年では、まだ準備工事の段階ですが、音海・田ノ浦間の道路改良が着々と進んでいます。また、音海の内浦港建設も進んでおり、木材の荷役が始まっています。

 この前年の1968年11月9日に音海に本社を置く日本海港運株式会社が創業し、木材をはじめとした輸出入をはじめています。結果、保税蔵置場(保税倉庫)が置かれています。

 高浜発電所誘致前には、難波江から神野を経て塩汲峠に至る道が内浦湾沿岸開発の主流だったものが、高浜発電所誘致後は、難波江から小黒飯を経て田ノ浦へ、音海から田ノ浦へと開発の主流が変わったことが分かります。

 そもそも、田ノ浦ですから、田んぼのある湾処ということで、このあたりでは人の住まない平地という地名だったのですが、高浜発電所誘致によって内浦湾の開発中心となったわけです。これを見て、道路の無かった大島の住民が大飯発電所誘致に動いたのも当然でしょう。

◆田ノ浦隧道開通で音海・田ノ浦間2011年と同じ状態に

 高浜発電所着工後の1970年になると、一挙に土木工事が本格化しました。音海から田ノ浦までの道路拡幅は全域にわたり、小黒飯から田ノ浦までの道路改良も着々と進んでいます。

 この年に高浜発電所敷地を迂回する田ノ浦隧道が開通し、音海・田ノ浦間の道路も2011年とほぼ同じ状態になっています。

 なお、国道27号線から三松を経て難波江へ至る経路に住宅地を通る箇所と岬越えの線形の悪い箇所があますが、1970年8月開通の県道21号線白浜トンネルが開通し、三松・田ノ浦間の動線は、ほぼ完成しました。

 舞鶴市から塩汲峠、神野のを経た動線の整備も盛んで、高浜発電所建設開始時にはすでに陸路二系統、海路一系統の合計三系統の概ね独立した動線が確保されていたことが分かります。

◆すでに3つの動線が確立していた1972年

 1972年になると音海の内浦港には貨物船も入り、盛んに木材の荷役が行われています。また内浦港の造成は継続しています。

 この頃になると三松から難波江を経て田ノ浦、音海までは現在とほぼ同じ動線が確保されています。また、舞鶴から塩汲峠をへて神野、難波江へ至る動線も概ね整備を終えています。

 1972年にはすでにほぼ独立した陸路二系統、海路一系統の動線が確保されていることになります。

◆道路封鎖の可能性はあったのか

 ここまでではっきりしたことは、高浜発電所は、陸路二系統、海路一系統のほぼ独立した動線を持っていたことです。関西電力は、1965年の誘致後、直ちに調査工事と並行して準備工事を始めており、1970年の時点ですでに必要な動線を確保していました。

 ここでもしも1968年頃に沿線住民の反対運動が起きた場合どうなったでしょうか。その場合は、舞鶴・塩汲峠・神野浦の経路を整備し、最悪の場合でも神野浦から海岸沿いないしトンネルで田ノ浦に独立した動線を確保すれば良いだけです。

 重機材は、内浦港から搬入出来ますので、工期の遅れはほとんど無いと思われます。

 ここで大飯発電所の工程を見てみましょう。大飯発電所は、高浜発電所に5年遅れて調査、着工、運開しましたが、道路が全く存在しておらず、本体着工に二年先だって取り付け道路を着工しています。あいにく、道路用地の買収が難航し、三ヶ月の全工事中断となりましたが、54ヶ月で一号炉、59ヶ月で二号炉を運開しています。

 すでに陸上自衛隊によって車両通行可能な道路が整備されており、舞鶴から塩汲峠経由の街道も車両通行可能、内浦港の整備も間に合っていた高浜発電所建設工事で、地元ボスの機嫌を損ねた程度で発電所建設の動線が閉塞されることはあり得ません。

 更に言えば、元高浜町助役の森山氏(故人)は、高浜発電所建設促進の為に浜田倫三町長(当時)が招聘した人物であって、この人物が交通遮断を行うこと自体があり得ないことです。仮になされても関電は迂回経路を確保できますし、最悪の場合は海上輸送により工事を進め、我慢比べすれば良いだけです。

 なにしろ原子力発電所の工事には毎日千人単位の労働者が関わります。宿泊飲食だけでもたいへんに町は潤いますし、様々な資材調達、求人があります。

 地域ボスが、そのようなまさに「利権」をむざむざ舞鶴市なり音海なり神野なりに譲り渡す可能性は全くありません。

「ピケット論」は、動機も実現性もあり得ないのです。

 ここで最近流布されてきた道路封鎖云々は、真っ赤な嘘であったことが自明となりました。ここにその嘘を再掲します。

b)森山氏の居住する集落(または関係する集落)が、高浜発電所への主要道路にあり、森山氏にたてつけば交通遮断された」

 これも航空写真と地図を調べれば一目で分かることで、否定は容易です。そうではあってもファクトチェックを誰かがやらねばなりません。こういう非生産的な嘘を羅列するのは止めてほしいものです。

 まさに恥知らずの大嘘つきです。

◆その後の高浜発電所、音海地区

 さてここまでで恥知らずなデマゴーグ達が垂れ流した嘘、「ピケット論」は完全に否定しました。ここで終わって良いのですが、折角ですのでその後の高浜発電所と音海地区の変遷を見て行きましょう。

 1976年になると、一号炉、二号炉が完成しており、内浦港は木材荷役で大いに賑わっています。

 1981年になると、三号炉、四号炉の建設が始まり、ほぼ5年ぶりの電力土木・建設で賑わっています。内浦港も造成が進み、今と同じ姿を現しています。

 1985年には、三号炉と四号炉が操業開始し、内浦港も全体の運用に入っています。内浦湾には防潮堤が出来、現在に至るまで、釣りの名所となっています。

 1990年になると内浦港の最初の埋め立て地が更地になり、現在の関西電力音海作業所が見えています。1985年から90年の間に内浦港の第一期造成地を関西電力が使い始め、現在は関西電力音海駐車場とし、職員はここからバスでピストン輸送されています。高浜発電所は、敷地が狭隘な為、いろいろと苦労していることが分かります。

 この後あまり動きは無くなり、1995年頃から木材荷役が激減するなどしています。

 2013年に飛びますと、内浦港では木材、土木資材にくわえて中古自動車、自動車スクラップの取り扱いをしていることが分かります。高浜発電所は、大きな工事も無く、静かなものです。

◆物故者に罪を着せ、出自差別までする「関電被害論」デマを許すな

 これまで四回にかけて徹底して事実と証拠に則って検証し、「関電被害者論」という卑劣なデマゴギーを否定しました。

 原子力発電所建設にあたっては、自治体幹部と政治家、地域の名士を利権で抱き込むことにより地方自治体をその支配下または強い影響下に置いてきたことはよく知られています。

 日本商用原子力史はそろそろ50年になりますが、すでに初期の人々の多くが物故者となっています。過去から現在に及ぶ企業や自治体の不正行為をごまかす為に死人に口なしで物故者に罪科を押しつけ、出自差別、民族差別まで持ち出して逃げにかかったのが「関西電力被害者論」と言えます。

 このような卑劣かつ愚劣な事は絶対に許してはいけません。

◆『コロラド博士の「私はこの分野は専門外なのですが」』~緊急特集・関西電力資金還流問題編4

<取材・文・図版/牧田寛>

【牧田寛】

Twitter ID:@BB45_Colorado

まきた ひろし●著述家・工学博士。徳島大学助手を経て高知工科大学助教、元コロラド大学コロラドスプリングス校客員教授。勤務先大学との関係が著しく悪化し心身を痛めた後解雇。1年半の沈黙の後著述家として再起。本来の専門は、分子反応論、錯体化学、鉱物化学、ワイドギャップ半導体だが、原子力及び核、軍事については、独自に調査・取材を進めてきた。原発問題についてのメルマガ「コロラド博士メルマガ(定期便)」好評配信中

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