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カズオ・イシグロ『日の名残り』を読み解く/純丘曜彰 教授博士

INSIGHT NOW! / 2018年8月29日 19時11分

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純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

/かなわなざりき悲恋話だの、失敗した人生の回顧録だの、政治状況の隠喩風刺だの、そんなのは、この小説の読みとして、根本から間違っている。たとえ読みの浅い読者たちに、悲恋だ、失敗だと、なじられようとも、そんな読みは、彼の生きた人生を揺るがすことはできまい。夕日は、過去は、そして、残りの人生は、たとえ沈んで見えても、消え去るわけではない。/


夏の終わりに読むなら、小説は、これだろう。昨年のノーベル文学賞で、一躍、世界の注目を浴びるようになったが、作品が公表されたときから、厳格な執事を主人公とすることで、あえて感情を叙述しないというアイロニカルな叙情表現の技法が大いに注目された。

筋は、たわいもない。戦後、1956年の夏、英国の大きな屋敷は、米国人のものとなっていた。その主人は、自分が留守にする間、旅行してはどうか、と老執事に勧める。そのころ、屋敷は人手不足で、おりしもそこに以前の女中頭から手紙が来たので、老執事は彼女に、戻る気は無いか、聞きに行くことにした。その一週間の道中、彼は、23年の国際会議の日(=老実父が亡くなった日)と36年の四者会談の日(=女中頭が去ることになった日)のことを中心に、昔のことをいろいろ振り返る。それだけ。表向きには、たいした事件も起こらない。

話は、読者に対する老執事の一人語り。日一日と旅が進むにつれ、老執事の昔話も、数十年前から数日前までせり上がってくる。そして、その二つの話が交差し、明日を思うところで、話は終わる。現在進行形の物語と、過去の起因の物語と、二つの時間軸を用い、それがあい迫ってくることでクライマックスへと引き込む。叙述手法の定番のひとつだ。

問題は、老執事が自分で自分のことを読者に語るという形式であるために、旅はもちろん昔のことも、読者に対する自己弁護だらけで、いいようにねじ曲げられ、都合の悪いことは黙っていたり、忘れたり、それどころか、うまくすり替えられたりしている、ということ。なにしろ、この老執事が厳守しようとしている執事の品格というのが、どんなことがあっても、おおやけの場ではけっして執事としての制服を脱がないこと。つまり、この読者への語りもまた、制服を脱いで「個人的なあり方」をさらけ出すものではなく、あくまで執事としての「職業的なあり方」に常住した上でのもの。

ようするに、話がウソだらけなのだ。ところが、ウソは真実を隠すものであるがゆえに、ウソがウソとわかっているならば、逆にそこに真実を読み取ることができてしまう。このような読み方のヒントを、小説の中の語り手ではなく、メタの立場にある小説そのものの作者が、小説の中に劇中劇として隠し込んでいる。老執事の回想のひとつに、1923年に開かれた屋敷での国際会議があり、ここにおいて、米国上院議員ルイスが、陰でこそこそと仏人デュポン氏に主催者の主人の悪口を吹き込むのだが、最後には、デュポン氏が参加者たちの前に立って、主催者の主人への深い感謝とともに、ルイスの卑怯な振る舞いを暴き立ててる。つまり、ルイスのような者が語れば語るほど、逆にデュポン氏には、主催者の主人の真の心底を知ることができた、というわけ。

老執事は、戦前の屋敷の主人を、国際会議を開くほどの大物であり、世界平和を求め続ける偉人である、として、信頼し尊敬している、と読者に公言するが、それがウソである以上、それは、むしろ、その人が、茶番に奔走する小物にすぎず、平和どころかヒトラーの使いっ走りとなって世界を戦争に捲き込んだ「道化」であることがわかる。

そしてまた、老執事がこのようなウソをつくということは、老執事自身が、じつは、前の主人が小物で道化にすぎなかったことをよく理解している、ということにほかならない。ただ、執事という職業的なあり方を堅持するがゆえに、そのことを公言しないだけにすぎない。その主人がユダヤ系使用人をクビにすると言い出したときも、彼は、それをあくまで賢明な判断として女中頭に伝えており、その後、主人が翻意してはじめて、あってはならないことだった、と、本心を女中頭に語っている。つまり、いま、ここで老執事がいくら主人を褒めそやしても、それ自体が執事としての職業的な言葉であって、彼自身の個人的な言葉ではない。

実際、彼が現在の旅で訪れた村で出会ったスミスという男については、「一種の道化」と呼び、「しばらく聞いているぶんには、なかなか面白いんだが、よく聞いていると支離滅裂でね。ときには、こいつ共産主義者かと疑いたくなるようなことを言うが、つぎの瞬間には、とんでもなくコチコチの保守主義者になる」と、彼を酷評する医師の言葉をそのまま読者に伝えている。つまり、老執事は、相手が自分の職業上の主人でさえなければ、こういうまともな見識を持っている。

このことは、老執事が、個人的なあり方としては、きちんと、戦前の主人もまた、このスミスと同じ、いや、スミス以上にひどい「道化」であると、正しく認識していた、ということを意味する。ただ、まさに執事としての職業的なあり方として、酔っ払いの客人たちにからかわれたときのように、期待されているどおりのバカのフリを完全確実にして見せているにすぎない。このレトリックに騙されてしまうと、読者まで酔っ払いの客人たちのレベルに落ちてしまう。

旅の焦点となる女中頭との関係についても、同じことが言える。酔っ払いの客人たちのように老執事が語ることを鵜呑みにしていると、この老執事が女中頭の恋心もわからぬバカのように思いがちだが、しかし、彼は、恋心もわからぬバカであるかのようにビジネスライクに女中頭に対してふるまい、また、読者に対して語っているだけで、彼の個人的なあり方としては、当然、相手の気持ちはもちろん、自分の気持ちもよくわかっている。なにしろ、「個人的」な食器室で彼が愛読しているのは、じつは「おセンチな恋愛小説」。しかし、彼は、片時も、たとえ数十年たって読者に昔語りをするときでさえも、制服のボタンを緩めることはない。だからこそ、その向こうに、彼の言葉にできない、してはならないと彼がかたく心に決めている秘めた思いが透けて見える。

女中頭との関係も、そうだ。戦前も、毎夜、ココアを飲みながら業務連絡をするだけ、と言っているのは、彼だ。ほんとうに、それだけだったのか、そうでなかったのか、それは個人的なあり方の話でもあり、また、いまや彼女も夫がある立場でもあるので、そんなことを彼が読者に正直に話すわけがない。同様に、数十年ぶりに会って二時間ほどの歓談の後、バス停まで送った、もう生きて二度と会わないだろう、と、読者に言っているのも、彼。翌五日目については何も語らないが、わざわざ、二度と会わない、などと前日に言っていることからすれば、逆に、むしろ翌日も、もう一度、個人的に彼女と会った、と考える方が筋が通る。ただ、それは、もはや屋敷に戻る気があるかどうかを聞く職務的な面会ではないので、読者に語る必要は無く、また、語るべきではない、というだけのこと。

そもそも、彼自身の現状からして、ウソばかりだ。彼は、人手不足をいいわけにしているが、すでにミスを連発している。じつのところ、彼は、この自分の状況をよく理解している。だから、それを、けっして「なにか得体の知れない原因」(=老いと死)などではない、と強く否定する。しかし、わざわざ否定するということは、それが脳裏に浮かんでいる、ということを暴露してしまっている。とはいえ、執事である以上、それをそのまま読者に語ったりすることはあってはならないのだ。

1923年に老実父が亡くなって、いまは56年。33年を経て、老執事本人が、かつての父の年になり、もう耄碌して、もはやまともに執事の仕事をこなせなくなっている。主人が自分に旅行を勧めたのも、その留守中、自分をひとり屋敷に残しておくことを心配してでのことだろうことも、うすうす感づいている。

そして、自分の終わりを強く自覚しているからこそ、人手不足だからではなく、自分の後を継ぐ執事として、かつての女中頭に期待をつないでいる。それがムリなウソであることを、自分でもわかっていながら。しかし、こんな現実は、執事として読者に語ることは許されない。ところが、前の主人のことでも奇矯な村人スミスの姿を借りてなら語られるように、彼自身のことは、女中頭や老実父に色濃く投影されている。

女中頭の実際は、人生の中で紆余曲折はあったにせよ、いまは、優しい夫、結婚した娘、秋には生まれる孫、と恵まれている。にもかかわらず、老執事は、彼女が夫と別れたと思い込み、彼女からの手紙には「これからの人生が、私の眼前に虚無となって広がっています」と書かれていたと言い張る。だが、真実は、彼こそが1936年に女中頭と別れたのであり、彼の眼前にこそ虚無が広がっている。

いや、彼の前には、もはや死しか残されていない。1923年のことを思い出して彼は言う、屋根裏の父の部屋は「刑務所の独房」のようだった、と。だが、女中頭の言葉からすれば、彼の個人的な食器室こそ、あまりに殺風景で、「まるで独房」であり、「死刑囚が最後の数時間を過ごす部屋」のようだった。彼も、彼の父も、一生を、死刑囚が最後の数時間を過ごすように生きてきたのであり、彼の父と同様、彼にもまた、ほどなくして、まさに得体の知れない死が訪れようとしている。ただ、彼は、そのことをけっして読者には語らない。死は、個人的なことで、執事としての職業は、主人を通じ、世界の車輪に係わる公的なものだからだ。

とはいえ、主人の国際的な政治活動が、じつのところ、道化の茶番であったとすれば、その茶番を全身全霊で支えた執事とは何だったのか。ユダヤ系使用人の解雇を主人が顧みて悔いたとき、彼もまたようやくその批判を語ったように、主人が戦後、亡くなる前に自分の失敗を認めた以上、彼もまた自分自身の人生の失敗を、むしろ直視することが、かつての主人の執事の職業的なあり方として求められていることを、ずっと自覚していた。

一方、戦後の米国人の新たな主人は、どうやら米国流に、執事の彼に冗談も期待しているらしい、と、彼は、この物語の当初から困惑している。だが、彼は、旅の終わりに至って、主人が期待する以上、執事の職業的な任務として、本腰を入れて「冗談」を研究しよう、と決意する。道化の茶番さえも支える冗談の人生を生ききること。「結果がどうあれ、そのこと自体がみずからに誇りと満足を覚えてよい十分な理由」という。

かなわなざりき悲恋話だの、失敗した人生の回顧録だの、政治状況の隠喩風刺だの、そんなのは、この小説の読みとして、根本から間違っている。この小説は、すべてがウソだ。しかし、だからこそ、そこに真実が垣間見える。人生は、結果ではない。そして、結果を問わない以上、人生に成功も失敗もありはしない。成功も失敗も越えた、生きることの品格。たとえ読みの浅い読者たちに、悲恋だ、失敗だと、なじられようとも、そんな読みは、彼の生きた人生を揺るがすことはできまい。夕日は、過去は、そして、残りの人生は、たとえ沈んで見えても、消え去るわけではない。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学vol.1 などがある。)

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