『徒然草』とその時代/純丘曜彰 教授博士
INSIGHT NOW! / 2020年2月19日 3時31分
純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学
/これまで吉田兼好は、伝承をそのままに受け売りして、吉田神社の神官の出などとされてきた。ところが、慶応の小川剛生教授が『兼好法師』(中公新書)で史料を洗い直すと、まったく違う実像が見えてきた。/
『徒然草』とその時代
文章だけを読んでいると、出家者とはずいぶん呑気なものだったのだな、と思う。しかし、これが書かれた一三三一年ころは、そんな生やさしい時代ではなかった。鎌倉幕府の滅亡と建武親政が瓦解する様子を描いた『太平記』にあるように、平安時代末期の平家滅亡や室町時代後半の応仁の乱の時代と同じく、政治に不満と策謀が渦巻き、日々に大事が起こって、屋敷を武士が焼討ち、河原に生首が並び、人心も町街も荒廃すさまじい。
そんな時代に、平静を装い、和歌を教え、雑談に興じ、対立する人々の間をにこやかに渡り歩きながら、幕府か朝廷か許認可権者も定まらない中で不動産物件の売買や寄進を仲介していた兼好の内面は、いかばかりのものだったのだろうか。『徒然草』に書かれていない、兼好があえて絶対に書かなかった激動の時勢という背景を知らなければ、彼が書き残した言葉の真意は、理解できまい。
ことの発端は、鎌倉時代という特異な二元政権形態にあった。大化改新以来の京都の天皇を中心とする宮廷律令制が半端に残ったまま、鎌倉に武家政権ができ、この二つが、宮廷に特許を得た私有地である荘園とその武家(地頭)による防備として表裏一体に奇妙に密着してしまっていた。
このため、地方では、律令の国司と武家の守護が並立し、また、京都では、宮廷(検非違使庁)と六波羅探題(鎌倉幕府在京庁)とが許認可権で張り合う事態となっていた。ここにおいて、有力武士は、幕府に所領を得るとともに、宮廷からも官位を授けられ、名門武家となっていく。そもそも幕府の将軍の権威は、「征夷大将軍」という宮廷の官位によってこそ成り立っている。
幕府や宮廷の内情となると、さらにややこしい。平氏を倒して幕府を興した源氏だったが、二代将軍源頼家からして、一二〇四年に早くも母方の平氏系の北条家に暗殺され、実権はその執権に移っている。頼家の弟の源実朝が三代将軍となったものの、一二一九年、頼家の子に鎌倉八幡宮で暗殺され、それ以降、いよいよ政治は北条家執権のものとなり、将軍は形ばかりのものとなり、公家か皇族から招くことになった。
また、和歌でも、武家支配に伴って、大きな変化があった。平安末期、藤原(御子左家)俊成(1114~1204)は、貴族ながら低位で、せいぜい和歌に励んでいた。それが、院政で権勢を振う鳥羽上皇(74代、1103~即07~退23~56)の皇后に仕える女官と結婚して、一気に運が開ける。歌を得意とする崇徳上皇が一一五六年の保元の乱で讃岐に流されると、二条天皇の下に六条家藤原清輔の歌壇が生まれ、七七年に清輔が没すると、俊成が九条家歌壇の師として、和歌を率いることになる。そして、鎌倉時代になると、俊成の子、藤原定家(1162~1241)が、後鳥羽上皇の下、『新古今和歌集』(1210)をまとめ、幽玄有心の歌調を明確に打ち出した。
このころ、宮廷は、すでに政権を失ったにもかかわらず、天皇の上に、実権を握る上皇(出家している場合は法皇)の治天君(ちてんのきみ)がおり、また、下に皇太子がいるという、面倒な三重構造になっていた。おまけに、後嵯峨上皇(88代、1220~天42~上46~72、四〇歳)は、一二六〇年、長男の後深草天皇(89代、1243~天46~上60~1304、十七歳)を強引に廃位し、ひいきの次男の亀山天皇(90代、1249~天60~上74~1305、十一歳)を即位させ、あいかわらず治天君として自分が支配を続けた。
定家の子の藤原為家(1198~1275)は、この御嵯峨院歌壇で活躍。長男の為氏(1222~86)も、歌人としてだけでなく、参議として実務でも大いに貢献した。しかし、『続古今和歌集』(1165)では、後嵯峨院が、為家(六七歳)だけでなく、対立する六条家など四人も撰者に指名したため、方針が迷走。このため、為家は、長男の為氏(四三歳)に丸投げにしてしまう。
皇統の対立
七二年、後嵯峨上皇が崩御すると、次を巡って後深草上皇(89代、持明院統、旧大内裏東北、二九歳)と、亀山天皇(90代、大覚寺統、京都西郊外、二三歳)とで兄弟争いとなり、裁定が幕府に委ねられる。というのも、皇位は莫大な王領荘園の相続の問題でもあったからである。とりあえず生母の意向に従って、すでに立太子していた大覚寺統亀山の実子、後宇田天皇(91代、1267~天74~上87~1324、七歳)が七四年に即位。上皇となった実父の亀山が院政を敷いて支配。
藤原為氏(五二歳)は、御子左家に並ぶ歌の名家、飛鳥井家から娘を嫁取り、名実ともに歌界の中心となっていた。実務においても、後嵯峨に続いて大覚寺統の亀山からも変らぬ信頼を得る。しかし、その父、老為家は、末子の為相(ためすけ、1263~1328、一一歳)をひいきにし、一二七五年、その死後、相続などで揉め、御子左家は、長男為氏(五三歳)の二条家(五三歳)、次男為教(1227~79、四八歳)の京極家、末子為相(一二歳)の冷泉家の三つに割れてしまった。
八代執権北条時宗(1251~執68~84)は、七四年、文永の役で元寇をかろうじて撃退。翌七五年、持明院統の後深草上皇(89代、三二歳)は、亀山、後宇田と大覚寺統が続くことを不満とし、幕府に働きかけて、実子の煕仁親王(きじん、後の伏見天皇、92代、1265~天87~上98~1317、一〇歳)を、弟で治天君の亀山上皇(90代、二六歳)の猶子(ゆうし、名目だけの養子)にさせ、年下の後宇田天皇(91代、八歳)の皇太子にさせた。以後、天皇は即位時に反対皇統の親王を猶子に迎え、立太子して、およそ十年後には皇位を戻すことを約し、また、退位して後にようやく皇太子実父の治天君として実権を握れる、という両統迭立(てつりつ)が慣例とされる。
京極家において、為教は歌道にさえが無かったが、その子、為兼(1254~1332、二六歳)は、祖父為家から和歌を学び、大覚寺統に付く伯父の二条家の為氏(五八歳)やその子の為世(1250~1338、三〇歳)と対抗して、皇太子となった持明院統の煕仁親王(一五歳)に八〇年から出仕し、和歌の指導に当たって、独特の京極派を成していく。すなわち、二条派がこれまでの膨大な和歌資産を踏まえた言葉の上でのマニエリスム(形骸的)の作巧を好んだのに対し、京極派は心情を直接的に言葉にぶつけていくような新鮮な作風で、新時代を求める公家はもちろん、伝統を知らぬ武家や町人も惹き付けていく。
八一年の弘安の役の後、八四年に北条時宗が三三歳の若さで亡くなると、その執事だった北条家内管領の平頼綱(c1241~93)が実権を握る。また、八七年、大覚寺統の後宇田(91代、二〇歳)が上皇となり、持明院統の煕仁親王(二二歳)が伏見(92代)として即位。しかし、両統分裂の発端となった持明院統の後深草上皇(89代、四四歳)と大覚寺統の亀山上皇(三八歳、90代)の不仲な兄弟も健在で、院として影響力を持ち続けていた。
伏見天皇は、八九年、早くも両統迭立を破って、生まれたばかりの実子の胤仁親王(たねひと、後の後伏見天皇、93代、1288~天98~上13011~38、一歳)を立太子し、また、内管領の平頼綱が放逐した第七代将軍の惟康親王に代えて、弟の久明親王(1276~将89~1308~28)を第八代将軍として幕府に送り込んだ。このため、両統の対立はいっそう激しくなり、公家たちはもちろん、歌人の二条為世(三九歳、大覚寺統)や京極為兼(三五歳、持明院統)、冷泉為相(二六歳、将軍久明の義父)のような取り巻きをも捲き込んで、いよいよ混迷を増していく。
幕府では、九代執権北条貞時(1272~執84~1301~11)は、九三年、鎌倉の大地震に乗じて、実権を握る内管領の平頼綱を殺害し、一時的には政権を取り戻す。しかし、これを手伝った長崎光綱(?~1297)が新たな内管領となり、その後やはり、天皇よりもその代理の将軍、その将軍よりもその執権、その執権よりもその代理の内管領が日本全体を支配するという代理政治に陥っていく。
持明院統の伏見天皇(92代、三三歳)は、将軍として送り込んだ弟の久明を通じて形骸化した幕府を倒そうと謀略を巡らすが、失敗。九八年、政治にも深く関与していた歌人の京極為兼(四四歳)が佐渡に流され、本人も譲位を強いられ、実子の皇太子、胤仁親王を後伏見(93代、一〇歳)として即位させたものの、一三〇一年、わずか三年で、大覚寺統の後宇田上皇(91代、三四歳)の実子、後二条天皇(94代、1285~天98~1308、一六歳)に皇統を返すことになってしまう。
兼好の時代
兼好の父は関西の出ながら、関東の北条家傍系の金沢家の周辺に仕えていた。しかし、一二九九年に亡くなり、卜部兼好(うらべかねよし、1283?~1358?、十六歳)は、母とともに京都に戻っていた。おりしも一三〇二年、金沢貞顕(1278~六南1302~07~六北11~14~執26~26~33、二四歳)が六波羅探題南方別当(長官)に就く。兼好(十九歳)は、亡父の縁で、貞顕に京の案内などをしたらしい。金沢貞顕はまた、〇五年、京に来たこの機に、庶子の顕助(けんじょ、1294~1330、一一歳)を、真言宗仁和寺真乗院の院主に送り込む。
〇八年、大覚寺統の後二条天皇(94代、二三歳)が急死。持明院統の伏見上皇(92代、四三歳)の実子で、後伏見上皇(93代、二〇歳)の弟の花園天皇(95代、1297~天08~上18~48、一一歳)が即位。これと同時に、本来ならば大覚寺統の後二条天皇の実子、邦良親王(1300~26、八歳)が立太子されるべきだったが、重度の鶴膝風(変形性膝関節症)で立つこともできなかったために、やむなくとりあえず後二条の弟の尊治親王(後の後醍醐、96代、1288~天1318~39、二〇歳)が皇太子とされた。
一〇年ころ、兼好(二七歳)は、滝口武士かなにか、侍品(さむらいほん、せいぜい六位)になる。しかし、彼は、すぐに出家し、比叡山に学んだ。ちょうど金沢貞顕(三三歳)が六波羅探題北方(南方より上)別当としてまた上京してきたので、下山した兼好(二八歳)もまた、六波羅のあたりに居を構え、不動産仲介業を営むようになる。
ところで、一四年、内大臣堀川具守(とももり、1249~1316、六五歳)は、娘の基子(1269~1355)が大覚寺統の後宇田天皇(91代)の宮人として後二条天皇(94代)を生み、その外祖父となったものの、子の具俊が〇三年に、孫の後二条が〇八年に亡くなり、また、持明院統の後伏見天皇(93代)の女御代になっていた次女の琮子も、三年で後伏見が退位させられてししまったために、入内を逸して実家に留まっており、具俊の子、つまり孫の具親(1294~?)を養子に入れて自分の後継としたものの、琮子の行く末を深く案じていた。
このころ、じつは、亡き堀川具俊の未亡人、つまり具親の母が、金沢貞顕の子、仁和寺真乗院主顕助(二〇歳)と暮らしていた。そこで、一四年、堀川具守(六五歳)と具親(二〇歳)は、六波羅南別当の金沢貞顕(三六歳)に、娘のだれかを琮子(二六歳)の猶子にもらえないか、相談を持ちかけている。このことを縁に、金沢家に係わる兼好(三一歳)もまた、堀川家に出入りするようになったようだ。同年、西華門院(堀川基子)が勧進した後二条(大覚寺統)七回忌追善和歌に兼好も出詠している。つまり、このころから、兼好は、歌人としても知られるようになってきた。
一六年、堀川具守(六七歳)が亡くなった。跡継の堀川具親(二二歳)は東宮権太夫となり、大覚寺統の皇太子、尊治親王(後醍醐、96代、二八歳)に仕える。親王は「紫の朱を奪うを憎む」(幕府が宮廷に乗じるのを憎む)という『論語』の言葉の出典箇所を具守に尋ね、たまたま立ち寄った兼好がこれを教えてやった、という。(二三八段)
同一六年、北条高時(1304~16~33)が十四歳で第十四代執権に就く。しかし、実権は内管領の長崎高資(たかすけ、?~1333)が握っており、将軍高時はもとより病弱で、田楽と闘犬に興じてばかりいた。一方、朝廷でも、持明院統の伏見上皇(92代、五二歳)が治天君として抵抗を続けていたが、一七年に崩御。翌一八年、花園(95代)もようやく約限の十年で退位し、皇太子で大覚寺統の尊治親王が後醍醐天皇(96代、三〇歳)として即位。ただし、彼は、実父の後宇田上皇(91代)の院政下にあり、次こそは兄の子の邦良親王(一八歳)と条件付けられていた。つまり、後醍醐は、持明院統と対立するだけでなく、大覚寺統の中でも、一代限りとして軽くあしらわれていた。
二〇年、大覚寺統に付く二条為世(七〇歳)が撰じた『続千載和歌集』(しょくせんざいわかしゅう、二十巻、約二一〇〇首)に兼好(三七歳)の作が採られる。このころ、彼は二条家四天王の一人として、地下(じげ、一般庶民)への和歌の普及に努めた。
二一年末、治天君の後宇田上皇(91代、五四歳)が隠居し、ようやく後醍醐(96代、三三歳)の親政(直接政治)となる。彼は、東国の幕府との連絡や代理の上申での手続で決裁のややこしい六波羅探題に対抗して、記録所(記録荘園券契所、荘園の登記と訴訟を扱う)を再興し、みずから公事に当たり、荘園関連以外の種々の要望も受け付け、即断即決で人気を得ていく。
しかし、この一方で、後醍醐は、蔵人の日野俊基(としもと、?~1332)らに加え、歴代の持明院統を支えてきた名門の日野家(俊基とは別)から花園天皇(95代、二四歳)の蔵人だった資朝(すけとも、1290~1332、三一歳)を引き抜き、倒幕の謀議を巡らしていく。日野俊基は、公事であえて字を読み間違えて半年ほど蟄居し、その間に山伏に扮して奈良や南大阪の世情を調べた。日野資朝もまた、あえて酒池肉林の無礼講を開いて世間の目をくらまし、その裏で岐阜の土岐頼時、多治見国長などを味方につける。
二四年九月、北野天満宮祭の日は、警備に出て、六波羅探題は手薄になる。彼らはこの日を襲撃決行とした。しかし、土岐頼時の義父が六波羅の奉行で、事態が発覚。先手を打って、前日に土岐頼時と多治見国長を討ち取る。これを、正中の変という。貞顕の子、金沢貞将(さだゆき、1302~六南24~30~33、二二歳)が六波羅探題南方別当として京都に上り来て、翌年、日野俊基、日野資朝を逮捕し、鎌倉に拘引した。後醍醐天皇(三八歳)は弁明書を鎌倉に送る。第十四代執権北条高時(二〇歳)の前で、これを読み上げた六波羅探題奉行が血を吹いて頓死。畏れをなした高時は、日野俊基を証拠不十分として無罪放免、故土岐頼時や故多治見国長と係わっていた日野資朝は佐渡流しとした。
このころ、兼好(四二歳)は、邦良親王(二五歳)に気に入られ、何度か歌を召されている。また、後醍醐(三九歳)の命で二条為定(1293~60、三二歳)が撰じた『続後拾遺集』(一三二六完成)にも、兼好の歌が一首が入っている。この歌集は、形骸化し凡庸化する二条派の衰えを隠しようもないが、足利尊氏をはじめとして台頭する武士六〇名の作も採られている。
二六年三月、執権北条高時は、病気を理由に二二歳で出家してしまい、内管領長崎高資は、六波羅探題南北別当だった金沢貞顕(四八歳)を第十五代執権に据える。翌四月、邦良親王(二六歳)が死去。このため、幕府の判断によって、持明院統の故後伏見(93代)の実子、量仁親王(かずひと、後の北朝光源天皇、1313~北天31~廃33~1364、一三歳)が立太子。
後醍醐(四〇歳)は、日野俊基らとともに再び倒幕の準備を始め、中宮御産祈祷と称して伏見の醍醐寺の座主、文観(1278~1357、四八歳)に幕府調伏呪詛を行わせる。また、強大な僧兵を抱える東の延暦寺や奈良興福寺へみずから赴き、二七年には実子の護良親王(1308~35、二一歳)を天台座主に据えた。
三〇年、金沢貞将(二八歳)が六波羅別当を解かれ、関東に戻る。後醍醐(四四歳)はいよいよ倒幕の準備に邁進。しかし、かねてから自重を求めていた側近の吉田定房(1274~1338、五五歳)は、翌三一年四月、後醍醐を案じ、倒幕計画を六波羅に密告。日野俊基や文観(五三歳)などが次々と捕縛される中、八月、三種の神器を持った後醍醐(四五歳)が女装して京都を脱し、木津川の笠置山で挙兵。これに延暦寺の護良親王(二六歳)や南河内の悪党(反幕府武将)楠木正成(1294?~1336、三七歳位)も呼応して挙兵。ついに五七年にもわたる南北朝の争乱が始まってしまう。一方、兼好は、『徒然草』の筆を折り、以後、約百年、その草稿の存在は人目から封じられてしまう。
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