藤井聡太七段を撃破!介護士からプロ棋士へ、今泉健司四段「3度目の逆転人生」

週刊女性PRIME / 2020年6月13日 16時0分

今泉健司四段 撮影/伊藤和幸

2018年、最年少の天才棋士・藤井聡太に粘り強い将棋で勝利した最年長ルーキーが世間をにぎわせた。将棋ひと筋の人生に苦渋の思いで終止符を打ち、「中卒」のレッテルにもがいた苦労人。アルバイトや会社員を経験しながら挫折を繰り返し、貯金が底をついて介護士に転身。過酷な現場で弱点を克服し、3度目の挑戦でつかんだ逆転人生を追った。

当時15歳の藤井聡太七段との対決

 将棋界きっての異端児である今泉健司四段(46)。戦後最年長の41歳でプロ棋士になったオールドルーキーだ。

 対局中はポーカーフェイスを貫く棋士が多いなか、今泉さんは表情豊かだ。劣勢になると顔が真っ赤になって、どんどんうなだれてくる。天を仰ぐようなしぐさや、ため息が出ることもある。

 駒を持った手が、まるで指揮をするように空中で大きく左右に揺れるときは、絶好調のしるしだ。

「バシッ」

 そのまま大きな音を立てて盤上に駒を置く。

 書店員、レストラン勤務、株のトレーダー、介護士など、さまざまな仕事をした末、夢に追いついた。

 今は幸せだと満面の笑みを浮かべる。

「自分の人生は、つまらない人生だとずっと思っていました。そしたらね、つまらないことばっかり起きた。30代後半になって、介護現場でいろいろな人の思いに触れたり、周りの人に助けてもらって感謝したり。一生懸命やっているうちに、けっこう人生って面白いじゃんと思った。そうしたら、面白いことばっかり巡ってきたんです」

 プロ棋士の養成機関である奨励会に2度も在籍。プロにあと1歩のところまで何度も迫りながら失敗を繰り返し、プロ棋士になることは完全にあきらめていた。それだけに、将棋を指してお金をもらえる今の生活には感謝しかないとしみじみ言う。

「対局前に駒を並べるときはいつも、1個並べるたびに、心の中で“ありがとう”と言っているんです」

 2014年12月にプロ編入試験に合格し、プロ棋士になって5年余り。最も注目を浴びた対局は'18年7月に行われた、当時15歳の藤井聡太七段とのNHK杯1回戦だ。史上最年少の14歳でプロ入りし、公式戦で29連勝するなど数々の記録を打ち立てた天才と、真逆の経歴を持つ超遅咲き棋士の対決。誰もが藤井さんの圧倒的有利を疑わなかった。

 ところが、今泉さんは持ち味の粘り強い将棋で攻め続け、藤井さんのミスを誘い、逆転勝ちしたのだ─。

「宝くじで3億円当てたみたい。それくらいすごいことなんですよ」

 予想外の勝利を、こう表現するのは、親しくしている棋士の菅井竜也八段(28)だ。

「対局が終わった直後に、今泉さんが電話をくれて、“奇跡が起きたー!”と。でも、絶対勝てないと思っていたから、“すぐ小さな嘘をつくんだから”と言って、しばらく信じなかったんですよ(笑)。

 将棋ファンの方たちにとっても、今泉さんの1勝は価値が違うみたいで、もう、お祭り騒ぎでしたよ。40歳近くになって、もう1度プロを目指し、夢をあきらめずにずっと頑張っていれば叶う人もいるんだと証明したわけで、今泉さんはアマチュアの英雄でしたから」

 今泉さん自身も、藤井さんに勝てる自信はまったくなかったそうだ。ただ、勝つためのイメージトレーニングは欠かさなかった。

「相手は怪物ですからね。とにかく自分の勝ちパターンに持っていくことを考えました。野球でたとえると、外角高めだけは得意なコースだから、投手がそこに投げるように、いろいろ誘導するという感じで。

 話題にはなったし、いい話のネタになったなとは思いますが、一生の自慢というつもりもない。だって、同じ棋士なんですから。相手が誰でも勝つという気概をなくしたら、トーナメントプロは辞めようと思っています」

 プロになって以来、毎年勝ち越してはいるが、連敗するときもある。タイトル争いには縁がない。もっと勝てるかと思っていたが、「プロの厳しさは想像以上だった」と本音もチラリ。

 将棋を嫌いになったことはないのかと聞くと、即座に否定した。

「26歳で奨励会を退会したころは彼女もいなかったし、将棋が女性みたいなものだと感じていたんです。イヤになって離れようとしたこともあったし、“大好きか?”と聞かれたら、今も微妙なところはあります(笑)。でも、最後に帰る場所は、やっぱ、将棋だなーと」

 容赦ない父親に97連敗!

 運命の女性にもたとえる将棋との出会いは、小学2年生のときだ。

 今泉さんは1973年に愛知県豊橋市で生まれた。両親と姉、妹の5人家族。社会保険労務士関係の仕事をしていた父の都合で、6歳のとき岡山市に転居した。小学校に入ると学校の図書室で、偉人の伝記を読みふけった。

「この人は何歳で死んだのかとか、死に方に興味があったんです。今でも有名人の享年はスラスラ言えますよ。織田信長49歳、武田信玄53歳、シューベルト31歳……。だいぶ変わってましたね(笑)。

 今日は誰の享年を覚えようかなと本棚を見ていたら、“玉将”と書かれた五角形の木片が表紙に大きく印刷された本があった。どうしてかはわからないけど、その本を手に取ったのが今泉の将棋人生の始まりです」

 最初の対局者は、父の正さんだ。本でルールを覚えて挑んだが、まるで歯が立たない。なんと97連敗!

「1回くらい負けてあげたらいいのに」

 見かねた母の恭子さん(75)はそう口にしたが、正さんは、

「勝負は勝負だから」

 と、まったく手加減をしなかったそうだ。

 あまりの悔しさに、今泉さんは折りたたみ式の将棋盤を投げつけて真っ二つに割ってしまったこともある。こっぴどく叱られ、割れた将棋盤はガムテープで補修した。

 図書室にある将棋の本を片っ端から読み、載っている詰め将棋を解いた。

「将棋って、ちょっとキツい言い方をすると駒を使った殺し合いなんです。王様を取ることは相手の命を取るということ。命がけでやっているので、負けたときにはこの世のすべてが終わったみたいに、こう(ガクンと首をうなだれる)なるんですよ。

 ムッチャクチャ悔しいから勉強をする。その結果、98回目に連敗が止まったときは、すっごい喜んで、ガッツポーズをしました。初めての、ものすごい悔しさと、ものすごい喜びの両方を与えてくれたのが、将棋だったんです」

 3年生になると父との対戦成績は五分五分になり、やがて今泉さんが勝ち越すようになった。

 4年生のときに広島県福山市に引っ越した。今泉さんは強くなりたい一心で、学校から帰ると自宅近くの書店に行き、将棋界でバイブルともいわれる『将棋大観』という分厚い本を自分のノートに書き写した。3千円近くする高価な本で、買ってくれとは言い出せなかったのだ。

「ほんまは、やったらあかんのですけどね(笑)。僕、筆圧が強いから、手は鉛筆の粉だらけ。その手でページをめくってベタッと触るから、本は売り物にならないくらい黒ずんでしまったと思います。よく許してくださったなあと。ただ、そうやって書いて覚えたことは記憶に深く残るので、原点になっていますね」

 父のすすめで地元の将棋教室に通い始めると、当初アマチュア5級ぐらいだった実力は5年生の終わりにはアマ二、三段になった。

 小学生名人戦など各地で対局があるたびに付き添ってくれたのも父の正さんだ。41歳でプロ入りした息子の晴れ姿を見届けた後、正さんは亡くなったが、当時の様子を母の恭子さんが教えてくれた。

「娘たちはそっちのけで……と言ったら語弊があるかもしれませんが、主人は健司の将棋に関しては一生懸命で、とことん付き合っていました。 そうやって、あちこち連れて行って他流試合をしたこともあって、強くなっていったんだと思います」

プロを目指し15歳で大阪へ

 初めて奨励会に入ったのは14歳、中学2年生のときだ。奨励会の試験を受けるにはプロ棋士の師匠が必要だが、福山の将棋教室の先生を通じて、小林健二八段(現九段)が引き受けてくれた。

 今泉さんは奨励会の例会(対局)だけでなく将棋連盟の記録係などの仕事も積極的に引き受け、福山から大阪市の関西将棋会館に足しげく通った。一方で中学の欠席日数は3年時には122日にのぼっていた。

「奨励会に入ってからはプロ棋士になると勝手に決めていたので、学校の勉強はほぼせんかったですね。だから、成績はもう、ズタボロ(笑)」

 高校には行かず、大阪のアパートでひとり暮らしをしたいという息子の願いを、両親はあっさり許した。

 まだ15歳の少年だ。よく送り出したと感心すると、母の恭子さんは「のんびりしているんですかねぇ。そこまで心配しなかったんです」とおっとりした口調で返す。

「主人は大学を出ているので、“高校ぐらいは行け”と言うんじゃないかなと思ったんですが、そんなに将棋が好きなら、やってみろと。本音を言いますと、小林先生が近くにいてくださったので、安心感はありました」

 師匠の小林さんの配慮で、今泉さんは毎朝8時に小林さんの家で朝ご飯を食べ、その後、将棋会館に行くことになっていたのだ。ただ、「不安がまったくなかったわけではない」と恭子さんはもらす。

「健司は何にでも興味を持つ子だったので、遊びを覚えちゃうと怖いなーとは思ったんですが……」

 6級から1級までは順調に昇級したが、初段を前に勝てなくなった。

 今泉さんは奨励会の仲間のアパートに入り浸り、麻雀やお金を賭けたトランプ、当時流行っていたファミコンなどに没頭した。

「現実逃避ですよね。将棋に負けると本当にイヤになるので、逃げたんですよ。“何で俺が負けるの? おかしいでしょ”と事実を見ない。他人が自分よりすぐれていることを認めたくない。そこで自分に向き合えない人間は上に行けないんです」

 徹夜で麻雀をして、小林さんの家での朝食にも遅刻が続き、ついに帰郷を命じられる。17歳のときだ。

 福山の実家に戻り、ステーキ店でアルバイトしながら大阪に通った。将棋に専念すると成績も上昇。20歳で三段になり、再び大阪でひとり暮らしを始めた。

 プロ棋士になるための最大の難関が三段リーグだ。30数名の三段が半年間で計18局を戦い、上位2名のみが四段、つまりプロになれる。しかも奨励会には21歳までに初段、26歳までに四段にならなければ退会という年齢制限がある。奨励会に何年いても8割の人は夢破れて去っていく、厳しい戦いだ。

「24歳のときに“アレ? 何かおかしいな”と違和感を感じたんです。もしかして俺はプロ棋士になれないんじゃないか。そう思った瞬間に、成績も一気に下がってきて、その後は、もうボロボロ。負けた後の気持ちの切り替えも、全然できてなかった。プロになった今でもけっこう難しいなと思っているので、当時の自分に切り替えなんて、できるわけないですわ」

 26歳の年齢制限が迫るなか、ずっと教えてきた後輩にも負け、「すべて終わった」と気持ちが折れた。

「消えてしまいたい……」

 14歳から12年間、青春のすべてをささげた奨励会を退会。アパートに戻ると、布団にくるまったまま3日間、動けなかった。

「自殺したら迷惑がかかるから、それは嫌だったんです。奇術みたいに、ポンと消えないかなと思って寝ていたんです。でも、残念ながら身体は溶けてなくならない。何もしないわけにはいかないから、動かなきゃと」

 福山に帰ったが、最終学歴は中卒だ。履歴書を書くのが恥ずかしくて、そのとき初めて、「高校ぐらい行っておけばよかった」と後悔した。

 しかたなく「奨励会三段」と書いた履歴書を手に仕事を探すと、子どものころ『将棋大観』を書き写した近所の書店がアルバイトとして雇ってくれた。

就職後、半年で20キロも痩せた

 その後、大学入学資格検定(現・高等学校卒業程度認定試験)を受けて合格。通信制の短期大学に入学した。

 新しい生活をスタートし、将棋とはもう縁を切ろうと思っていた。

 そんな今泉さんを引き戻したのは、福山で将棋道場を営む竹内茂仁さんだ。講師として将棋を教えてほしいと頼まれたのだ。

「竹内さんに、“今までの経験を生かして前に進んでいきましょう”と言っていただいて、自分の価値を認めてもらえたと思ったんですよ。人って、やっぱり居場所を求めている。自分の価値は何かと求めて生きていると思うんです」

 将棋への意欲が再燃すると真剣勝負がしたくなったが、元奨励会員の有段者は一定期間、アマチュアの大会に出場できない規定がある。

 今泉さんが練習できるよう、竹内さんは当時できたばかりのインターネット道場「将棋倶楽部24」にも参加できるようにしてくれた。

 アマチュアの大会に出始めると、「アマタイトルを独占してやる!」と火がつく。全国アマ将棋レーティング大会で優勝するなど、いくつもの大会で好成績を収めた。

 大会で知り合った元奨励会員の紹介で、28歳のとき大手レストランチェーンに就職が決まり、短大はやめた。

 '02年2月、配属されたのは広島市にあるパスタ専門店の厨房。もちろん、それまで包丁を握ったことはない。

「不器用な僕に、そこでの仕事はツラかったっすね」

 顔をしかめてそう言うと、両手の指を見せてくれた。切り傷の跡がうっすらと何本も残っている。

「“将棋の強いヤツは仕事もできる”と雇ってくれたけど、仕事ができたのは紹介してくれた人だけやから、というオチが待っていた(笑)。当時75キロだった体重が半年で20キロ減りました。ツラい日々が積み重なっていくと、頭の中は後悔ばっかり。“何で俺は奨励会でちゃんとやらなかったんだ”と……

 前出の棋士仲間の菅井さんが今泉さんに初めて会ったのはこのころだ。当時、菅井さんは小学5年生。岡山県に住んでおり、隣県の今泉さんに将棋を教えてもらったり、ご飯を食べに連れて行ってもらったそうだ。

「今泉さんはアマチュアの全国トップで憧れの存在でしたが、口数も少なくて、とにかく厳しくて怖い人でした。すぐカーッとなるタイプで、けっこうイライラしてましたね。海鮮丼を食べに行ったとき、丼にご飯をひと粒残したら、ものすごく怒られて、“ヒエー、コワー”と(笑)」

 '05年7月。今泉さんは3年半勤めたレストランチェーンを突然、辞めてしまう。

 実は、その5か月前のこと。アマチュアの瀬川晶司さんが、日本将棋連盟にプロ編入を求める嘆願書を提出したのだ。瀬川さんは今泉さんと同じく、奨励会を年齢制限で退会していた。その後、サラリーマンとして働きながらアマチュアの大会に出場。一定の成績を挙げると出場できるプロの公式戦で17勝6敗と驚異的な成績を挙げていた。

「俺も、もう1度プロ棋士になれる! と。でも、まだ編入試験の制度ができていない時期に衝動的に辞めたので、ムチャクチャやね。見切り発車にもほどがある(笑)」

 翌年、プロ編入制度の導入が正式に決まる。ひとつはアマチュアの全国大会で優勝し、奨励会三段リーグへの編入試験を受験するもの。もうひとつは瀬川さんのようにプロ公式戦で10勝5敗以上し、プロ棋士との編入試験を受けるというもの。どちらのルートも年齢制限はなく、何度でも挑戦できる。

 今泉さんはネット将棋で腕を磨き、前者の試験を受験。33歳で合格し、三段リーグで4期戦うことを許された。師匠は財テク棋士として有名だった桐谷広人七段が引き受けてくれた。

 1期目で9連勝してトップを快走していたときのこと。

「このままうまくいっていいのかな?」

 なぜか、そんな感情が湧いてきた。

「その後は5連敗して奈落の底にゴロゴロゴロー。将棋を指していて、何より気持ちって大事なんですよね。焦っちゃいけないところで焦ると一気に崩れてしまうので」

 結局、2年後に再び奨励会を退会─。

「たぶん三段リーグを2度やったのは僕だけです。スッキリしました。俺はもう、プロ棋士になる能力はないと完璧に割り切れました。ただ、これからどうするかという絶望感はありましたね。ちょっとだけ職歴はあるけど、35歳、中卒ですから」

介護の仕事で見つけた、すっごい発見

 奨励会の幹事だった人の紹介で、次に向かったのは東京の兜町だ。証券会社で元奨励会員が何人も働いていた。

「あなたには絶対無理!」

 家族には猛反対されたが、押し切った。研修後、トレーダーとして株の売買をしたが、負けてばかり……。

 結局、紹介してくれた人に礼状を書いた3か月後にはわび状を書き、福山に戻った。

「介護の仕事をしてみないか」

 そうすすめたのは父の正さんだ。職業訓練校の介護コースで半年間勉強をしながらお金をもらえるという。貯金もまったくなかった今泉さんは、すぐに応募した。

 ヘルパーの資格を取得し、高齢者向けの小規模多機能ホームに就職が決まった。

 初出勤の日。

「おはようございます!」

 利用者の高齢男性に張り切ってあいさつをすると、いきなり右ストレートが飛んできて殴られた。その男性にとって目障りな場所に、今泉さんが立っていたからだ。

 別の高齢男性は、普段は穏やかでよく笑うのに、トイレに連れて行こうとすると激しく抵抗する。

「行かんもんは行かん!」

「まあ、そうは言ってもなー。ちょっとスッキリしていきましょうよ」

 あれこれ話しかけながら誘導する。実はその男性、戦時中シベリアで独房に入れられていたことがあり、閉所を恐れていたのだ。

「介護の仕事を始めて、目からウロコが5枚くらいポロッポロッと落ちました。介護では相手の気持ちになって考えることが大切なんですね。これは今泉の中で、すっごい発見でした。将棋を指していたときは、自分のことしか考えていなかったから

 仕事を始めて半年後のこと。トイレ嫌いの男性にいつものように声をかけると、男性は今泉さんの手を取って、唐突にこう言った。

「兄ちゃんの手、ぬくいなー」

 翌朝、出勤した今泉さんが起こしに行くと、男性はベッドの中で冷たくなっていた。

「目の前で人が亡くなっているのを見るのは初めてだったので、ものすごいショックでした。めっちゃツラかったです。その後もたくさんの死とめぐりあって、本当に人はいつ死ぬかわからない。だったら、僕は笑顔で生きていきたい。周りの人も笑わせたいと思ったんです。苦しい局面も楽しめるようになってきたら、将棋の成績もすごく上がりだしたんですよね」

あと1勝でプロになれる

 今泉さんは再び、アマチュアの大会に出るようになっていた。'11年夏には全日本アマ名人のタイトルを獲得。アマ王将戦でも優勝した。プロの公式戦に出場する権利を得て、勝利を重ねていった。

 介護士になって2年半後に、系列のほかの施設に異動になった。そこで介護リーダーをしていた藤川紀代子さん(68)は、自ら“応援団長”と称する。今泉さんが将棋の大会に出るため、シフトの変更を申し出ると、快く応じてフォローしてきたそうだ。

「今泉さんは本当にまじめでね、仕事もすごく一生懸命なんですよ。入浴介助や排せつ介助はちょっと雑なところがあったけど(笑)、大きな声で童謡を歌ったり、テンポよくクイズを出してみんなを楽しませたり。レクリエーション関係はもう、満点でした」

 介護の仕事は過酷だ。利用者からののしられたり蹴られたりは日常茶飯事。藤川さんも、あごを亜脱臼したことがあるという。

「それでも、怒ったらあかん、平常心を保たないと仕事ができひんのです。今泉さんも介護の仕事を通してそれを学んだことが、将棋にも役に立ったんじゃないですか」

 '14年7月、今泉さんはプロ公式戦で10勝目を挙げ、編入試験への挑戦権を得た。新鋭プロと5局を戦って3勝すればプロ棋士になれる。

 最初に2連勝し、迎えた第3局目。

「このままうまくいっていいのかな?」

 2度目の三段リーグのときと同じく、ネガティブな思いにとらわれた今泉さん。あっさり負けてしまう─。

 深く後悔して、うなだれる今泉さんに、旧知の新聞記者はこう声をかけてくれた。

「まだ何も終わってませんよ」

 次の対局は翌月だ。介護施設では、出勤してくる今泉さんにどう接すればいいか気をもむスタッフたちを、藤川さんは一喝したそうだ。

「そんなん、普通にしておいたらええんよ」

 第4局を前に、今泉さんは心の中に渦巻く感情をノートに書き出していった。

《自分にはもう何もできないのではないか》

《負けることの恐怖はすごくある》

《能力不足》

 いくつも書き、最後に浮かんだのはひとつの言葉だ。

《勝つしかない》

 そして、4局目に勝利して、プロ入りを決める。

 勝った瞬間、勤務する施設では万歳三唱の声が響き、地元のニュース番組では速報が流れた。

「可能性に蓋をしなければ、年齢なんて関係ない」

 対局後のインタビューで今泉さんが口にした言葉だ。

「41歳の僕が勝てたのは介護士という帰れる場所がもうひとつあったことが、すごく大きかったと思います。たとえ将棋がダメでも俺には帰る場所がある。そういう心のゆとりが、僕をプロ棋士にしてくれたんじゃないかと思います」

 一般的に棋士のピークは“心技体”そろった30歳くらいだといわれる。40代は知力的には下り坂なので重要なのは心。50代は身体が丈夫なことが大事なのだとも。

「未来も過去もあまり興味がない」

 実は、それだけではない。今泉さんが快挙を成し遂げた裏には、大きな力を与えてくれた女性がいる。

 医療系の仕事をしている千里さん(52)。22歳の息子がいるシングルマザーだ。将棋好きな息子の影響で、今泉さんの存在を将棋雑誌で読んで知った。フェイスブックを通じて交流が始まったのは、今泉さんがプロ公式戦で10勝を目指していたころだ。

《やらなかった後悔より やった経験を生かそう》

 千里さんが「筆文字修行」と題してフェイスブックにアップしている言葉が、今泉さんの心に刺さった。ネット上でのやりとりを続け、プロ編入試験の前に今泉さんから交際を申し込んだ。

 第3局に負けた後、ノートに思いを書くようアドバイスしたのも千里さんだ。

 第4局の前日。ナーバスになる今泉さんに、楽しかったことを思い出してもらおうと、こう聞いた。

「お父さんに初めて勝ったとき、どんなんやったん?」

 たちまち記憶が蘇ったのか、今泉さんはうれしそうに話し始めたそうだ。

「最後に、俺、大丈夫やわ、明日勝てるわと言わはったんですよ。フフフ」

 穏やかにほほ笑む千里さんのことを、今泉さんは「僕の女神です」と照れもせずに言い切る。

 現在、今泉さんは対局をするほか、将棋教室を開いたり、講演をしたりして、全国を飛び回っている。

 菅井さんに聞くと、今泉さんは人前で話をするのもお手のものだという。

「4、5人の棋士でトークショーをすると、実績は今泉さんがいちばん下だけど、マイクを離さないですから(笑)。介護の仕事を始めて半年くらいたったころから、おおらかになったなと感じました。全然怒らなくなったし、よくしゃべるし、人ってこんなに変わるんだと(笑)。今はほかの人には言えない悩み事の相談や将棋以外の話も、今泉さんとはよくします」

 将棋教室では、あいさつや「ありがとう」「ごめんなさい」をきちんと言うなど、礼儀作法をまず教える。初心者に将棋のルールを説明するときは「歩は10円、金は100円、飛車と角は500円」など、わかりやすくたとえる。

 今後やりたいことは? と聞くと「未来も過去もあまり興味がない」と素っ気ない。

「今泉は今を生きています。僕の生涯のモットーは“将棋を通じてみなさまの笑顔のもとになること”。目の前の人に、こんな人がおるんや、おもろいなーと思っていただけたら、何より幸せです」

 今泉さんがプロに再挑戦するキッカケを作った瀬川さんは'05年にプロ編入試験に合格して今も活躍している。その半生は'18年に『泣き虫しょったんの奇跡』として映画化された。瀬川さんを演じたのは俳優の松田龍平だ。

「今泉さんの人生も負けないくらい面白いのでは?」

 そう水を向けると、まんざらでもない顔だ。

「誰かに言われたのですが、僕の役を演じられるのは俳優の竹中直人さんしかいないと(笑)。映画化してもらえるのなら、主題歌はぜひ、高橋優さんの『プライド』でお願いしたいです!」

 そんな妄想をするのが楽しいと目を輝かせた。


取材・文/萩原絹代(はぎわらきぬよ)大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。'95年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。

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