オリエント史から見えた政教分離や信教の自由の意義

J-CASTトレンド / 2020年7月9日 15時30分

■『古代オリエントの宗教』(著・青木健 講談社現代新書)

旧約聖書と新約聖書、二つの聖書が、4世紀以降、周辺国・地域の統治に与えた影響は大きい。イスラム教が、邪教との扱いを受けないよう、二つの聖書を前提に、最後の預言者としてムハンマドを位置づけていることはその一例だ。というのも、オリエント地域には、マニ教やミトラ教という苦い先例がある。

キリスト教は、西ヨーロッパでは順調に浸透した。ローマ帝国がキリスト教を国教として採択した西暦380年以降、ローマ教皇と領主がカソリックで結ばれる体制が各地域で確立していく。キリスト教の影響は、今のトルコ周辺にあたるビザンチン帝国の版図にも及んだ。

本書の舞台は、これらの地域の東、オリエント地域だ。著者は、二つの聖書が国・地域の統治に与える影響力を「聖書ストーリー」と定義し、土着の神話や宗教が、キリスト教の影響を受けてどう変化したかを解説してくれる。聖書とは別の物語を維持できれば「アナザーストーリー」となるが、それは簡単ではない。多くの神話と宗教が、聖書ストーリーに組み入れられ「サブストーリー」化した。

二つの聖書よりも古いゾロアスター教

二つの聖書が誕生する前、ペルシャ帝国ではゾロアスター教が広範に信仰されていた。帝国のキュロス2世は、ユダヤ人の信仰の自由を認め、その寛大さとペルシャ帝国とユダヤ教のかかわりは旧約聖書に百か所以上にわたり記されている。高校の教科書でいえばバビロンの捕囚だ。

ペルシャ帝国は、ゾロアスター教を国教としていたが、イスラム教が誕生し、アラブのイスラム教徒の軍事力が強くなり、キリスト教とイスラム教の双方と共存する道を探ることになる。ゾロアスター教は、13世紀には、キリスト教およびイスラム教の中にサブストーリーとして位置づけられてしまう。

メソポタミアで生まれたイエス中心のマニ教

マニ教は、メソポタミアで生まれたイエス・キリスト中心の宗教だ。「真のキリスト教」を目指しているが、同時代の地中海のキリスト教徒からは蔑視されていた。それは、マニ教が旧約聖書を否定し、神の子イエスがマニを含めて8人の使徒に繰り返し具現化すると主張したことによる。

ローマ教会とは全く異なるマニ教は、ゾロアスター教あるいは仏教が浸透するササン朝ペルシャ帝国での布教を念頭に編み出され、その後バリエーションも作られている。ササン朝ペルシャ皇帝に3世紀に献上された「シャーブフラガーン」がその一つで、イラン系の宗教に見間違うほどに教義が変化している。布教のためには、イエスの位置づけさえ変えてしまえばいいと考えるマニ教は、中央アジアでは、「真の仏教」になるべく再び変質を遂げ、布教には大成功するが、キリスト教からははるかに隔たったものとなり9世紀には姿を消した。

キリスト教を意識したシーア派の誕生

土着の宗教に敵対的なキリスト教を修正してゾロアスター教に宥和的なキリスト教を模索したペルシャでイスラム教のシーア派が誕生するのは、偶然ではない。新約聖書やコーランは、イエス、ムハンマドの後に預言者はいないと説くが、シーア派では、カリフが預言者の代理人として、イマームが黙示者として、聖書やコーランの解釈に一定の自由度をもつ。ペルシャは、キリスト教とイスラム教のサブストーリーを目指した。しかし、このことがローマ教会やイスラム教スンニ派との間で紛争の種になっていることは、歴史が示すとおりである。

大航海時代のスペインやポルトガルは、東アジアの利権を手に入れるという国家の使命を担って、宣教師に織田信長、徳川家康をはじめ戦国時代の武将に接近させていたことが最近分かったが、中世以前のヨーロッパと中近東においても、キリスト教やイスラム教の布教は、貿易による富の確保と関連していた。小国はもとより、ペルシャ帝国ですら、二つの宗教にあらがうことは難しかった。邪教、異端の烙印を避けなければ経済面でも大きな痛手になったのだ。また、この二つの宗教が、対立する関係ではなく、親子兄弟的な関係で誕生し、少なくともイスラム教側からは共存しようとしていたことがわかる。

そして、政教分離や信教の自由は、統治者が富の確保と宗教を関連付けようとする限り必要であることが、絶対王政以前のオリエント古代から変わらないことが歴史の事実として実感される。

ドラえもんの妻

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