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キリスト教はローマ帝国に迫害されたか(1)/純丘曜彰 教授博士

INSIGHT NOW! / 2020年9月25日 6時1分

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純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

/キリスト教はローマ帝国の皇帝崇拝と多神教を拒否して迫害された、と答えることになっている。しかし、迫害ばかりされていたら、大帝国を乗っ取るほど教勢が伸びるわけがあるまい。/


09.01.01. ティベリウス帝とカリグラ帝(14~41)

なにがどうなったのかわかりませんが、金曜に処刑されたイエスの墓が、三日目の日曜の朝、空になっていた。おまけに、あのイエスに会った、なんていう人も出てくる。それで、いろいろなウワサが飛び交い、イェルサレムはもちろん、あちこちの町のあちこちの家に人々が集まり、ああだこうだと語るようになりました。

J それ、きっとすごく怖かったんでしょ。みんな、ウソの告発をしたり、処刑を煽ったり、そうでなくても、見捨てて自分だけ逃げたり、いろいろ後ろめたいところがあったみたいですから。

イエスの側近だった使徒たちも、イエスを見捨てて自分たちだけが逃げた罪、さらには、ユダヤ人が律法を守らなかったからこんなことになったという罪の意識に苛まれ、彼らは神殿参拝を欠かさない、驚くほど模範的なユダヤ人になります。その一方、生き返ったイエスがローマを倒すだのなんだの、さまざまな政治的、宗教的な集団も。そうでなくとも、この時代、諸国の文化が入り交じって、政治や宗教を語る多種多様な連中がローマ帝国中に湧いて出てきていました。

国際都市イェルサレムの使徒派においても、他の都市から来たギリシア語ユダヤ人たちが増え、ユダヤ語使徒たちがイエスより神殿を重視している姿勢を批判。ユダヤ州の実質的な自治を任されていた祭司団は、36年、そのギリシア語使徒派代表のステファノスを石打で処刑。同じギリシア語ユダヤ人で、ローマ市民権も持つ律法学生のパウロに、彼らの迫害を命じます。

J ローマ市民権を持ちながら、わざわざ律法を研究するなんて、バリバリのユダヤ保守派だったんでしょうね。

ところが、このパウロも、イエスに会ったとか言い出して、回心。イエスが救世主、キリストである、その処刑によって我々の罪は贖われ、我々は救われた、もはやイエスにすがるのに割礼や律法に縛られたユダヤ人である必要すら無い、と言って、ユダヤ人以外にも積極的に布教して歩くようになってしまいます。実際、ユダヤ教の預言者たちの長い伝統を踏まえた、意図のわかりにくいイエスの言行よりも、死んで復活する神、といった方が、オリエントの農耕植物神に近く、ユダヤ人以外にはずっと理解しやすかったでしょう。

J よくわからないときに、私はわかっている、っていうやつが出てくると、みんな、よけいわけがわからなくなるんですよね。

おりしも37年、ティベリウス帝が無くなり、その弟の孫の若きカリグラ(12~位37~41)が帝位を跡を継ぎます。しかし、20年以上の前帝のほったらかしで、帝国はガタガタ、とくにローマ市は、ローマ市民権を持つ属州富裕層も市内に大量に流入。自由民の三倍もの奴隷がいて、人口は100万を超え、旧市街城壁から溢れ出していました。これらの多くはギリシア語で、上流教養階級もヘレニズムかぶれで、みなギリシア語。南イタリアやシチリア島なども、もともとギリシアの植民市なので、ギリシア語のまま。本来のラテン語を話すのは、ローマ周辺の中下層くらい。

それで、カリグラ帝は、水道や劇場の建設など、市民が喜ぶ皇帝らしいことをはりきってやり、初代オクタウィアヌス帝をまねて、皇帝の神格化、つまり、言葉の違いを超える帝国共通のシンボルとして皇帝神殿を各地に建てさせます。しかし、拡大しすぎた事業は、すぐに国家財政を破綻させてしまいました。それで、カリグラ帝は、訴訟や結婚にも税金を課し、剣闘士を競売、宮殿で売春を経営。そして、問題となったのが、帝国内でのユダヤ人の免税特権、とくにエジプトのアレキサンドリア市でした。

J ユダヤ人の免税特権って?

カエサルが悪いんですよ。まだ中東を平定できていないころ、シリアとエジプトの間にクサビを打ち込むべく、ユダヤ人を懐柔しようと、これまでどおりの神殿納税を認め、帝国には納税しなくていい、としてしまったんです。それで、彼らはとにかく自分たちでがっつり貯め込んだ。

その最たるものがアレキサンドリア市で、紀元前30年にオクウィアヌスがクレオパトラを死に追い込んで以来、同市は、プトレマイオス朝に食い込んでいたギリシア語ユダヤ人官僚たちが支配するところとなっていました。それはイェルサレム市をはるかにしのぎ、ローマ市にも匹敵する100万人規模の大都市で、その中心のギルド、ディプロストーンは、71人の長老たちが管理するシナゴーグと工場、倉庫からなる壮麗な地区であり、無料パン配布を民衆支持の源泉とするローマの穀倉として、帝国経済の首もとを握っていました。

J それじゃ、ローマ帝国は、アレキサンドリア市のユダヤ人に支配されていたようなものじゃないですか。

そこで、カリグラ帝は、38年、アレキサンドリア市に介入しようとしますが、暴動となり、その鎮圧のために、ディプロストーンを破壊、ユダヤ人を虐殺。それで、すべての神はロゴス、論理、理性としてひとつ、だからユダヤ教の否定は不当だ、と考える、プラトンやストア哲学を取り込んだギリシア語ユダヤ人哲学者フィロは、同市の代表として逆にローマに乗り込み、皇帝カリグラに直接、ディプロストーンの再建を要求。カリグラ帝は激怒して、それならイェルサレム神殿にも自分を神として祭れ、と言い出します。それでまたアレキサンドリア市で暴動が起き、いよいよ解体。

J あー、かえってややこしくしちゃいましたね。

とはいえ、当時のユダヤ王、アグリッパ一世(c10BC~位37AD~44)は、ヘロデ大王の孫で、カリグラらとともにローマ市で育ち、カリグラが皇帝になるとユダヤ王とされた人物でした。彼は、洗礼者ヨハネを処刑したアンティパスも39年には追放して、領土を拡大。イェルサレム神殿に皇帝を祭る問題も、どうにか彼がカリグラ帝をなだめて収めました。


09.01.02. クラディウス帝とネロ帝(41~68)

アレキサンドリア市のユダヤ人ギルドの解体は、かつてのエジプト総督の甥、官僚セネカ(c1~65)に莫大な富をもたらし、彼の立場を大きく押し上げます。しかし、カリグラ帝が41年に暗殺されると、ユダヤ王アグリッパ一世が、カリグラの叔父で脳性麻痺だったクラウディウスを帝位に擁立し、ヘロデ大王時代以上の領土を獲得。一方、セネカはコルシカ島に流されてしまいます。

J 傀儡皇帝で帝国をまた支配しようとしたんですかね。

それでまたユダヤの反ローマ運動も盛り上がってしまうんですよ。でも、それはまずい。だから、44年、ユダヤ王アグリッパ一世は、見せしめにイエスの残党、使徒派を逮捕し、ヤコブを処刑。もっとも、同年、アグリッパ一世本人が暗殺され、ユダヤはローマの属州に戻されてしまいます。また、使徒派でも代表のペテロやヨハネらはかろうじて国外に逃亡し、代ってイエスの異母兄ヤコブが中心になります。

J あ、このとき処刑された使徒ヤコブの遺骨が、9世紀にイベリア半島の西端、サンティアゴ・デ・コンポステラで見つかったとか言って、その後、巡礼者が押しかけるようになるんですよね。

当時、クラウディウス帝が不自由なのをいいことに、その皇后と官僚たちが好き勝手にやっていましたから、いよいよ世も末だ、誰かが何かすごいことをしてくれるにちがいない、という妙な期待が高まって、自称救世主だの、自称革命家だのが帝国中に湧いて出てきていました。

救世主を待望するユダヤ人にも、使徒派のほか、パウロ派やシモン派、アポロ派など、さまざまな集団があり、48年、ともにイエス=救世主、キリストと信じるパウロ派と使徒派がイエルサレムで会議を開いて、ユダヤ教を任意として合流、ギリシア語圏とユダヤ語圏の住み分けを決定。しかし、割礼や律法のユダヤ教も絶対とする保守的な使徒派の一部は、エビオン派として分離。

J この時代、イエス以外にも、自称、他称の救世主なんて、いっぱいいたんでしょうね。パウロ派が同じイエスを救世主だと言うのなら、いっしょにやろうか、というのも、わかりますけれど、かつて自分たちを迫害した連中ですから、合流は絶対にイヤだ、という人たちが出てくるのも当然でしょうね。

このころ、ローマでは、48年、皇后による皇帝暗殺計画が発覚し、処刑。翌年、クラウディウス帝は、カリグラ帝の妹アグリッピナと再婚。新皇后アグリッピナはセネカを呼び戻し、法務官に据えるとともに、自分の連れ子のネロ(37~位54~68)12歳の家庭教師を命じます。そして、54年、皇后アグリッピナはクラウディウス帝を毒殺。17歳のネロが皇帝になりますが、実際の政治は、母后アグリッピナが支配し、セネカが運営することになります。

J モラルもなにもあったもんじゃないですね。

でも、このころ、上流教養階級の多くは、心の美徳第一のストア派を信条としていたんですよ。ただ、これが心の美徳というのがミソで、それは地位や財産などには左右されない、として、逆に、セネカを典型として、世襲相続した属州搾取の地位と財産で贅沢三昧の日々を送り、奴隷たちをこき使いながら、口では、奴隷たちも人間だ、などとうそぶいていました。

J 心の中さえきれいなら、手を汚しても関係ない、というわけですか。

セネカなんか、自分を呼び戻してもらったのに、59年、ネロ帝の母后殺しに手を貸してしまいます。でも、さすがに罪の重みに耐えきれず、ネロ帝から得たものを返上して、政治から身を引いてしまいます。ほかの上流教養階級の人々でも同じようなもので、自己欺瞞の罪の意識に苛まれ、ここに、イエスが救世主として我々の罪を贖った、というパウロ派の福音の教えが入ってくると、耳を傾けずにいられなかったようです。また、彼らにこきつかわれていた奴隷たちの多くも、ギリシア語周辺国の出身で、パウロ派の救済の預言にすがりつきました。

J 家で奴隷にムチ打っていた連中が、パウロ派の秘密集会では、泣いて彼らに詫びるんですか。うわぁ、いよいよ気持ちが悪い。

一方、脳天気なネロ帝は、母后の縛りが解けて、自分はアポロンだ、とか言い出し、それまで下賎なことと思われていた歌や芝居に挑戦。上流教養階級はドン引きでしたが、ところが、これが新しい娯楽に飢えていた中下層の庶民に大ヒット。60年と64年にローマ市で「ネロ祭」を開き、ナポリ市にも公演旅行に行っています。

J でも、ネロ帝って残虐非道な人だったんでしょ?

どうなんでしょうね。悪い連中に良いように名前だけ利用されただけかも。こんなふうにネロが歌や芝居に熱中し、ローマを留守にするものだから、その隙に、思いつく限りの邪悪な妄想を盛り付けたウワサを流し、ネロ帝の命令として、かってに暗殺や処刑をやってしまうなんていうことも横行しました。

とくにこの時代、ユダヤ問題がくすぶり続けていました。属州に戻されてしまった王国を再建しようと、ユダヤ人が宮廷でさかんに政治工作を行っています。すでにユダヤ人は、ローマ市の人口の一割を越えてティヴェレ川西岸を占拠しており、それも裕福なので、大勢の奴隷たちを買い込んで、むりやり割礼して律法を強制し、ユダヤ教徒にしてしまう、なんていうこともやっています。

J え、そんなの、ありなんですか?

主人に逆らったら殺されてしまうのが、奴隷ですからね。ここまでしてユダヤ隆盛を図っているのに、ユダヤ教を否定して、ローマ市やイェルサレム市ではびこり始めたパウロ派や使徒派は、ユダヤ人にとって目障り以外のなにものでもありません。このころ、パウロは、使徒派との住み分け協定に基づき、トルコやギリシアなどのギリシア語圏を回っていましたが、イェルサレム市に戻ったところで逮捕され、ローマ市民としてローマ市に移送。使徒派の代表、異母兄ヤコブも、62年、総督交代の隙に、祭司団に殺害されしまいます。

同62年、ナポリ周辺でヴェスビオ火山の大地震があり、いよいよこの世の終わりだ、と騒ぐ人も出てきます。そんなところで、64年、ローマ大火。一週間に渡る延焼で、ローマ市内の三分の二が灰燼に帰してしまいました。ここにおいて、パウロ派や使徒派がやった、とのウワサが立てられ、天国に行けないように火炙りで処刑されました。

J ほんとうに彼らがやったんでしょうか?

さあ。ただ、彼らは、以前からローマ市を、滅びが預言された虚栄の「バビロン市」と見なしていました。また、彼らの中には、ネロ帝の通俗的な人気取りを批判する上流教養階級が少なくなく、彼らが有罪処刑となれば、とてつもない財産が没収となって、ローマ市再建資金になります。翌65年、エジプト領と巨額融資で莫大な富を蓄えていたセネカも、皇帝暗殺の嫌疑をかけられ、自殺に追い込まれています。もっとも、こんな策略をネロ帝自身が考えたとも思えませんが。

そのネロ帝は、財源など気にもせず、喜々として焼け跡に新しいローマ、黄金宮殿、ドムス・アムレアの計画を構想していきます。彼は、ローマの丘の立体的な地形を生かしつつ、火山灰コンクリートを使うことで、石造りではできないようなドーム構造などの自由な形状を持つ豪華絢爛たるパビリオン群を考えており、その中心、いまのコロシアムのところには大きな人工池と庭園が造られる予定で、30メートル以上のネロの巨大裸像もありました。

J 自由の女神と同じくらいの背丈ですね。でも、もうそれ、テーマパークのネロランドでしょ。時代を先取りしすぎて理解されなかったけれど、じつはネロって、大衆政治の天才だったのかも。

それだけじゃないですよ、ただでさえヘレニズムかぶれでアポロンを自称するネロ帝は、属州ヘレニズム圏での存在感を高めるべく、67年、あこがれのギリシアを訪れ、なんと無理やり一年早めて開催させたオリンピック競技にみずから参加。1800もの栄冠に輝いて、大人気となります。

J あはは、どうせヤラセでしょ。でも、それ、私も見たかったかも。

しかし、このころすでにユダヤ戦争が起こっており、68年にネロ帝がギリシアから帰国して庶民から大喝采を浴びるも、元老院が裏切って地方の将軍を皇帝に擁立し、ネロを自殺に追い込みます。こんな将軍皇帝たちも次々と暗殺され、結局、69年、ユダヤ戦争でローマ市を離れていた将軍ウェスパシアヌス(9~位69~79)が皇帝に。70年、イェルサレム市を破壊し、これまでユダヤ人が帝国に納税せずに神殿に貯め込んでいた財宝を獲得。73年に残党も潰して完全勝利。ユダヤ人の免税特権を廃止し、帝国全土の国勢調査と徴税徹底で財政再建を図ります。

J ようやく皇帝らしい人が出てきましたね。


09.01.03. フラウィウス朝(69~96)

J その後、帝国はどうなったんですか。

帝国は、フラウィウス朝として、ウェスパシアヌス帝の後を、その長男ティトゥス帝と次男ドミティアヌス帝が継ぎます。この時代、とにかく多種多様な人々をひとつにまとめることが政治の最大の課題であり、言葉を越えた帝国共通のシンボルとして皇帝の神格化が図られました。このため、パンとサーカスで人々を懐柔する一方、話をややこしくする宗教や哲学に対しては、繰り返し追放が行われています。とくにユダヤ人は、その後も各地で反乱を起こしたため、かなり厳しく取り締まられます。

J まあ、宗教はダメでしょうけれど、哲学もですか?

政治家たちとも懇意で、倫理的に高潔で人々の尊敬を集めていた貴族哲学者のルーフスだけは、追放の例外とされました。キケロ風の現実受忍型のストア哲学を講じる彼の塾には、男だけでなく、女性も多く入門しました。足が不自由なエピクテートス(c50~c135)は、奴隷でしたが、ネロ帝の秘書だった主人が追放されたことによって解放され、彼もこの塾でストア哲学を学び、やがて師に代ってエピクテートスが塾で教えたようです。

J キリスト教は?

64年のローマ大火処刑と70年のイェルサレム破壊で、パウロ派、使徒派、エビオン派、ともに新規の布教は勢いを失い、終末論の熱気も冷めてしまいます。それでも、各地の会衆は存続し、都市によっては、専用の聖堂が建てられ、専従の司教が常駐するようになりました。しかし、教会は、あくまで長老たちが運営し、長老たちによって選ばれる司教も事務的な仕事のみで教義を語ることは無く、礼拝ではイエスの伝承や伝道者たちの手紙が読み上げられました。

また、反乱ユダヤ人に対するギリシア語文化圏の人々の嫌悪から、グノースティシズムという新興宗教も現れます。これは認識主義という意味で、オルフェウス教やピタゴラス教団、プラトン、ストア派のヘレニズム思想に、反ユダヤ教がくっついたもの。ユダヤの神、つまり、地上界や肉体、律法という牢獄を創ったのは、じつは悪魔だ、とし、我々は地上界や肉体、律法に惑わされず、霊のみによっての天上界の真の神を知ることで救われる、と言います。そして、これを一部の教会が取り込んで、イエスこそ、ユダヤ教の悪魔神を倒し、肉体を捨て、霊に生きることを教える真の神であり救世主だ、と言い出します。

J えーと、となると、キリスト教の中に、ギリシア語系新生主義からユダヤ語系伝統主義まで、大きくグノーシス派、パウロ派、使徒派、エビオン派の四つがあって、いまだに揉めていた、ということですね。

いや、もう一つ、このころヨハネ派というのもできたようです。ヨハネは十二使徒の中でもとくに若く、イエスの生前、ヒゲも無い紅顔の少年で、「イエスの愛した弟子」として、母マリアやマグダラのマリアらとともに、イエスのすぐそばに仕えていました。そして、イエス磔刑の後は、使徒の長、ペテロに付き従って各地を伝導。しかし、そのペテロも64年のローマ大火で処刑されてしまうと、トルコ西岸のエフェソス市で、母マリアやマグダラのマリアらとともに暮らし、独自のイエス事件の理解を語ったようです。

J あー、どういう感じの人だったか、イエスとどんな関係だったか、なんとなく想像できちゃうけど、それを言ったら、教会が激怒するんだろうな。

それ、ユダヤ教の律法で禁じられてましたからね。ユダヤ教の律法なんかどうでもいい、というパウロも、同性愛だらけのヘレニズム・ローマにあって、ユダヤ教以上の激烈なホモフォビア。おまけにマチスモ(男尊主義)のミソジニー(女性嫌悪)で、「女は黙ってろ、ただ男に従え」とか平気で言っている。

J リベラルなイエス本人が生きていたら、彼はイエスとケンカして、ぜったいに弟子になんかならなかったでしょうね。

でも、だからこそエフェソス市ですよ。ここは、ギリシア人より古いリュディア人の町で、地母神アルテミスの巨大神殿があり、その崇拝巡礼者で賑わっていたところです。つまり、ここはオリエントやギリシア文化圏の中では数少ない女性尊重の街でした。それで、母マリアやマグダラのマリアら、イエスゆかりの女性たちも、ここならとりあえず安全だったのでしょう。

でも、使徒パウロは、何度もしつこくエフェソス市を訪れ、神殿の女神信仰を偶像崇拝として非難して、街から叩き出されています。そして、64年のローマ大火の後には、弟子テモテが送り込まれ、司教としてエフェソス市教会を創ってパウロ派の布教に努めますが、あまりに攻撃的なので、街の人々に恨まれ、80年に石打で殺されました。

J 神殿の街でその女神を貶すだけでもよけいなお世話なのに、イエスを直接に知る女性たちや使徒ヨハネがいるのに、生前のイエスに会ったこともないパウロがイエスを語って教会を建てるなんて、そりゃ、街の人たちも呆れたでしょう。でも、パウロは「女は黙ってろ」ですからねぇ。使徒ヨハネも、その類いとして舐められたんでしょうか。

こんなことがあったからか、イエスを直接に知る使徒ヨハネは、パウロのイエス解釈以上のイエス理解の確立を急ぎます。もとよりこのあたりは、オルフェウス教の生まれたところでもあり、ヘレニズムの哲学もよく知られていました。それで、その福音、イエス伝では、パウロの信仰強迫的な原罪論に対して、他で知られていなかったようなイエス自身が実際に「罪」について述べた言葉を多く集め、神の子イエスが愛によって世の「罪」を贖ったとし、また、その後の聖霊の助けと自身の再来を告げます。

J あなた方が見えると言い張るところに、あなた方の罪がある、って、パウロ派に対する当てこすりっぽいですよね。

おりしも、81年、重病の兄に代わって弟のドミティアヌス帝(位81~96)が即位。潔癖な性格で当初は善政を布くも、例のごとく、建設・娯楽・軍隊は財政を破綻させ、陰謀が皇帝を脅かし、93年になるとついに疑心暗鬼に狂って、周辺の人々を次々と処刑。エピクテートスも、その塾が貴族の集まりとなることを恐れられ、バルカン半島側に追放されてしまいます。まして、ユダヤ人は、みな反乱の危険があるとして追放。当時はキリスト教も同類とされており、ユダヤ人追放の巻き添えで、使徒ヨハネもエーゲ海の離島に流されました。

イエス生誕から百年を目前に、この突然の暴政は終末論を再燃させました。離島での幽囚の間に、使徒ヨハネは、この世の最後を預言する『黙示録』を記したとされます。また、このようなこの世の終わりとの恐れから、すでに世を去った母マリアが、同地の地母神アルテミスの属性を取り込み、イエスへの執り成しを祈る崇敬の対象となっていきます。

では、前半のまとめです。ローマは、建設・娯楽・軍隊で慢性的な財政危機。そこで、ローマの穀倉、アレキサンドリアを抑えるユダヤ人を排除し、対立が激化。陰謀が渦巻き、心の美徳と手の汚れの欺瞞に、罪を問うキリスト教が浸透。そんな中、ローマ大火でキリスト教の迫害が起こり、ユダヤ戦争でイェルサレムを破壊。フラウィウス朝は、反乱テロを起こすユダヤ人だけでなく、哲学も追放。ユダヤ嫌悪のグノースティシズムが流行し、キリスト教では終末論が再燃。前半はこんなところかな。


(2)に続く

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