人生において保険をかけることは、もはや、保険をかけることではない。

INLIFE~あなたと保険を繋げるメディア~ / 2015年10月5日 9時0分

写真

人生において保険をかけることは、もはや、保険をかけることではない。

どうも、こんにちは。
メディア管理人のモナ・ジョーです。

今回は、「保険」を掘り下げてみます。


考えてみると私たちは、「another(アナザー)」という意味での『保険をかける』を、1日に何度も行っています。


朝の通勤通学時、1つ早めの電車やバスに乗る。
車やバイクのガソリンを満タンにしておく。
ランチでは、健康を気遣って、野菜ジュースを買って飲む。
スポーツジムで運動をして、身体を鍛える。
夜にはディナーの約束があり、お気に入りのレストランに行こうと思ったものの、満席だった場合に備えて、脳内グルメストックを用意しつつ、観たいテレビ番組を録画予約しては、食事中の会話ネタを考える…


これらは全て『保険をかける』行動と言えます。


ともすると、人は、本来的な目的や美学のもと実践される言動だけでなく、また別の言動も常に用意して生きている訳です。

生きている中で自然と保険をかけている
◇生きている中で自然と保険をかけている




ところで、この「another(アナザー)」については、日本の英語教育を受けた人であれば基本的に、「もう1つの」「別の」という日本語変換で頭に入っているはずですが、次の英文を訳してみてください。

“Tomorrow is another day.”
“Today is another day of life.”

「another」を「もう1つの」「別の」という意味で訳してしまうと、少し違和感がありますよね。


実は、この「another」は、「ありふれた」や「普通の」というニュアンスを持っていて、「他と変わらない」「多くのうちの1つに過ぎない」という意味合いになります。

ですので、以下のように和訳するとシックリきます。

『明日は、明日の風が吹く。』
『今日はいつもと変わらない。』


このように、「another」という意味での『保険をかける』ということを、普段何気なく行っている私たちにとって、『保険をかける』は、「普通に生きること」「ありふれた日常を営むこと」と密接に関わっているのです。

「保険」というものが、社会の基盤として長らく機能してきた故、そのことについて考えを巡らせる機会がない、ということもあるかもしれません。
しかし意識上、日々の生活の中で、何かを買ったり、着たり、食べたり、住んだり、数多あるサービスを享受したりすることに比べれば、保険料を支払うこと、保険金を受け取ること、その恩恵を受けることが圧倒的に少ないことを考えると、この『保険をかける』ということの当たり前加減は、いよいよスゴくなってくる訳です。





また、人生に潜むリスクによって、結果的に何が脅かされるかを考える必要があります。
そもそも、なぜ『保険をかける』かという根本のところです。


健康を害すると、何が脅かされるのか。
仕事ができなくなると、何が脅かされるのか。
一家の大黒柱が亡くなると、何が脅かされるのか。
住んでいる家が壊れると、何が脅かされるのか。
旅行中に事件に巻き込まれると、何が脅かされるのか。
その先で、何の危機に繋がるのか。





それは、ひとえに「種の保存」ではないでしょうか。

自らの遺伝子を後世に残し、種を繁栄させることこそ、私たち人間、ひいては生物の最たる本質です。
この本質こそが、「愛」の正体だと捉えることも強引ではありません。

種の保存に向かって頭と身体を動かしている
◇種の保存に向かって頭と身体を動かしている




「種の保存」が本質だということを把握しやすいように、俗なお話をしますが、一般的に、“美人”や“イケメン”と言われるような人たちには、人気があります。
グッド・ルッキングであることが、人生のあらゆる場面で重要項目になってくるであろうことは暗黙の了解です。

ここで1つ、疑問が浮かび上がります。

「見た目が良い」の定義は何か。


目鼻立ちが整っていて、二重まぶたで、背が高くて、足が長くて…でしょうか?
誰がいつどこで決めたことでしょうか?
もちろん、黄金比や白銀比など、事物が美しいとされるセオリーはいくつか存在しますが、そのセオリーによってのみ美しいと判断されているのでしょうか?

例えば、日本で世界三大美女の1人として語り継がれている小野小町が、現代の価値基準や感性に照らし合わせた時に、街を歩いていれば誰もが振り返るような絶世の美女だったかどうかは、はなはだ疑問です。


しかし、答えはシンプルであるべきです。





時代の空気が、文化が、流行のアピアランス(容姿)を生み出している。

そう考えるのが妥当ではないでしょうか。

ファッション、音楽、映画、グルメなどのエンターテイメント、政治や経済、学問、ビジネスはもとより、異性を惹きつけるアピアランスにも、流行というものがある。
そして、流行のアピアランスを持った人間は、異性を惹きつけ、その時代で種を保存しやすくなる。
なぜなら、その流行が長いスパンで続くという前提でもって、その子も、さらに孫も、種を保存しやすいアピアランスである可能性が高いと判断され得るからです。
だからこそ、流行にハマった美しいアピアランスを持った人間には注目が集まり、モテる。
正確には、脳が、そう判断している。

同様に、お金、地位、名声、健康、これら全てが生物学的本質へと繋がっていくはずです。

こう考えると、複雑で混沌としている世の中にも、一本筋が通ってきます。

本質はシンプルで潔い
◇本質はシンプルで潔い




「保険」に話を戻しますが、至って健康で、お金に困ることもなく、愛に満ち溢れ、100%幸せな人生を歩んでいくことが確実だというのであれば、言い換えれば、特に何の問題も障壁もなく100%種を保存できるというのであれば、保険は必要ないかもしれません。

ところが、一般社団法人の日本損害保険協会が発表している損害保険のファクトブック2014によると、正味収入保険料は7兆7,713億円、正味支払保険金は4兆5,603億円、損保会社の数は国内だけで52社、損害保険代理店は全国で約19万店も存在し、約205万人が損害保険の募集に従事しています。
損害保険だけでも、この規模感です。
生命保険を加えると、さらなる市場規模になります。

この数字を、多いと見るか少ないと見るかは個々人にお任せしますが、これだけの人間とお金が毎年動いていることを考えると、相当なパワーを感じざるを得ません。


「本音と建前」「表向き」「大義名分」のような日本語が多く存在することにも裏付けられるように、古来から日本人は、本質のみを貫いて生きていくことが必ずしも良いことではないと学び、そして一方で、その本質が倒れた時に備えて、また別のものを用意しておく「保険」のような仕組みが普及していったと考えられます。

クラシカルな叡智は、それについて一考する余地を与えないほど、人々の生活に根付いているものなのです。

長い年月をかけて叡智が築かれる
◇長い年月をかけて叡智が築かれる




さらに、保険の仕組みをドリルダウンすると、その妙に触れられます。

保険は、偶然起こる事故(=保険事故)によって生じる損失に備え、多数で金銭(=保険料)を出し合って、事故が発生した人や物に金銭(=保険金)を給付する制度のことです。

ここで注目してほしいのは、「多数が金銭(保険料)を出し合って」という部分です。
つまり、相互扶助です。

そして、日本は「国民皆保険」と言って、全国民が何かしらの医療保険に加入することを制度化している国です。

ちなみに、世界一の経済大国アメリカでは、保険は自己責任です。
低所得者を中心に、アメリカ国民のおよそ6人に1人は、医療保険に加入していません。
保険料も日本のそれに比べると非常に高いことで知られています。
当然ながら、保険に加入していない人がケガや入院をして、病院で治療を受けると、高額な費用を普通に請求されます。(日本円にして、数百万円などザラです。)

この状態がアメリカにとって何がクリティカルかと言うと、最終的に、国の医療費負担が増加してしまうことです。
一例を流れとして挙げると、保険に加入していない人は、基本的に病院には行きません。
予防や検査も受けません。
その後、ケガや病気が悪化してはじめて、治療に移ります。
ところが、彼らはその高額な治療費を支払うことはできません。
結局は、国の医療支出に繋がって、自らの首を絞めることになる訳です。

そこで、オバマ大統領は、日本のように国民全員が医療保険に加入するような制度作りを推進中で、すでにオバマケアと言われる医療保険制度改革法案が連邦議会にて可決成立しており、保険料の支払いが厳しい中低所得者層には政府から補助金を出すなどして、保険セーフティネット構築を進めています。


こうして引き合いに出すと分かるのですが、日本の保険制度は、誰かが常に誰かのリスクを軽減し、誰かがカバーしている、そんな有機的な繋がりを持った強固でかつホスピタリティに満ちたシステムです。

近頃、日本ではダイバーシティ(多様性)や個の力というものが、大手を振ってもてはやされるようなことが昔よりも多くなっている肌感がありますが、結局はしっかりと助け合いながら守られて生きていることを実感できるのではないでしょうか。




というのも、この保険システムは、確率論の基本法則である「大数の法則」に基づいています。

例えば、1本コーヒーを買うと10%の確率でもう1本当たる自動販売機があるとして、普通に考えると、10回買えば、手元には11本のコーヒーがあるはずです。
しかし、現実問題、そうはなりません。
1本も当たらず10本のままかもしれないし、毎回当たって20本かもしれないという、振れ幅が出てきます。
ところが、コーヒーを100回、1,000回、10,000回、100,000回と買っていけば、その確率は10%に限りなく近づき、最終的にグロスで見ると、10%の確率でコーヒーが1本当たることになります。

これを保険に当てはめてみると、ある期間に発生する保険事故の数(コーヒーが当たる回数)は、保険契約の件数(コーヒーを買う回数)が多ければ多いほど、保険事故の発生する計算上の確率に近づくということになります。


その意義は、特定の個人において、どんな保険事故が発生するかどうかや、いつどこで保険事故が発生するかなどは予測することは不可能ですが、多数の人をプールにして、過去の経験を加味することによって、一定期間に保険事故が発生する確率をほとんど正確に算出することができる、というところにある訳です。



お互いがお互いに、支え合って生きている。
お互いがお互いに、支え合って生きている。
「人」という字は、支え合って出来ている。
そんな当たり前のことを、考えられる機会は、こんなところにあります。



不確定要素の多い世界で、未来がどうなるかなんて誰も分からない。

“Tomorrow never knows”と、Mr.Childrenが綴り歌ったあのメッセージは、私たちの脳裏にクッキリと染み付いているようでいて、少しの希望が見え隠れしている気がします。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング