妻でも母でも娘でもない「私を」求めてーー「Red」三島有紀子監督<映画を通して「社会」を切り取る14>

HARBOR BUSINESS Online / 2020年3月9日 15時32分

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©2020『Red』製作委員会

 島本理生さん原作の恋愛小説『Red』。出版当初から主人公塔子の生き方に対して賛否両論の同作品が、「個人の生き方を問う」映画に生まれ変わって、新宿バルト9他全国の劇場で公開中です。

 誰もが羨む一流商社勤務の夫、可愛い娘、郊外の瀟洒な家。〝何も問題のない生活“を送っていたはずだった主人公の村主塔子(夏帆)は10年ぶりにかつて愛した男・鞍田秋彦(妻夫木聡)に再会。鞍田は塔子の学生時代のアルバイト先だった設計事務所を畳み、現在は友人の会社で設計に従事しています。

 そして鞍田との再会をきっかけに、塔子は「また働きたい」という気持ちに目覚め、鞍田の誘いにより、鞍田と同じ設計会社で社会復帰することに。徐々に仕事にやりがいを感じ、同僚の小鷹淳(柄本佑)とは会社の飲み会を抜け出して心の解放を感じることも。一方、鞍田との愛が深まっていき…。塔子と鞍田の運命の歯車は再び動き出す。

 今回は、かつては専業主婦であり「家」に縛られて生きていた塔子が自分を取り戻し「個人として」の人生を歩み出す瞬間を描きたかったという三島有紀子監督に、塔子と夫・真、塔子と鞍田との関係性の違い、そしてこれから描きたいテーマなどについてお話を聞きました。

※映画のネタバレになる内容も含みますのでご注意ください。

◆母親だけが親なのか

――子どもの親は父親と母親であるのに、子どもの面倒を見るのは母親で、子どもに何かあった場合の責任も母親が負うという価値観がリアルに描かれています。そして、「二人目の子どもが欲しいから仕事を辞めて欲しい」と悪気もなく塔子へ告げる真は世間のある一定層の代弁者のようにも思えました。

三島:今、子作りや子育てを巡る環境にはいろんな方がいらっしゃって、真のようなことを言う人ばかりではないと思います。でも、金銭的に豊かで経済的なことを中心に考えているある種ハイソサエティーな家庭の人にはこういう発想の人もたくさんいるんじゃないかと感じています。

 お金を稼いでいる人が常に上で、その人の補佐として女性が存在する。そういうご家庭を実際にたくさん見てきたので、そんなことも盛り込みました。女性自身も、子育ての役割は本来母親の仕事と考える方もいらっしゃいますし、仕事していても母親として子供と一緒にいられないことに後ろめたさを感じてしまう方もいらっしゃいますしね。

 独身でも、例えば、男性で料理が下手でもなんとも思わないけど、女性で料理が下手ってなんとなく言いにくかったり、みんなで食事に行った時に女性がサラダを取り分けるものであるという無言の圧力を感じたり…なんていうことも女性の間では話題になりますよね。そんな圧力をかけてくる男性の象徴が真ではあります。

 ただ、真を悪者にはしたくなかったんですね。妻を大切にしながら生きている人たちの中にもこういう常識があるということを示せたらなと。ある種日本社会の決定権を握る人、またそこに近い人たちの考え方はこういった考え方の人も多いなと感じますしね。だから教育も社会も変らないのかなと。

 真が悪者ではなくて、真みたいな男性が生まれる背景がきちんと見えたらいいなとあの家族を描いていました。つまり真も縛られていると言えます。父とは、夫とは、こうあらねばと必死で頑張っているんですよね。

――今の40代~50代の母親世代からするとその価値観が当たり前なのかもしれません。

三島:実際「これぐらいで文句言ってたら結婚なんてできないよ」と言う方もいらっしゃいましたね。一方で、子育ては女の仕事だと思っていたり、こんなに黙って夫に従ったり、周りがうまくいくように我慢ばかりする人ってまだいるの?古くない?という反応もありました。年齢や、文化の違いで感じ方は変って来ると思います。

 でも、なんとなく、このもやもやとした感覚は女性ならどこかで感じることがあるのではないかなと思って作っていました。自分はよく、もやもやすることを男女を入れ替えて考えます。入れ替えて不自然なものはやはり不自然だよなと。不自然だなと感じたり、普段考えたりしていることをこまめに発信していくしかないと思いますね。そうすれば対話も生まれてよいと思います。

 こうして、考える時は俯瞰で社会を見つめて発信していこうと考える訳ですが、個人的な物語に落とし込む時に、社会や他者のせいにしていても何も見えて来ないなと感じます。だから、夫の真に「全部俺のせい?」と尋ねられた塔子に「ちがう。全部自分(のせい)だ」と言わせました。

 今までしてきた自分の選択をきちんと振り返ってから、自分が大事だと思うことのために、塔子は、例え世間では許されないとされる決断になってしまったとしても、人生のどこかの時点で覚悟を持って進んでいかなければならないと考えながら脚本づくりをしていました。きちんと振り返ることは、自分自身も意識して心にとどめておきたいことです。

◆お互いの存在を見つめ合うということ本当の価値観の共有

――塔子は真とは「夫と妻」「娘である翠の父母である」という事実関係だけがあるように見えましたが、鞍田とは建築の仕事を通してお互いの能力を認め合うという価値観の共有がありますね。そのコントラストは原作にはないものでしたが、その点について意識したのでしょうか?

三島:夫である真とは積み上げられない愛を、同じ職場にいる鞍田とは積み上げていることは意識しました。真は塔子を妻か母としか見ていませんが、鞍田は塔子のデザイナーとしてのセンスや才能も見ているんですね。その中で育まれる愛情は、真には手が届かない。

 鞍田は、食事の時も塔子が好きなものをちゃんと覚えていて、彼女と「おいしい」ということを共有しようとする。鞍田ならまずい食べ物も「まずいね」と共有することが出来るでしょう。いま、同じものを食べたり、見たりしている、共有している認識がきちんとあります。

 真は塔子をいわゆる高価で美味しい食事に連れて行きますが、「夫としてこういうことをしていればいいだろう、妻が喜ぶだろう」という思い込みがあります。本当は塔子が何が好きで、どういうものを食べたいのか、どういう空間が好きか、そういうことについて真剣に考えたことはないんだろうなと思いながら、対比を作っていきました。喜ばせたいという想いはあるわけですが、共有できていない感じです。

――鞍田とは仕事を共にし、互いを認め合っています。ベッドシーンも丁寧に描かれますが、そこには共有している感覚があるということの象徴なのではないかと感じました。

三島:そうですね。仕事でもセックスでも、2人はお互いのことをきちんと見つめて、その人自身を知り、感じる。そこには、感情の循環があり、それを共有している。そしてそれは、言葉を必要としない、ある意味、とても崇高で美しいコミュニュケーション(対話)のひとつだと感じています。

◆塔子が最後に選んだのは

――『幼な子われらに生まれ』(17)に続き、今回も家庭を描いていますね。

三島:『幼な子…』は、本来、居心地のよい居場所だったはずの家庭が、再婚した妻の妊娠により軋んでいくわけです。『Red』は、家庭全体を、あるひとつの価値観に支配された閉鎖的な籠の中というイメージで描いています。

 塔子は、かつて愛した鞍田と出会って、家の外に出て仕事をしたり、今まで抑えていた自分らしさが見えて来て、仕事柄〝個人にとっての居心地の良い空間〟を見つめ直していきます。この映画の中の家庭は日本の「家」の象徴であり、世間でいいとされている母像や妻像を求めてくる小さな社会の象徴になります。そのため、一度外に出て働き始めてからあまり家のシーンは出てきません。心を占める割合でいえば、外にありますから。でも、子供の怪我をきっかけに、「個人」から「家」「母」「妻」に一気に連れ戻されるというように描きました。

 日本人と「家」というのは、現代であってもなかなか切り離せませんよね。小さな社会である「家」や「世間」という大きな社会から離れて、まずは「個」としてのアイデンティティを見つめ直さないと、日本の文化度は成熟しないのではと思うこともあります。あなたは何者なのか?ということを問い続けたいと思うのです。そういうこともあって「家」からの解放は、日本に生きる自分にとってのひとつのテーマでもありますね。

――ラストシーンは原作とは異なりますが、それについてお聞かせください。

三島:二人がどこを目指しているのか。それについては映画を観ていただいた皆様に、自由に想像してもらえたら。そして、誰とどこを目指して行くのか、そんなことをほんのちょっと想像するきっかけになれば嬉しいです。少なくとも塔子が選んだのは鞍田ではなく、自分だと思って描いたつもりです。誰を愛するか、何を愛するか、は「どう生きるか」という選択だと思いますから。最後に、二人は、見たかった風景を見られたのではないか、と私は思っています。

 鞍田が死んだ後の選択は、もちろん正しいとは思いません。ですが、いろんな人間が描かれるのが映画というものなのかなと。人間は、失敗もするし、そんな選択をしないと前に進めないこともあると思うんです。だから我々は、2020年を生きる塔子に、元の家に戻るのではなく、まずは〝自分(個)として生き始める〟ことを選択させました。ただ、選択というのは残酷なものです。選択は、誰かを深く傷つけることがある。それもきちんと描きたかったので、子供の表情も丁寧に撮っていました。自分自身も、別れのシーンを撮影した後は、いたたまれなくて子役の子を抱きしめましたが。

 そして、一人の同じ人間として、子供に対して子供扱いしないで、ひとつの生き方を見せるというやり方で伝えるのは、母親である女性を描く映画としては珍しいと多くの方に言われましたし、非常に厳しくはありますが、そこも感じて頂ければ嬉しいです。

◆喪失の先を描いてみたい

――今後の作品はどのようなテーマを考えていますか?

三島:いろいろありますが、自分自身が年齢的に失っていくものばかりになってきたこともあり、「いろいろなものが失われていった後でも、次という未来に向かえるにはどうしたらいいのか」ということがテーマの映画は撮りたいと思っています。

 ここ数年の間に、実家は解体され、友人の死も経験しました。そして、AIが発達して今後失われていく職業も多くあると言われていますよね。「何かが失われる」という状態が一気に来て、自分や世の中全体が喪失感に覆われる時がくるのかもしれない。そうなった時にどうやったら「次がある」と思えるのか、見つめたいなと思います。

――この映画は「小さな選択に責任を持って生きているのかを問いながら作った作品」とおっしゃっていましたが、監督ご自身が映画の道を選んだのはいつだったのでしょうか?

三島:4歳の時、生まれて初めて見た映画がイギリスの『赤い靴』(監督・マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー)だったのですが、その映像の美しさと、主人公が自殺してしまうといことに衝撃を受けました。人間には、死ぬ自由もあるのかと。

 また、6歳でとてもつらいことがあり、自分が生きていくことをなかなか肯定できずにいました。そんな時、映画館に行って、自分とは違う人間の人生を共有して、泣いたり笑ったり応援したり虚しさに包まれたり。映画を観ている時間が自分を救ってくれました。

 そして10歳の時に観た『風と共に去りぬ』(監督・ヴィクター・フレミング)。主人公のスカーレット・オハラは、少女の頃白いワンピースを着ていますが、南北戦争や結婚離婚を繰り返して、何もかも失った時には、黒いワンピースを着ていました。

 それがとてもたくましく思えて、「汚れたっていいんだ。むしろ生きることは汚れていくことなんだ」と、この世は生きる意味があると思えました。映画のエンドマークが出た時に、映画を作る人になりたいと思いました。そこが原点ですかね。

 映画『Red』もぜひ、人間の細やかな表情を大スクリーンで、人間の吐息や声や2人にだけ聞こえている波音などを心に響く音響システムで、体感していただきたいです。そして、素直にいろんなことを感じてもらって、是非、いろんな方と対話してもらえたら、そこから何かが始まるのでは?と思っています。映画の灯を消さずにお待ちしています。

<取材・文/熊野雅恵>

<取材場所/CozyStyle COFFEE(落合)>

【熊野雅恵】

くまのまさえ ライター、クリエイターズサポート行政書士法務事務所・代表行政書士。早稲田大学法学部卒業。行政書士としてクリエイターや起業家のサポートをする傍ら、自主映画の宣伝や書籍の企画にも関わっています。

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