トランプを勝たせた「status quoへの反感」
Japan In-depth / 2016年11月10日 10時1分
渡辺敦子(研究者)
「渡辺敦子のGeopolitical」
カンヌ映画祭で今年、パルムドールを受賞したケン・ローチ監督の「I, Daniel Blake」を、先日、英国に向かう飛行機の中で見た。主人公の中年大工ダニエルは心臓病を患い医師から仕事を休むように言われる。だが政府からは労働可能と見られて福祉手当を受けらず、破産と生命の危機にさらされる。ローチ監督によれば、経済効率を追求する新自由主義(ネオリベラリズム)に人間性を奪われる労働者階級の現実を描いたといい、英国では大反響を呼んでいる。
この映画が普通とはちょっと違う形で感情を揺さぶられるのは、ダニエルの日々のあちこちに自分の体験がダブるからだろう。グローバル経済の「勝ち組」に見える英国だが、実際、市民の暮らしは楽ではない。例えば私が下宿する家のマリアは有名大学で哲学を学び、編集者となった。だが母親の看病をするため仕事を辞め、以来病院の事務職として勤務先を転々としている。努力家で人柄も良い彼女がなぜ、と思うのだが、英国医療機関を束ねるNHSの雇用システム下では止むを得ないという。
音楽スタジオを経営する夫の収入は安定しておらず、成人した息子に定職はない。昔は自動車産業で栄えたコヴェントリーだが、効率化に失敗した産業は衰退の一途を辿り、今やその面影はない。このため職そのものが極めて限られる。25%近くの子供が貧困層で、市内には、おそらく一般的な日本人が想像する英国像とはおよそかけ離れたような荒れた地区があちこちにある。
ダニエルは、本当はとても役に立つ働き者だ。同じように貧困にあえぐ母子を、手先の器用さと優しさで助ける。それなのに現実の前では無力だ。役所に電話すれば自動応答装置に長時間待たされ、求人登録をインターネットでするように求められ、さらに履歴書の書き方を指導する講習会にまで参加させられる。だが大工として生きてきた彼は、パソコンなど触ったこともなかった。
これらの場面では、実は私自身を重ねてしまった。ほんの数ヶ月前、パートタイムの仕事を探したのだが、ネットに溢れる求人は全て人材派遣会社に管理され、短期の仕事でさえ、まず派遣会社に登録しなければ得られない。そのためには履歴書を入力し派遣会社の面接に出向く必要がある。履歴書は詳細に渡り、記入は一仕事だ。
また仕事によって派遣会社が違うので、場合によっては複数の会社への登録が必要だ。たった数週間の、得られるかわからない仕事のために使う時間にしては、必要以上に多い。しかもなぜ、派遣会社に自分の経歴と状況を洗いざらい教えねばならないのか?そもそも逐一派遣会社に出向く時間は、家事と勉学に追われる私にはない。 結局、職探しは諦めた。経済効率重視の社会においては、英国の労働者もグローバルな高学歴者である私も、なんら変わりはない。
ダニエルと私の共通の敵は、おそらくstatus quo(現状)と呼ばれるものだ。この‘現状’という得体の知れない敵は、いつの頃からか我々の生き方を縛るようになった。トランプ大統領の誕生について、トランプ陣営のアドバイザーが「この選挙は腐敗したstatus quoと変化の戦いだった」と総括したが、トランプに投票した人々はこのstatus quoを変えてくれる可能性を、彼の破天荒な言動の中に見たのだろう。前稿にも触れたように、その思いは恐らく、Brexitに投票した人々と共通していたのではないか。
トランプ大統領を誕生させたアメリカ人を非難するのは簡単だ。だがこの得体の知れない敵と向き合わなければ、なぜこうも人々が「反乱」をおこすのか、その理由は見えてこない。
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