気象庁に隠蔽された御嶽山「噴火の異変」

TABLO / 2014年11月13日 16時0分

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 57人が命を落とし、戦後最悪の火山災害となった御嶽山の噴火。気象庁は全国の火山について5段階の「噴火警戒レベル」を発表しているが、御嶽山は噴火まで「平常」を意味する「レベル1」だった。9月27日の噴火直後、火山課長は記者会見で「予知できなかった」と認めている。

  しかし、気象庁は異変を察知していた。噴火16日前の9月11日には、前日に火山性地震が51回発生したとして、「火山活動の推移に注意してください」とサイトに掲載し、自治体に電話などで伝えていた。それでもなお噴火警戒レベルは「1」に据え置かれたため、登山客は異変に気づかず命を落としたのだ。

 気象庁や観測機関が異変の公表をためらうケースは初めてではない。御嶽山の噴火まで戦後最悪の火山災害だった長崎県の雲仙普賢岳だ。

 1990年7月、普賢岳の近くで群発地震が900回以上観測され、その後も続いた。ようやく11月17日になり、有明海を挟んで対岸の『熊本日日新聞』が「〝島原大変〟以来200年ぶり、『雲仙』噴火活動か 1年続く群発地震」と題した記事を載せ、異変が広く知られたのだが、同日明け方には噴火が始まっていたのだ。

 記事は、地震を観測した九州大学島原地震火山観測所のデータや、太田一也所長(当時、現・九大名誉教授)の「これからどうなるのか、今の時点では何とも言えない」という見通しを伝えている。

 実は、太田氏が『熊本日日新聞』の記者に記事化するよう頼んだのだという。『1998年岩手山噴火危機対応の記録』(岩手県総務部総合防災室ら編)に寄せた手記によると、噴火の直前、気象庁は観測態勢を強化し、九大の観測所では「マグマらしきものの上昇を把握していた」。

 しかし、「パニック発生を恐れた気象庁の要望」があったため公表できなかった。結局、苛立ちを募らせた太田氏は噴火の危険性を記者に訴えたものの、噴火に間に合わなかった。「早い時期に正確な情報を公表すべきだったと、後悔しています」と『毎日新聞』の取材に語っている(1996年11月14日朝刊)。

 普賢岳で43人が犠牲になった大規模火砕流が発生したのは、翌年6月3日だ。気象庁の火山対策官はその9日前の5月25日、記者会見で「突拍子もない事は起きないと思う」「火砕流というと大きくとらえられそうだが、オーバーにとらないで欲しい」と、結果的に誤った見通しを口にしていた。

 伊豆大島の全島避難に至った1986年11月の三原山大噴火でも、酷似する状況があった。1986年7月に12年ぶりに火山性微動が観測されたため、気象庁などは観測態勢を強化することになった。しかし、火山噴火予知連は10月30日、「大規模な噴火が切迫している兆候は認められない」、小噴火が始まった11月15日には「大噴火にはいたらない」と発表している。

  原山を10年来観測してきた琉球大学理学部の木村政昭助教授(当時、現・名誉教授)は翌日、現地入り。1987年に出版した『日本列島が危ない』(二見書房)によれば、火口の状況から「これは大噴火、多分に巨大噴火につながる」と確信し、17日午後5時、気象庁大島測候所に報告した。

 一方、予知連は「大噴火にはいたらない」「溶岩が火口の縁に達するとしても、それは数カ月後であろう」という立場を変えなかったという。木村氏はテレビを通じて公表することに決め、同日午後10時の民放ニュース番組で「数日以内に、溶岩は火口の縁に達するだろう」と発言した。予知連が木村氏と同様の見通しに変更したのは18日午後2時だった。約14時間後、溶岩が火口からあふれ出し、2日後には市街地に接近したため全島民が島外避難に追い込まれた。

 東日本大震災による原発事故では、政府はSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測システム)のデータを隠蔽したと批判された。役人は重大な災害が起きる可能性が高まったと判断できても、パニックや〝空振り〟を恐れて公表をためらう傾向がある。いざというとき、重大な災害情報は隠蔽されると考えるべきだ。

Written by 谷道健太

Photo by 緊急報道写真集 2014.9.27 御嶽山噴火

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