理解を求める者を、理解してはいけない/純丘曜彰 教授博士

INSIGHT NOW! / 2019年6月4日 21時11分

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純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

ダメなやつは、言いわけがましい。自分のことを理解してくれ、と延々と語る。学生でもそうだ。出席不足で単位を落とすようなやつにかぎって、家が遠いから、いつもバスが遅れるから、この夏は体調が悪かったから、挙げ句は、もう就職が決まっているから。般教単位も取れていないのに、よく「卒業見込」と称として会社を廻っていたものだと、呆れる。

誰だって、それぞれになにかしら事情は抱えている。それで、それを自分でどうにかやりくりできる程度の余裕を含めて、試行錯誤の末に、いまの制度はギリギリのバランスでできている。大学の出席数で言えば、半期15回のうち、10回以上出ればいいだけ。これにすら足らないとなると、どんな事情があろうと、その事情如何にかかわらず、もはや事実として、その科目を学んだことにはなるまい。にもかかわらず、理解してくれ、などと一方的な「交渉」を持ちかけてくるのは、自分のために改竄という不正をしろ、ということ。

だが、人に理解を求めるヤツは、人を理解する気がまったく無い。人の好意を無限に吸い取るだけのブラックホールの亡霊。たとえば、閉店直前に商品を迷う客。いいだろ、10分くらい、どれか買うんだから。だが、担当の店員は、子供を保育園に迎えにいかないとならないのかもしれない。たった10分でも、それで電車が一本遅れれば、延長保育になる。商品が売れて店が儲かったとしても、延長保育の費用まで店は出してはくれない。自腹を切ることになる。こうして、客の身勝手のツケは、母親の迎えをさみしく待ち続けている子に廻される。人に理解を求めるやつは、こういう社会的想像力がまるっきり欠落している。

事情なんて、みんな、ある。おまえだけじゃない。やっていることがデタラメなくせに、口先だけ達者で、やたら人に理解を求めるヤツは、それが他人にとってまったく理不尽な負担増であること、さらには他人にむりやり不正を強いることであることなど、考えもしない。ただ自分の目先の利得だけを一方的に追求する。それどころか、相手の譲歩が得られないと、それまで弱者ぶって同情を買おうとしていたくせに、突然に豹変して強圧的にぶち切れる。

やつらの、理解してくれ、は、ヤクザの、誠意を見せろ、と同じ。いや、論法、レトリック、行動様式、すべてが、ヤクザそのもの。ようするに、おまえが譲歩しろ、オレ様だけ特別扱いしろ、特例で優遇しろ、ということ。くわえて近頃は、ヤクザの組のように実体不明のニワカ集団まで作って、マスコミを煽り、表と裏の両側から交渉を展開し、自分たちの主張をゴリ押し。意に従わない者たちに対しては、あの人は冷たい、薄情だ、人間性が無い、などと、テロのような全面攻撃。そのうえ、そこにまた、まあまあ、そこをなんとか、などという「善人」ぶった変な仲介者(じつは共依存の共犯者)が割り込んできて、よけいややこしくする。

まさにヤクザ。少しでも関わったら、泥沼。ほんの一歩譲って、扉を開こうものなら、そこにすかさず爪先を突っ込み、さらにグイグイと踏み入ってくる。そして、こいつはチョロい、カモだ、と思われたら最後。共犯者として不正に協力させられ、それをネタに脅され、やつらに延々と取り憑かれて、殺すか、殺されるか、まで追い詰められてしまう。

おそらく、やつらはもともと社会認識能力に欠陥があるのだろう。もしくは、青少年期に人間的社会観の形成に失敗した。それで、まともな自己定位もできない。無限に揺れ動く自己肥大と自己卑下。統合すべき世界や自己が崩壊している。男か女か、子供か大人か、弱者か強者か、これではアイデンティティの成り立ちようが無い。やつらの多くは自分の来歴にイジメや挫折のエピソードを挙げるが、ニワトリとタマゴで、どちらが原因でどちらが結果か。いずれにせよ、やつらの心には、他者も社会も存在しない。すべては周辺の闇の中に潜んでいる恐怖だけ。

劇的な状況で人間的社会観をゼロから再形成すれば、病的気質が残るにしても、社会適応性は取り戻せるかもしれない。しかし、たいていは、むしろ時間とともに自己を自分で破壊し続ける。周囲もそれを「寛容」な「善意」で助長し続ける。どのみち、みずから暴れて溺れていく者を、だれも救い上げることはできない。いや、やつらの心は、とっくの昔に自分で自殺してしまっている。そこにいるのは、たとえ同じ肉体でも、あなたの知っているその人ではない。だから、もはや専門と称して割り込んでくる「善人」の方々に弔いを丸投げでお任せし、早々に完全に手を引いてしまうしかあるまい。

(戦前の私的な「家」制度をいまだに引きずったままの民法の730条および877条は、直系親族(血縁の親子兄弟)であるというだけで相互扶養義務を課している。しかし、戦後、これに対応する旧刑法364条およびその類推の罰則の方は、とっくに消滅しており、したがって、これは、実質的には、当人から請求があった場合のみの金銭の問題でしかなく、それ以前に扶養請求の正当性からして問い直される。ただし、障害者だと、現行刑法218条の「保護責任者遺棄」に抵触する虞はある。詳細を弁護士とよく相談を。)

冷たい、無責任だ、と、やつらに、そして、その共依存の共犯者になじられるのは、覚悟の上。やつらは口先がうまい。だが、きれいごとの屁理屈に騙されるな。きみが理解すべきは、そいつではない。きみが理解し、きみが命がけで守るべきは、きみを理解し、きみを黙って支えてくれている家族、同僚、近隣の人々、そして、いろいろ事情を抱えながらも黙々と自分でやりくりしてがんばっている社会の人々だ。いっときの気の迷いで、やつらの言葉に取り込まれるな。自分の力の限界を弁えろ。きみが余計なことをすれば、なんの落ち度も無い家族や同僚、近隣の人々の方を大事に巻き込むことになる。きみが真に守るべきはだれなのか、自分はだれの味方でなければならないのか、心を鬼にして、根本に戻って、腹をくくれ。


(by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論、映画学。最近の活動に 純丘先生の1分哲学、『百朝一考:第一巻・第二巻』などがある。)

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