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「英語を自分の言葉とする喜び」と「自分の言葉で学ぶ喜び」

Japan In-depth / 2016年2月18日 23時0分

「英語を自分の言葉とする喜び」と「自分の言葉で学ぶ喜び」

渡辺敦子  (研究者)

「渡辺敦子のGeopolitical」

現在、日本に里帰り中である。ある日、英会話学校のチラシが目に入った。

幼い子供たちが笑顔で金髪の女性に向かって何ごとか叫んでいる写真に、「英語を自分の言葉とする喜びを」とのキャプションがつけられている。うーむ、と唸らざるを得ない。

私は、英国の大学院の学生である。博士号を取るには、当たり前だが英語で論文を書かねばならない。現在4年目、修士過程を入れれば通算6年弱になる英語圏でのキャンパスライフだが、未だに英語は私にとって、永遠に片思いの彼のようなものだ。

ちなみに私は2児の“帰国母”だが、帰国子女ではない。だが学部はロシア語で、ある時点までは語学が得意だ、と信じてきた。しかし実際には、博士論文の最終過程に入っても、まだaとtheを間違える。単数と複数に悩む。時制がわからない。何度読んでも理解できない構文に出くわす。滑稽な英作文をして、我ながら吹き出すこともある。村上春樹が「正直言ってどうも自分は外国語の取得に向いていないんじゃないか」と告白するエッセイ「やがて哀しき外国語」は、いつも心の拠り所であった。

一方そんな私も、職探しの際は「英語で教えられます!」と強弁してしまう。実際英語で教えているという日本人の大学の先生に何人か会ったけれど、この程度で良いなら私も大丈夫、という高飛車な自己弁護をしつつ。だが一方で、絶えざる疑問は2つある。その1は、日本で英語で授業をして、ついていける学生がどの程度いるのかということ。もうひとつのより大きな疑問は、母国語で高等教育が受けられる幸せを、そんなに簡単に放棄してしまって良いのだろうか、ということである。

数式で示すことができない社会科学を母語以外で行う困難は、やったものでないとわからない。読む、聞くという作業は想像力と知識である程度まで補えるが、特に書く、話すのアウトプットに関しては、私の場合は母語による実力を10とすれば、せいぜい6程度だ。時間に換算すれば、論文を英文で書くには日本語の4倍はかかる。私の分野である「国際関係論」は、英語で学んだほうがよいと思う人も多いだろうが、ことは実はそう簡単ではない。

言語は、我々の思考をつかさどる。英語と構造の異なる日本語は、英語学習の障害だ、と言われることもあるが、言語による思考回路の違いは、考え方の多様性を生む。今、社会科学で必要とされるのは、欧米の大学で英語でトレーニングを受けたのではない人々の新鮮な考え方だ。そんな声も聞こえるようになってきた。たとえば旧植民地の人々の声を代弁するはずであるポストコロニアル主義が、欧米の学問を基礎としたものであることは、矛盾である。国際関係が英語だけで討論されるのも、同様に矛盾であろう。また多くの場合、英語が得意な教師は知識が足りず、深い知識を持った教師は英語ができない。ジレンマには違いないが、どちらが教師としてより優秀かは明らかだ。

日本は、母語でほとんどすべての学問が学べる、ごく少数の国である。それは明治以来、先人が築いた伝統のおかげだ。確かに以前書いたように、社会科学における日本人の語学音痴は、見逃しがたい弊害を生んでいる。だがだからといって、学生たちまでが「母語で学べる喜び」を捨てるのは、本当にもったいないことだ。英語を学びに生かす方法は、授業を英語で行うことだけではない。言葉はコミュニケーションのためだけではなく、思考の手段でもある。日本語という豊かな思考のための資産を、簡単に捨ててしまってはならない。

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