『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の世界が持ち続ける「平和への志向性」

HARBOR BUSINESS Online / 2020年10月13日 15時32分

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映像の美しさ、ストーリーの切なさで男女問わず人気の作品で、劇場もさまざまな人が観にきていた。写真は、ある劇場入り口に掲示されたポスター

 2018年の1月から4月にかけて放送されたテレビアニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の続編であるアニメ映画 『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が、9月18日から公開されている。

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、暁佳奈の同名小説を原作とし、20世紀前半程度の文明レベルを持つ地球とよく似た異世界で、「自動手記人形(ドール)」と呼ばれる一風変わった手紙の代筆業に従事する少女を主人公とした物語だ。

◆代弁者としてのドール

 現実世界のタイピストが女性の職業として現れたように、ドールもまた女性が就く職業とされている。しかしドールは単なる口述筆記のための文字打ち業ではない。ときには依頼人と相談しながら文案を考え、ときには文をつくる能力がない依頼人のために、いくつかのキーワードを聞くだけで初めから終わりまで手紙の内容を創作する。つまりドールとは、いわば代弁業なのだ。

 ところで他者を代弁する者は、自分自身の主体があってはならない。この職業がその社会的地位の高さとは裏腹に、ドールという非人格的名称で呼ばれているのもそれが理由だ。「よきドールとは、人が話している言葉の中から、伝えたい本当の心を掬い上げるものです。」しかし、他人が何者かの心情を代弁するということは、本来暴力的な行為だ。それがこの物語において肯定的な営みとして描かれているのは、ドールが依頼人に対する機能に徹して代弁を行い、またその依頼人も、自分自身の心情を手紙の相手に対して代弁者の言葉を通してでも伝えたいという意志が明らかになるからだ。

 さらに手紙の代筆は、その依頼人の再帰的な主体化も促す。死にゆく兵士はドールを通して故郷の家族と想い人に手紙を書くことで、自分自身の体験や感情を解釈して表現する。そのときに自己を省察するための対話相手としてドール(ヴァイオレット)はその役割を果たすのだ。

◆語る言葉を見つけたヴァイオレット

 こうしたドールの機能を踏まえて主人公ヴァイオレットの人物像を見てみると、まず彼女自身が、主体としての言葉を持たない存在だったことが目につく。ヴァイオレットは、戦争中は少年兵として生き、ギルベルトにかけられた愛情を理解することができなかった。しかしそれは、理解するすべを知らなかったにすぎない。彼女は常に冷静にみえるが、けして感情がないわけではない。「君は自分のしてきたことで、自分の身体に火がついて、燃え上がっていることをまだ知らない」とTVアニメ第一話ではやくもホッジンズに指摘されているように、ヴァイオレットは自身の感情を語る言葉を持っていなかったのだ。

 ヴァイオレットは、「『愛してる』を知りたい」という理由でドールになることを志願した。しかしタイピングや語彙の豊富さについては優れた能力を示すが、肝心の手紙が書けない。他者の体験や心情を解釈する能力がなかったからだ。だが、ドールの仕事を通して、依頼人の体験や心情を解釈に文章へと落とし込んでいくうちに、依頼人の体験や心情を通して、自分自身の中に語る言葉が生まれていく。

 ヴァイオレットが少年兵だったとき、彼女はその戦闘能力に敵からも恐れられる存在だった。彼女にとって敵の殺戮は単なる戦闘行為であり、国を守るという大義のために必要な行為だと伝えられていた。だがそれは国家の建前にすぎない。TVシリーズ終盤で彼女が死にゆく兵士のために手紙を書いたとき、はじめてヴァイオレットは自分が行なってきた行為は、血の通った人間の未来の可能性を奪うことだったと解釈するようになる。そして二度と誰かを死なせることはしないと誓う。

 とはいえ、ヴァイオレットの良心がここで生まれたというわけではない。彼女はもともと良心的な人間だったが、戦争について解釈する言葉を国家の建前以外には持っていなかったのだ。他者の体験の代弁を通して、自分自身の良心が自分自身の体験を解釈することができるようになった。そのことによって、ヴァイオレットは自分の経験を語れるようになったのだ。

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』シリーズは、様々な人々の群像劇である。しかし、そのエピソードのほとんどには、戦争の体験が影を落としている。戦争が終わって間もない社会という舞台設定と、上記のようなドールの仕事、ヴァイオレットの言語獲得という主題が構造的に関連して物語を構成しているのが本作の特徴であり、制作者がどれほど強く意識しているかは分からないが、その連関は自ずと反戦メッセージとして読み解くことができる。以下では、戦間期ドイツの歴史研究で用いられている経験史的アプローチの助けを借りて、そのことを示す。

◆暴力の経験史

 まず、今井宏昌『暴力の経験史 第一次世界大戦後ドイツの義勇軍経験1918~1923』(法律文化社、2016年)序章を参考に、戦間期ドイツの経験史的アプローチとは何かを概説する。

 なぜ第一次世界大戦後のドイツが、当時としては世界で最も民主主義的な憲法の一つであるヴァイマル憲法を有していながら、最終的にヒトラー政権の樹立に至ってしまったのか。これが戦間期ドイツを研究する者にとっての大きな問いであった。

 ジョージ・モッセは、第一次世界大戦という未曾有の戦争体験の「神話化」が、人々を暴力に慣れさせ、「政治の野蛮化」に至ったと指摘している。ヴァイマル時代のドイツでは、政治党派ごとに多くの準軍事組織が並立しており、末期には激しい街頭闘争が繰り広げられていた。

 ヴァイマル時代のドイツでは、右翼的な元軍人らの戦争体験が一種の英雄譚として語られ、戦没者の「英霊」崇拝が盛んになっていた。こうした「戦争体験の神話化」がもたらす戦時的なものの戦後への継続を背景に、反ユダヤ主義や、政敵の物理的排除といった「政治の野蛮化」が進んだ。

 「政治の野蛮化」が、ヒトラー政権に帰結したというモッセの議論を「野蛮化」テーゼという。しかし、この「野蛮化」テーゼには反対意見もある。モッセの議論においては、第一次世界大戦の戦争体験から政治の「野蛮化」までのルートは一直線だったかのようにみえる。確かに戦争の体験は人々の行動を変容させる。しかし、その変容のあり方は多様な可能性に満ちていたのではないか。

 ここで現象学や知識社会学にヒントを得た経験史的アプローチが登場する。人々はある出来事を体験する。しかしその体験だけではまだ何も起こらない。人々はその体験を解釈する。解釈された体験が、経験である。そして体験の解釈は、これまで同じ体験がどう解釈されてきたか、他の人はどう説明してきたか、など、既に社会の中に存在する解釈のモデル「解釈型」を参照することによって決定される。もちろん「解釈型」も複数存在するのであり、どのようなモデルに基づくかによって、自身の体験の解釈は左右される。したがって、そのことによって生じた経験に従って促される行動変容も、また多様な可能性があるのだ。

 たとえば戦争という出来事を体験したとしても、それが平和主義の解釈型を通して解釈されれば次に期待される人々の行動は戦争の阻止となる。一方、報復主義の解釈型を通して解釈されれば、人々は次の戦争のために準備するだろう。

 第一次世界大戦後のドイツでも、皆が第一次世界大戦を英雄譚として経験したわけではなく、平和主義を志向するようになった人々もいた。実証的には、人々の多様な経験史が報告されている。ナチズムへの道は、けして単線的ではなかったのだ。

◆経験の媒介者

 前提説明が長くなってしまったが、こうした研究史的な手法をふまえて改めて本作の舞台設定を考えると、ドールというシステムが、いかにこの世界の戦後社会において重要だったかがわかる。手紙代行業に依頼する者とは、つまり自分の体験をひとりでは経験化することができない者のことだ。ドールは依頼人の代わりに、依頼人の体験を解釈し、手紙へと変換する。その際、解釈された体験は、ドールの身体に共同主観的に保存され、新たな経験として解釈型を更新していく。

 人々が体験を解釈するための指針となる解釈型は、それ自体、不動のものではない。社会において新たな経験が積み重なっていくにつれて、解釈型もまた変容する。経験は、それぞれの主体と解釈型のあいだにあって、その二つを結びつける。

 それぞれ固有の戦争体験をもつ依頼人たちが、ドールという解釈型を通して手紙を作成し、その手紙の作成過程で経験がドールの中に蓄積されていく。それを繰り返していくとすれば、ドールは経験史の人格的象徴となる。

 ドールが伝える手紙は、国家的なイデオロギーや、通俗道徳が内面化された「うらはらな気持ち」ではなく、人々の本心としての愛情や悲哀といった生き生きとした感情に満ちている。そこに現れているのは血の通った人間同士の交歓であり、自ずとそれは、平和主義的な解釈型へと導く。

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の世界は、戦争が再発する可能性がなくなっているわけではない。TVシリーズの終盤は、報復主義にとらわれ、まさに「野蛮化」してしまった旧軍人との対決が行われている。そのような緊張を乗り越え、人々が戦争の抑止を志向するような解釈型の場となることが、ドールに期待された役割なのだ。この世界は、我々の世界が辿りえた可能性の歴史なのであって、その意味で、本作からは反戦のメッセージが読み取れるのだ。

◆ヴァイオレットの歴史化

 『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、ヴァイオレット個人の物語に決着がつくだけでなく、ヴァイオレット自身が歴史的存在になるという結末で終わる。文明が進歩し、手紙という間接的な伝達手段は電話という直接的な伝達手段へと変わり、ドールという職業も消滅する。

 しかし時代が変わっても、ドールが持っていた経験の場としての機能は、ヴァイオレットが歴史化することによって「刻印」され続ける。そうやってヴァイオレットの世界は、平和への志向性を持ち続けていくのだ。

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、劇場版が前述の通り上映されているほか、TVシリーズおよび外伝がNETFLIXで配信中。この無味乾燥な批評とは異なり、本編はかなり「泣かせ」を意識している作品なので、視聴する際は心構えが必要だ。

<文/藤崎剛人>

【藤崎剛人】

ふじさきまさと●非常勤講師&ブロガー。ドイツ思想史/公法学。ブログ:過ぎ去ろうとしない過去 note:hokusyu Twitter ID:@hokusyu82

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