設計者遺族が初めて明かす「戦艦大和」開発秘話

WEB女性自身 / 2013年8月16日 7時0分

零戦の生みの親を描いた『風立ちぬ』が大ヒット公開中だ。その設計者・堀越二郎に脚光が集まっている。その零戦と並んで日本人の心のよりどころとされるのが、「戦艦大和」だ。
 
‘45年4月7日、大和は何波にも分かれた米軍機編隊の攻撃により沈没した。その大和の基本デザインを生み出したのが、松本喜太郎(1903~83)。世界最大最強といわれながら、ほとんど成果なく沈んだ大艦と、彼はどのように向き合って生きたのか――。
 
松本喜太郎は明治36年5月8日、三重県生まれ。’28年に東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業し海軍に。松本が海軍を目指したのは経済的理由だった。帝大時代「卒業したら海軍に行く」という誓約書を提出。それによって海軍が奨学金を出したのだった。以来、終戦まで技術者として造艦に従事した。息子の松本正毅氏によれば、松本は「松本が大和を造った」と言われることを嫌がったという。「自分は基本設計はたしかにやった。しかし“日本を守る”という思いで、みんなでやったんだ」と。
 
正毅氏が「なぜ大和を造ったの?」と尋ねると、父から逆に「お前、どう思う?」と返された。正毅氏は正直に「わからない。なぜこんな世界一のでかいものを造ったの?」と今一度訊いた。すると松本はこう説明したという。
 
仮想敵国であるアメリカとは、国力に差がある。どうシュミレーションしてみても勝てそうにない。でもどこかに穴があるはずだ――。そして日本海軍は、アメリカの唯一の弱点を見つけた。大正時代の末期のことだった。太平洋、大西洋両方に艦隊を持つと、さすがのアメリカでも金がかかりすぎる。必ずパナマ運河を通過しなければならないが、運河は狭く、全幅110フィート(33メートル)以上の艦は通れない。日本はそれよりも大きな艦で大きな大砲を積めば、まあなんとか五分の戦いはできるんじゃないか……。
 
しかし、その構想が実現へと動きはじめるのは’34年(昭和9年)10月、軍令部が新艦設計の要求を海軍省に出すまで待たねばならない。
 
大きな艦に大きな大砲。アメリカの新戦艦の主砲が40センチと予想された時代に、松本は、大和に46センチ砲の搭載を課した。機密保持のため、大和の設計研究は、ふだん各種艦艇の設計作業をしている場所とは離れた海軍省内の16畳ほどの一室で、当初は6人の少人数で始められた。設計された艦は20以上。大和の最終案が決定したのは、’37年3月。就役は、太平洋戦争が勃発した8日後の、’41年12月16日だった。
 

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