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リアリティの喪失:近代の哲学と現代の日常/純丘曜彰 教授博士

INSIGHT NOW! / 2018年9月18日 5時30分

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純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

/仮想現実以前に、日常で「現実」としているものからして、どれもこれも空のキャラメル箱のように、外面だけあって中身が無い。そして、ニセモノほど、人を騙すためにホンモノ以上にホンモノのような体裁だ。肉には筋があり、魚には骨がある。良薬は苦く、善言は厳しい。仕事と生活、苦労と幸福は、いつも表裏一体。真相は難解で、人間は複雑だ。中身が詰まっている、とは、そういうこと。/


デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」として、疑いなどの思いがある以上、そう思っている主観がある、ということを導き出した。ところが、なにも思ってないとき、たとえば、眠っているとき、これでは、我も消えてしまう。それどころか、さっき思っていたことと、いま思っていることが違えば、別の我になってしまう。この難問に、デカルトは、誠実な神が連続創造することで我の一貫性を保っている、という、古くさい神学的な答えを出した。

だが、問題はそれだけでは終わらない。それがあると自分が思っているとしても、それはそれが実際にあることを保証しない。これまた、デカルトは、神は誠実だから、物事があるがままに、我は思う、ということにした。しかし、逆に、我が思ったとして、それが現実になるのは、どうか。たとえば、我がリンゴを食べようと思って、この体がリンゴを食べることができるのは、どうやってか。

デカルトは、我の心が、脳の中心の松果体を振動させ、そこから動物精気なるものが全身を駆け巡って、体をコントロールしている、という、わけのわからない説を唱えた。だが、デカルト派のゲーリンクスは、これも、誠実な神の連続創造でいい、と言い出した。つまり、我は、リンゴを食べたいと思うだけで、それを機会因として、誠実な神が体を動かしている、という。

さらに、マールブランシュに至っては、自分と他人、物と物も、ぜんぶばらばらの無干渉で、いずれもすべて機会因にすぎない、と考えた。たとえば、車が電柱にぶつかって、車がへこみ、電柱が折れるのも、車が電柱にぶつかったからそうなるのではなく、車が電柱にぶつかったというきっかけで、神が車をへこめ、電柱を折っているのであって、車と電柱は接触していない、と言うのだ。

スピノザになると、心と物さえも分けない。すべては神そのものの出来事。我々の心は、それぞれの立ち位置で、そのうちの光とか音とか匂いとかを感じ取り、物もまた、それぞれ物理的な変化だけに応じる。衝突なら、心は音を聞き、車はへこむ。ライプニッツは、そんな神も否定してしまう。心や物は、それぞれを独自に世界を反映しており、たがいの連携無しに、前の状態から次の状態に自己生成するだけだが、外見は、同時であるために、あたかも一方が他方の原因であり結果であるように見える、と。

荒唐無稽な説のようだが、このあたりの哲学は、むしろ現代に大きな意味を持っている。連続創造説は、映画やアニメの静止画から動画が作られることからも、もはや身近だ。夢想説は、『マトリックス』などで、世間にもよく知られるところとなった。我々は、みなで連携した同じ夢を見ているだけで、真実には何も起こっていない、という話。機会因論についても、ロボットやドローンの無線操縦などで、これまた、いまや身近だ。深海でも、火星でも、原子炉でも、人間が防護服を着て行くまでもなく、カメラや触手のついた探索車をリモコンで操作すれば、そこにいるのと同じことができる。

マールブランシュの無接触説は、3Dでは、よくあること。そのままだと、ぜんぶの物体が、幽霊のように、たがいにすりぬけてしまう。そこで、それぞれの物体の表面に接触センサーを設定して、それぞれに設定された物性に応じて別々に変形や運動を計算しているのであって、ある物体のデータが別の物体のデータを直接に変形させるわけではない。たとえば、バットのデータと、ボールのデータは、ヒットの瞬間の状況を共有するのみで、それぞれの来し方、行く末を、別々に連続創造する。つまり、アニメのセルのように、別々のレイヤー上の出来事であって、相互には干渉していないし、しようもない。

そして、ネット上のマルチプレイヤーゲームなどは、まさにスピノザの考えそのもの。メインサーバー上の総合データに応じて、それぞれのプレイヤーの端末に、相応の情報だけ送り込む。全員に見えているにもかかわらず、すべては虚構の仮想で、全体像は、データとして以上には、どこにも存在しない。まさにデカルト的夢想説。ところが、これだけの情報社会になると、なにもかもが因果関係で結びついているかのように思えるが、じつは意外にそれぞれはそれぞれの世界で閉じていて、それぞれの世界の中でかってにでやったことが、世界全体としては因果関係のように見えたりする。たとえば、総理の都合が悪くなると、ミサイルが飛んでくる、総理と黒電話がつながっているにちがいない、という陰謀説ように。

いったい現実、リアルなものとは、何なのだろう。仮想現実以前に、日常で「現実」としているものからして、どれもこれも空のキャラメル箱のように、外面だけあって中身が無い。地方や郊外の不動産担保価値、堅実な銀行員や公務員のような仕事、ブランドや有名人とやらの人気宣伝効果、ヒゲヅラの外国人やキンパツの評論家、なんでも知っているジャーナリスト、わかりやすい新聞記事やニュース番組、もっともらしい教科書やネットの説明、立派に造成された住宅地、高級ホテルの柔らかい肉、絶賛の化粧品や健康食品、聞くだけで話せる英会話教材、それどころか、ごく身近な愛情や友情、忠誠でさえ、浮気や不倫、詐欺や計略にまみれているかもしれない。そして、ニセモノほど、人を騙すためにホンモノ以上にホンモノのような体裁なのだ。

肉には筋があり、魚には骨がある。良薬は苦く、善言は厳しい。仕事と生活、苦労と幸福は、いつも表裏一体。真相は難解で、人間は複雑だ。中身が詰まっている、とは、そういうこと。いいとこ取りなど、できはしない。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学vol.1 などがある。)


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