近代日本に誕生した南大東島の独立国秘話(後)【ニッポン隠れ里奇譚】

東京ブレイキングニュース / 2014年7月25日 18時30分

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▲玉置半右衛門が実験農場を築いたといわれる跡地

 玉置商会破綻の理由は諸説あるが、大きなポイントは二つある。

 一つは、玉置半右衛門が明治43(1910)年に死亡したことである。半右衛門は東京へ向かう途中、病に倒れて船中で亡くなった。73歳だった。

 二つめの理由は、半右衛門の後継者である息子たちの相続争いや、経済観念のなさであった。

 半右衛門には三人の息子がいた。いずれも慶応義塾を卒業し、アメリカ留学をしていた。エリートだった。当時、アメリカ留学をするには、莫大な資金が必要だった。それこそ、一般庶民の十年分の収入を、一ヶ月で消費してしまうほどだった。だが、南北大東島の"王様"である半右衛門にとっては、雑作のない手頃な金額だった。

 しかし、三人とも経営の才能はなかった。半右衛門の死後、その跡を継いだ長男には、経営の才覚はなかった。酒池肉林とまではいかないが、酒色で放蕩三昧にふけって、あっというまに商会の屋台骨を傾けた。次男、三男は財産の分割を激しく要求して、足を引っ張るだけだった。

 半右衛門の息子たちについては、こんな逸話が残されている。

「赤坂で芸者を揚げると、百円紙幣を重ねて、芸者たちにばらまいた」(この頃の1円は、現在の3800円くらい。百円紙幣1枚は38万円ほど)

「停電したら、百円紙幣をローソク代わりにしていた」(長男か次男)

「三男の中学生時代、高価な写真機を持ち、頭髪はコスメチック(整髪料)をつけ、きれいに分けていた。体操の授業のときは、ワイシャツにネクタイをつけていた。中学生なのに、猟銃を持って発砲し、卒業後すぐに自家用車を乗り回していた」

 最後の三男にかかわる逸話などは、まるで「巨人の星」に出てくる花形満ではないか。本当にああいう光景は存在していたのである。

 玉置商会の破綻は、あっというまの出来事だった。

 玉置商会の破綻で、南大東島で働く人たちに激震が走った。ほおっておけば、物品引換券は紙切れとなり、会社に預けていた貯金は消失してしまうからだ。

 ここで南北大東島で生産されていた砂糖の販売を一手に引き受けていた、大手商社の鈴木商店(昭和恐慌で倒産)が登場する。鈴木商店の斡旋で、南北大東島で玉置商会が展開していた製糖事業の権利は全て、東洋製糖会社に合併、引き継がれることとなった。東洋製糖とは、植民地の台湾で製糖業を行っていた会社である。

 その結果、玉置半右衛門が構築した物品引換券のシステムや、全部の島の土地の占有、病院や学校の運営などは、ほぼそのまま東洋製糖という一企業が引き継ぐこととなった。玉置商会の下で働いていた移住者たちは、ほとんど権利を得られなかった。

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