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追悼・篠原一豊さん…立大、本田技研で監督 教え子の元創価大監督・岸雅司さんが語る「体で覚える」厳寒の猛特訓

スポーツ報知 / 2024年12月29日 17時0分

創価大元監督の岸雅司さん

 2024年も多くの著名人が惜しまれつつ旅立っていった。立大、熊谷組の外野手として活躍し、立大、本田技研(現ホンダ)で監督を務めた篠原一豊さんは7月22日、老衰のために亡くなった。93歳だった。創価大の監督を37年間にわたって務め、通算46度のリーグ優勝へと導いた岸雅司さん(69)が、本田技研時代に指導を受けた恩師との熱い絆について語った。(加藤 弘士)

 1955年、山口・周防大島に生を受けた岸さん。3歳だった1958年に野球を始め、その年に立大から巨人に入団した長嶋茂雄へと夢中になった。島内の久賀高(現周防大島高)では、1年時から本塁打を放つなど県内屈指の強打者として名を馳せ、高校の先輩である河本昭人監督が率いる本田技研に入社。島を出て、首都圏の社会人チームで勝負することになった。

 「入社1年目はずっとスランプ。歯が立たないんですよ。山口で僕はお山の大将だったんです。社会人投手のキレ、コントロール、スピード…全く違っていた。1か月ぐらいオープン戦で使ってもらったのに、全く結果が出なくてね」

 自信を喪失していた1974年4月16日のことだ。岸さんは篠原監督率いる立大とのオープン戦で初ヒットを放った。これが本塁打だった。大好きな長嶋も身にまとった「RIKKIO」のユニホームを相手に、みなぎる力をバットに込めた。そして2年目。その篠原さんが本田技研の監督に就任した。篠原さんは山口・防府中(現防府高)の出身。同じ山口県出身という縁もあった。

 「自分が憧れた長嶋さんが出た立大の監督ですし、篠原さんも長嶋さんも砂押邦信監督に鍛えられた。僕は子供の頃から長嶋さんのレコードを聞いて、砂押さんの猛特訓に憧れていたんです。夜、照明がない中で、白い石灰を塗ってノックして鍛えるという。凄いなあって。その流れをくむ方が監督になるんだって」

 篠原監督のもと、岸さんにとって入社2年目のシーズンが始まった。打撃に秀でた岸さんの内野守備を鍛えるため、篠原さんは人一倍の鍛錬を課した。

 「入社2年目の頃、本田技研は今のべルーナドームのあたり…西武園球場で練習していたんです。今のバックスクリーンのあたりに本塁があってね。一日3時間半ぐらいの練習なんですが、終わるとみんなでグラウンド整備をする。でも僕にはね、『岸、サードに行け』ってその間、個人ノックをやるんです。僕も一生懸命でしたよ。そこで鍛えられました」

 大卒の名だたる選手がレギュラー奪取へひしめき合う、当時の本田技研。篠原監督は高卒2年目の岸さんにチャンスを与えた。1975年の都市対抗予選。「勝てば後楽園球場」という日産自動車戦で、スタメン出場し、勝利に貢献する。後楽園球場での都市対抗本戦1回戦・松下電器戦でも代打でヒットを放ち、サードの守備に就いた。

 「あの都市対抗予選の厳しさ、緊張感は本当に凄かった。絶対負けられない試合で19歳の僕を使うなんて、篠原監督は本当に思い切った采配だったと思います。後楽園球場のサードは長嶋さんが守っていたところ。感慨深いものがありました」

 師弟関係は続いた。入社4年目、宮崎でのキャンプインを目前に控えた1977年1月。篠原監督は岸さんに午後8時からの夜間練習で、ティー打撃500本を課した。チーム内で岸さんにだけ命じた特訓だった。

 「和光市の寮の前に室内練習場があって。そこで午後8時から。1月は寒いんです。しんしんと冷える。篠原さんは行きつけのお寿司屋さんで、一杯引っかけてから来るんです。普通のティー打撃なら1時間で終わります。でも2時間かかった。力を抜くと、篠原さんには分かるんです。全部芯でパチン!といかないと、カウントしてくれない。『今のはダメだ』って、音で判断する。しかもマスコットバットですからね。マメの中にマメができる。最後はテーピングして、その上に手袋をはめないと握れない。1球1球、本当に真剣勝負ですから」

 厳寒の夜間練習は1か月続いた。手のひらはボロボロだったが、21歳の岸さんの心の中には、確かな自信が芽生えていた。

 「ヘッドスピードだけは負けんと。あれだけ重いバットを毎晩振ったんだから、俺はやれるんだと。鉄は熱いときに打てというけど、熱いときに打ってくれたのが篠原監督だったんです。それが僕の野球人生の、土台になっていくんです」

 篠原さんは本田技研の監督を6年間務めた後、NHKの甲子園中継の解説でも名を馳せ、1979年夏の3回戦、「箕島・星稜延長18回」を3時間50分にわたって、放送席から解説した。中国での野球振興にも尽力するなど、アマ球界の発展に汗を流した。岸さんは1984年に創価大初の専任監督に就任。通算679勝を挙げるとともに、多くの教え子たちをプロ・アマ球界に送り込んだ。

 「篠原さんから学んだことは、とにかく体で覚えるということ。篠原さんも砂押さんからそういう感じで鍛えられたんじゃないかな。創価大の試合にもよく足を運んでくれました。『一言お願いします』と選手たちに声をかけてくれたりね。篠原さんがいなければ、今の自分はいません。大切な恩人です。感謝の気持ちを忘れずに、これからも生きていきたいと思います」

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