近代日本に誕生した南大東島の独立国秘話(前)【ニッポン隠れ里奇譚】

TABLO / 2014年7月24日 19時0分

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▲開拓時代の南大東島・在所地区

 明治以降の近現代の日本国にあって、個人が支配した、さながら"王国"のような領域が実在していたのをご存知だろうか。その王国では、日本でありながら日本の通貨は流通せず、"円"とは異なる全く独自の通貨の発行が許されていた。

 通貨だけではない。そこでは、病院、学校、工場、農場、鉄道、そしてあろうことか全ての土地までも"個人"が所有し、治安の維持も請け負っていた。その島へ出入りするときは、その個人の会社の許可証が必要だった。その男は島を事実上支配していたのだ。

 人々は畏敬の念をこめて、その島をこう呼んだ。"玉置王国"と。

 今回、紹介する南大東島の在所という地区は、玉置半右衛門という一代の奸雄が、南北大東島を支配していた、その本拠が置かれていた集落である。

 隆起珊瑚礁の特異な地形を有する南北の大東島は、太平洋に浮かぶ絶海の孤島であり、最も近い有人島である西方の沖縄本島からは360キロ、東の小笠原諸島からは1000キロの距離の大洋に隔てられていた。

 島は巨大な鍾乳洞の上に、薄い地表が"蓋"のようにのっかった地形をしており、地表の所々には、ドリーネと称される巨大な縦の空洞が穿たれており、大陥没を起こしていた。そして、いたるところに広大な鍾乳洞への入り口がポッカリ口を開けていた。

 島の中央にはそんな巨大な陥没地帯に水が溜まった、たくさんの大きな溜め池が散在していた。そんな池の端に、南大東島最古の"在所"の集落が存在していた。

 南北大東島は、長らく無人島として放置されていた。

 明治維新以後、そんな南洋の絶海の孤島が、にわかに注目され始めた。イギリス、アメリカ、ロシア、フランス、スペイン、オランダ、オーストラリア、さらに新興のドイツなど欧米の帝国主義政策をとる列強たちによる、太平洋の島々の争奪戦が始まったのである。

 明治維新を成し遂げて、ようやく近代化の道を歩み始めた日本も、いやおうなく南洋を巡る植民地獲得競争に巻き込まれ、参加することとなった。とにかく周辺に領土を広げておかないと、日本本土がいずれは危うくなり、列強の植民地と化してしまうのではないか、と恐れたのだ。また、近代化のために南方に植民地を築き、その富を自国の開発に活用しようという欲求も胸に秘めていたのは、言うまでもない。

 帝国主義の時代だったのだ。

 そんな明治新政府は、矢継ぎ早に小笠原諸島の領有宣言(明治9<1876>年)、琉球王国を併合(琉球処分。完了は明治12<1879>年)と南進の動きを加速し、明治18(1885)年に南北大東島の領有を宣言する。これらの諸島域の確保は、その後のさらに南に位置するマリアナ諸島やマーシャル諸島などへの進出に欠かせない橋頭堡だった。

 当時の南洋をめぐる競争は熾烈で、島に人が住んでいようがいまいが、そんなことはどうでもよかった。列強が領有宣言をしていない島は、有人だろうが、無人だろうが、先に唾をつけた強国が恣意的に自国領と定め、支配することができた。

 大東島はもともと無人島だったので、植民地とするには好都合な島だった。そして、領有宣言したからには、そこに日本国民が植民しなければならない。このため、あまりにも不便で過酷な環境にある大東島開発をはかる者に対しては、政府は格別の配慮をすることとなった。

 大東島開発に真っ先に名乗りをあげた男こそ、八丈島出身の玉置半右衛門である。

 玉置半右衛門をリーダーとする主に八丈島出身者で構成された開拓者一行は、明治33(1900)年に南大東島の西港に上陸した。翌年には、玉置によって移住者34人に土地の割当てが行われた。その際、最初に上陸した、玉置の側近でもある草分けの8人が優遇されたのは、言うまでもない。

 明治35年からは開墾と並行して、サトウキビの栽培も本格的に開始された。製糖設備も整えられた。沖縄からも移民が南大東島に入ってきて、明治38(1905)年には南大東島の人口は93戸、422名になった。その後、どんどん増え、二千人、三千人の人口を擁するようになっていく。

 明治38年から島の玉置支配が本格化していく。"玉置紙幣"と称される島でしか使えない物品引換券の発行が始まったのだ。

 この引換券は、正式には「南北大東島通用引換券」と称する。玉置半右衛門の会社である玉置商会が独自に発行したものだ。引換券の種類としては、一銭、一〇銭、五〇銭、一円、五円、一〇円等の額面があり、南北大東島での商会の売店で日用雑貨品を購入したり、農家が労働者に賃金を支給する時に用いられたり、玉置商会から労賃を受け取るときも、総じてこの物品引換券で決済されていた。島の中では立派な通貨として通り、実際、島で暮らす子供たちは、この物品引換券を本物の通貨と信じていたという。ちなみに島には、玉置商会以外が経営する店は存在しなかった。

 物品引換券の大きさは縦10.5センチ、横8.5センチの大きさで、金額が中央に記載され、その上に玉置の頭文字である"T"の字が大きく記されていた。

 明治42年の「琉球新報」には「南大東島では貨幣の代用として兌換券があり、一部または全部を通貨と交換するには、その種類の金額を事務所(玉置商会)に差し出せば、その証券と引き換えに本店から現金を受け取ることとなる」と記されている。つまり、島の中では物品引換券しか使用できず、それを通貨(日本円)に両替するには、玉置商会の事務所を通して手続きをしなくてはいけなかった。玉置商会を通さず、勝手に通貨を島に持ち込んだり、持ち出したりすることはできない、というもので、このあたりはさながらちょっとした独立国の通貨システムだった。

 税金面はどうだろう。玉置時代の南北大東島は、砂糖消費税だけを明治政府に納めれば、あとは租税は課されなかった。いわばほぼ無税の島で、病院や学校、鉄道などの公共施設の運営は、すべて玉置商会が運営していた。また、外から南北大東島に上陸する際は、玉置商会が発行した許可証がなければ入域できなかった。いわば、玉置商会はビザ(在留資格)を発行していたようなもので、この点もあたかも独立国の所業だった。

 しかし、この物品引換券。玉置商会が健在ならば、価値があるが、玉置商会がひとたび破綻してしまえば、一夜でただの紙切れと化してしまう。所詮は通貨ではないわけで、国家権力がその価値を保証するはずもない。

 そして、実際、大正4(1915)年頃に玉置商会の経営は急速に傾き始め、大正5年には、玉置商会は事実上の破綻をきたしてしまう。

 その時、島民の運命はいったいどうなったのだろうか。(※後編に続く)

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▲玉置商会の発行した物品引換券

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▲南大東島の海岸。断崖や岩場が連なるばかりだ

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▲在所の中心地にある唯一の歓楽街

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▲開拓者の玉置をたたえる碑文。在所の入り口にある

Written Photo by 石川清

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