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実家の温もりを――。シンママたちへ居場所作った「普通の主婦」

WEB女性自身 / 2021年9月6日 11時0分

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「はい、みんなー、ごはんよ!」

騒々しい部屋のなか、女性のひときわ大きな声を合図に、子供たちが集まってくる。

「はい、愛華。ご飯どれくらい? ストップ言ってよ。あれ、おかずはいらんと? おかず、自分でちゃんと、とってよー」

ごはん茶わんに白米をよそいながら、女性はおかずの入った大鍋を指し示す。この日の献立はオクラと豚肉の炒めもの、それに野菜のほうとう。女の子がオタマでほうとうをすくっていると、不意に女性がまた大声を上げた。

「琉雅! ごはーん! 愛華、食べる前に琉雅、呼んできて。あっちの部屋でゲームしとるけん」 すると今度は、少し離れたところで、よちよち歩きの女の子が声を張り上げ、泣き始めた。また、女性が大声で叫んだ。

「ん? 誰か? なんで泣いとる? なんでー!?」

とってもにぎやかなこの場所は、福岡県久留米市にある、ひとり親家庭を主とした子育て世帯を支援する一般社団法人「umau.(以下、ウマウ)」の活動拠点。“実家よりも実家”をコンセプトに「じじっか」と名づけられている。

なるほど、子供もママも、玄関の扉を開けるときの挨拶は決まって「ただいま」だ。居心地がいいからか、走り回る子、寝転がってゲームをする子、おしゃべりに興じるママたちと皆、自由気ままに過ごしている。本当は赤の他人同士のはずなのに、その姿はまるで、実家に集結した大家族だ。

あまりのにぎやかさに、記者が圧倒されていると、隣にいた別の女性スタッフが笑みを浮かべ、こう教えてくれた。

「今日は子供少ないし、まだ静かなほう。いつもは30世帯ぐらい集まるけん、この何倍もうるさい。もうね、ここの日常はカオス(笑)」

昨年夏、じじっかがオープンして以降、「じじっかごはん」と銘打った“親子食堂”を毎週、金・土曜夜に開くほか、希望者宅まで食事の配達もする。そのほか、休日のレクリエーション活動「じじっかの休日」や、子供たちの体験教室「じじっかカルチャー」などなど、ひとり親世帯の困りごとや要望を反映させた、多くの支援活動をウマウは行っている。

特徴的なのはスタッフの顔ぶれ。じつはそのほとんども、ひとり親、かつては支援を受ける側だった。

ごはんを盛りつけていた田村貴美子さん(54)も、日ごろの喧騒について記者に耳打ちした広報担当の樋口由恵さん(42)も、ちょっとわけありの、シングルマザー。

そして、本稿の主人公で、ウマウの代表を務める佐藤有里子さん(54)も、やっぱり、ひとり親だ。

佐藤さんはおよそ20年間、自分と同じような、ひとり親とその子供たちの支援に携わってきた。お母さんたちに仕事を仲介する派遣会社を起業し、子供の無料学習塾を運営するNPOも立ち上げた。佐藤さんは、こう振り返る。

「よくね、『佐藤さんだけん、できたんよ』と言われたんですけど。決してそんなことない。私だって結婚に失敗し、時給750円のパートで働いてた。その、普通の私がやってのけたことですから、誰でもやれると思って。それで、まずは私がやることによって、背中を見てもらうじゃないけど、ほかのお母さんたちも立ち上がってくれたらな、そう思っていたんです」

気づけば、その思いに賛同した多くのお母さんたちが、彼女の周りに集っていた。佐藤さんはさらに、こう続ける。

「私もかつては、支えられる側でした。だから、よくわかるんです。ひとり親は支援されるばっかりで、日々の生活に追われ他人を助ける余裕なんて、なかなか持てない。でもね、いつも一方通行で支えられ続けるのって心がしんどくなるんです。それに、本当は皆、自分も誰かを助けたいとも思ってるんです。誰かから必要とされることで、自分も元気になれるんです」

私も誰かを支え、助けになりたい──、そんな、お母さんたちの思いが生んだ場所、それがここ「じじっか」だ。



■保育士生活で学んだ「だめな人なんていない」という考えが活動の根幹に

佐藤さんは短大を出て、保育士に。しかし、夢と希望を胸に就職した保育園で、佐藤さんは理想と現実のギャップに打ちのめされてしまう。

「保育園にもやはり“できる子”と“できない子”がいて。お遊戯会や音楽会などは、園としては経営もあるから『うちに通うと、こんなにできるようになります』というのを見せたい。だから、音楽会ではできない子の鍵盤式ハーモニカはそもそも音が出ないようにしていて……。私はそれがすごいショックで」

保育士1年目。3歳児クラスのお遊戯会で佐藤さんは、あえてその、できない子を主役に抜てきした。

「いつもメソメソして返事もじょうずにできない女の子。でも、とっても優しい子なんです。私、『この子なら大丈夫』と思ってた。お遊戯会当日、その子は舞台の真ん中で大きな声で歌って、ちゃんと役を務められて。もう、その子のお母さんはもちろん、ほかの保護者も、半信半疑だった先生たちも皆、感動し、号泣でしたよ」

このとき、佐藤さんは確信した。

「『だめな子』なんて1人もいない。それに、周囲が勝手に『だめ』と決めつけてしまって、生かされていない人が、世の中にはきっと大勢いるんだろうなって」

新人保育士の奮闘むなしく、園の“できる子優遇”方針は変わらず。夢破れた佐藤さんは、2年で退職。そして、すぐに結婚した。

「23歳のときです。相手は2歳年下のサラリーマンでした」

新婚生活は、郊外の夫の実家で始まった。夫の家は江戸時代から続く家で、佐藤さんは古い家のしきたりになじめず、苦しんだ。

「お風呂は当然、最後。食事も1人、床で食べた。それに、聞いたこともないいろんな儀式が。なかでも、いちばん困ったのが、新婚旅行で不在中、集落の人が集まって嫁入り道具をチェックしてたこと。たんすの中身まで。それも儀式なんだそう。でも後日、近所の人から『何枚も着物、持ってきたのね』とか『下着が派手』と言われて……。さすがに閉口しました」

加えて夫は人一倍、お金にルーズで、黙って借金を繰り返した。それでも、佐藤さんは耐え忍んだ。2人の子宝に恵まれたものの、やがて無理がたたって重度のぜんそくを患うことに。入退院を繰り返すようになってしまったのだ。

そして、結婚から10年目。夫の新たな借金が発覚したことを機に、子供たちを連れて家を出た。34歳。佐藤さんはひとり親になった。



■最前線を走り続け、脳幹出血に。駆けつけた女性たちとウマウを発足した

離婚と前後して、佐藤さんは物流企業の事務員として、パート勤めを始めた。

「お金をもらえて『ありがとう、助かったよ』と言ってもらえる。必要とされ居場所を見つけられた気がして、それが生きる気力にも。少しずつ健康も取り戻しました」 職場には、ひとり親家庭のお母さんたちが何人も働いていた。

「お話を聞くうちに、お母さんたちの大変さを知りました。生真面目に働くお母さんたちなのに、人並みな暮らしができないなんて、世の中、間違ってると思いました。ひとり親のお母さんたちは、ギリギリの生活のなか、正確な情報が得られず、世間が抱く勝手なイメージで損もしている。だったら、私が彼女たちの就労のお世話をしたい、そう思ったんです」

02年夏、佐藤さんは周囲の反対を押し切り、ひとり親家庭の母親向けの人材派遣会社「キャリア・リード」を設立。資金は、親子でいつか旅行しようとコツコツためた郵便貯金をあてた。

しかし、決して順風な船出ではなかった。

「まず事務所を借りるのもたいへん。資金は乏しいし。車のないお母さんたちが多いから、交通の便のいい場所に借りたい。でも、そういう場所の物件は家賃が高くて」

ある日、飛び込んだ不動産会社。担当者と佐藤さんのやりとりを奥で聞いていた会長が、彼女の思いに応えてくれた。

「私を呼んで『机2つしか入らん、狭いとこでもいい?』って。会長さん、わざわざ自分の駐車場をつぶして、小さな事務所を建ててくれたんです。『そのかわり、5年は諦めず続けることが条件だ』と」

その言葉を胸に、佐藤さんは営業に奔走。靴を何足も履きつぶしながら、久留米の町を歩いた。その過程では不愉快な思いもした。

「『女のお前が社長?』って、渡した名刺をゴミ箱に捨てられたこともあります。あと、『再婚もできず働かなきゃならないなんて、かわいそうね』って言われたことも」

ひどい仕打ちにも、佐藤さんは歯を食いしばって我慢した。

「悔しかった。でも、できたばかりの小さな、先があるかもわからん会社に登録してくれたお母さんたちが、仕事を待ってた。彼女たちのため、その一心でした」

やがて、会社は軌道に乗った。社員も増え、事務所も5年の約束を待たず、あっという間に手狭になり転居。いっぽう、仕事を得たお母さんたちだが、悩みが尽きることはない。とくに、子供の教育費を捻出する余裕がない、という声が多かった。

そこで12年、生活困窮家庭の子供の学習支援と、子ども食堂の機能を併せ持つNPO「わたしと僕の夢」が誕生する。

「最初は会社で放課後、社員が子供2人に教えるところから始まったのが、いま、NPOに在籍する子供は120人を超えました」

このころになると、地域でひとり親支援のパイオニア的な活動を続ける佐藤さんの周囲には、同じように地元で社会活動にいそしむ女性たちが集まってきていた。14年には、彼女たちとともに「ママをひとりにしない母子家庭団体・SWAK」というサークルも立ち上げた。ところが。

「会社もNPOもサークルもって走り回ってたときに、最終的に私、倒れてしまうんですよ」

それが、いまから4年ほど前。

「言葉が出づらくなって。頭がものすごく痛くて。病院に駆け込んで、MRI検査を受けたんです」

検査結果は、あろうことか脳幹出血。「もう持たない、すぐに家族を呼んで」と医師から告げられたところで、意識を失ってしまった。

「もうろうとするなか、もちろん自分の子供たちや両親に申し訳ない気持ちになりました。でも、会社やNPO、サークル活動で関わってきたお母さんたち、子供たちの顔も浮かんできて。いま、皆を放り出して、逝くことはできないって」

佐藤さんは踏みとどまった。そして、ふたたび目を開くと、家族以外は面会できないはずの病室に、見舞客がいた。このときのことを、佐藤さんはじつにうれしそうに述懐する。

「それが、SWAKの仲間、いま、ウマウの副代表をしている(中村)路子や、(樋口)由恵たちだったんです。もう、私、びっくりしてね。なんでも、私がもう死ぬと思って『家族です、親戚です』って、病院にうそまでついて、駆けつけてくれたんですって(笑)」

SWAKの活動はその後、19年に発足したウマウに移行。回復した佐藤さんが代表を務めることに。広報担当・樋口さんが言う。

「でも、ここでは誰も『代表』なんて呼びません。私は『家族です』って見舞いに行ったときから『ゆりネエ』って呼んでる。実際、頼りになるお姉ちゃんって感じです」

ひょうたんから駒が飛び出した。佐藤さん、そして彼女を慕うお母さんたちはいま、じじっかに集う、ひとつの大きな家族になったのだ――。

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