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渡辺美奈代 新聞受け覗くとファンと目が…命の危険感じたおニャン子時代

WEB女性自身 / 2021年12月19日 6時0分

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住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に夢中になったアイドルの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょう--。

「マッチさんのファンになったのは、『3年B組金八先生』(’79~’11年・TBS系)がきっかけだったと思います。主演の映画『ハイティーン・ブギ』(’82年)は前売券を買って、ちゃんと座って見られるように、朝早くに映画館に行って並んだのを覚えてます」

そう語るのは、渡辺美奈代さん(52)。’80年代、アイドルのファンになるきっかけは、テレビが与えてくれた。

「4つ上の姉が郷ひろみさん、西城秀樹さん、野口五郎さんの新御三家が好きで、よく一緒にテレビで見ていました。でも私にとっては少し大人すぎて、あまりときめかなくて。そんなときデビューしたのが、松田聖子さんやたのきんトリオさんで、すぐファンに。聖子ちゃんの『青い珊瑚礁』(’80年)やアルバム『Pineapple』(’82年)、マッチさんの『スニーカーぶる~す』(’80年)、『ギンギラギンにさりげなく』(’81年)など、レコードも何枚か買ってもらえましたが、やっぱり高価だったので、歌を聴くのは『ザ・ベストテン』(’78~’89年・TBS系)や『ザ・トップテン』(’81~’86年・日本テレビ系)でしたね」

当時、アイドル雑誌のグラビアページを切り抜いては、透明の下敷きに挟んで学校に持っていったものだ。

「アイドルグッズもはやっていて、私も黒地に金色の文字で『近藤真彦』と大きく書かれた鉛筆を持っていました。それが先生に見つかると『君の名前は近藤じゃないだろう』って怒られるんですね」



■怖いもの知らずだった当時。水着審査で選んだのはビキニ!

’82年には中森明菜や小泉今日子らがデビュー。アイドル全盛期が訪れていた。

「なんせ愛知県の田舎育ちなので、そんな華やかな世界はテレビの中だけ。中学時代の生活の中心は、卓球部の厳しい部活動で、土日にも試合がありました。そこそこの選手だったんですよ(笑)」

中3で引退すると、放課後の時間を持て余すように。だが、まだアルバイトもできない中学生。“何か習い事でもしたいな”と思っているとき、名古屋のタレント養成所の募集記事が目に入った。

そこに合格してしばらくすると、養成所の社長から「これから東京に挨拶回りに行くから、一緒に行こう」と声をかけられたという。

「社長には売り出したいコがいて、たぶん、その引立て役だったと思うのですが、訪問先で『おニャン子クラブがメンバーを募集しているので、チャレンジしてみませんか』とお誘いを受けたんです」

部活に熱中していたので、おニャン子クラブも、出演していた『夕やけニャンニャン』(’85~’87年・フジテレビ系)も、まともに見たことがなかったという。

「それでも番組内でのオーディションコーナーに出演するため、高校進学後、2週間ほど毎日のように東京へ通っていました。ただ歌やダンスのレッスン経験がほとんどなかったから、かなりひどいものだったと思います。水着審査もあってビキニを選んだんですが、いま振り返ると、すごい勇気! 怖いもの知らずだったんでしょうね」



■家から学校までカメラ小僧が待ち構えていた

無事におニャン子クラブに合格し、愛知から上京して、芸能人が多く通う堀越高校に編入。生活は一変したという。

「学校では所属事務所の送迎が禁止されていたので、歩いて通っていたんです。ファンには住んでいた家もバレていたから、家から学校まで、ずっとカメラ小僧が待ち構えていました(笑)。人が集まりすぎて身動きが取れなくなり、近くの商店街に助けを求めたこともありました。警察を呼んでくれるのですが、“身元引受人”である事務所の人に、警察署に迎えに来てもらう姿は、補導された少女みたいでした」

番組で「ケンタッキーフライドチキンが好きだ」と話すとカーネル・サンダースの人形が、「不二家のケーキが好きだ」というとペコちゃんの人形が、家の前に置かれていたりもした。ときには身の危険を感じることもあったという。

「いまと違ってオートロックもなかったし、住んでいた家は、玄関のドアに郵便ポストがついているタイプで。ふと玄関を見ると郵便受けの蓋が開いていて、誰かと目が合うなんてこともありました。蓋をバンダナで目隠しすると、翌朝、床にバンダナの燃えカスが落ちていたり……」

熱狂的なファンがいたのは、それだけ多くの仕事をこなしていたから。あまりの忙しさのなか、鮮烈に覚えているのが、マッチとの“出会い”だったという。

「マッチさんとは同じレコード会社で、幼いときは数枚しか持っていなかったレコードの、サンプル版とかを何枚ももらえたんです。そんなご縁もあり、私を担当してくれたディレクターさんがマッチさんの『愚か者』(’87年)を手がけていたこともあって、歌番組に出演したとき、ご挨拶する機会に恵まれたんです。『小学校、中学校から、ずっとファンです!』と話しかけたら『ありがとう』と言ってくれて、優しいお兄さんでしたね。ほんの短い時間でしたが、憧れの人のひと言が心に残って『私もがんばろう』と思えたんです」

だからこそ、おニャン子クラブ解散後も迷いなく芸能界に踏みとどまり、新境地を切り開くこともできた。

「あるとき事務所の人から“バラエティはどう?”って言われたんです。それでお歯黒をしたりして、挑戦してみたのですが、やっぱり抵抗があって……。しばらく考える時間をもらうことにしました」

悩んだ末、コントに挑戦しようと決心できたのには、志村けんさんの存在が大きかったという。

「『自由に楽しくやってくれれば、あとはほかの人が引き出してくれるから』とアドバイスをしてくれました。私との距離を近くするため、お歯黒のメークなども、志村さん自らやってくださったんです」

’80年代の初めにテレビで見ていたスターたちが、美奈代さんを励まし、支えたのだった。

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