反安倍、反原発…菅原文太さん“左寄り”の原点は高校時代

WEB女性自身 / 2014年12月11日 9時0分

「文太君は、県立築館中学から試験を受けて仙台一高に入学してきた。旧制中学から無試験で上がってきた生徒を見て「こいつらには負けられねえ」と思っていたようです。秀才でした。当時から反骨精神は強かった」(同級生)

 菅原文太さん(享年81)が先月28日、転移性肝ガンによる肝不全のため亡くなった。文太さんは3・11以降、反原発運動に力を注ぎ、護憲派の集会に出席するなど反安倍の立場を明確にしていた。それ以前から自然農法を手がけ、’98年に岐阜県・飛騨地方に移住。その後は山梨県北杜市でも、反農協の立場で農業を続けていた。

 多くのファンには、ヤクザ映画のスターが突然左寄りに歩む道を変えたように見えた。だが文太さんの中には、反権力の礎があった。

「高校時代、文太さんは新聞部に所属していた。当時の学校新聞は、盛んに社会問題を取り上げ、批判を繰り広げていた。高校生が作る新聞とは思えないような出来のものを作っていました。毎日新聞社が主催した学生新聞のコンクールで賞を獲得したこともあります」(仙台一高の齋藤秀美教諭)

 文太さんが在籍していた時代の「仙台一高新聞」は《「産業教育法」成立か 憂慮される学徒動員の傾向》《大学管理法再検討 早くも構成に難点》などの記事が掲載され、一般紙と見間違うような論陣を張っている。

 同じ新聞部の1年後輩には、小説家で劇作家だった井上ひさしさん(’10年没)が在籍していた。また護憲派の憲法学者で「九条の会」の論客である樋口陽一氏(80)も、文太さんの1年後輩。今年5月には文太さんと2人で講演会を開いた。

「当時、学年担任の先生が『弱気を助け、強きを挫け』と生徒に薫陶を与えた。みんな感化されましたね。もともと自由奔放でバンカラな校風。戦後すぐで食料も枯渇している時代に、文太君は平和運動に打ち込んでいた。一度思い込むと、どんどん突き進んでいくタイプでした」(前出の同級生)

 遡ると、新聞社に勤めプロレタリア運動に傾倒していた父親の影響もあったのかもしれない。仙台で過ごした少年時代に、すでに文太さんは「左寄りの美学」を身につけていた。

 最後に公に姿を見せたのは、今年11月1日だった。沖縄県知事選で、米軍基地辺野古移転反対を掲げ当選した翁長雄志氏の応援に文太さんは立った。

「文太さんから、選挙の手伝いができないかと打診があった。それまで翁長と文太さんは接点がまったくないのにです。心にズシッとくる演説でした」(翁長雄志事務所の翁長雄治さん)

 演説で文太さんは「仲井眞さん、弾はまだ残っとるがよ」と、『仁義なき戦い』から引用し、移転推進派に牙をむいた。反権力に生きた81年の生涯、最後の決め台詞だった。

(週刊FLASH 12月23日号)

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