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宇宙刑事ギャバンが乗っていそうなランボルギーニ「アトン」って、どんなクルマ?

くるまのニュース / 2020年5月13日 12時5分

ベルトーネの事実上の倒産によって、2011年のオークションで4400万円で落札されたランボルギーニ「アトン」。現在はレストアされ、スイスのコレクターによって所有されているアトンは、どんな思いでベルトーネが生み出したのか、当時のエピソードから読み解いてみよう。

■ベルトーネが提案した、ランボルギーニの未来のV8ミドシップカー

 1980年秋のトリノ・ショーにてカロッツェリア・ベルトーネが公開したコンセプトカー、ランボルギーニ「アトン」。

 その名にあるアトンとは、古代エジプト18王朝において「アマルナ革命」と呼ばれる宗教改革を起こそうとしたイクナートン(アクエンアテン)こと、アメンホテプ4世が信仰した太陽神「アトン(近年では ”アテン” 表記が多くなった)」の名に因んだものである。

 アマルナ革命の唯一神である「アトン」の名を与えたのは、このコンセプトカーの開発を主導したベルトーネのアイデアと見て間違いないだろう。

 しかし政治面のみならず宗教面でも最高指導者となったイクナートン自身の急死によって歴史の闇に消えた「アトン」を敢えて冠することには、ベルトーネがランボルギーニに、アマルナ革命のごときまさにドラスティックな変化を求めていたからと推測される。

 ランボルギーニの開祖、フェルッチオが自身の興したスーパーカー専業メーカーの経営から退き、スイス人投資家ジョルジュ-アンリ・ロセッティが率いていた1970年代後半のランボルギーニは、4WDオフローダー「チータ」を北米あるいはNATO加盟各国に正式採用してもらうプロジェクトに失敗。

 独BMW社との合弁事業である「M1」プロジェクトからも見放され、経営破綻を目前としていた。

 一方、同時代のランボルギーニ唯一の生産モデルとなっていたカウンタックのボディの創造主たるベルトーネの社主、ヌッチオ・ベルトーネは男気と人望で知られた人物。しかも彼には、ランボルギーニに襲い掛かった惨状をなんとか打破せねばならないという、ビジネス上の事情もあったようだ。

 この時代のベルトーネは、母国イタリアのフィアットをはじめ、世界中の自動車メーカーのデザインワークを受託。その人気を支えていたのが、ランボルギーニとのパートナーシップがもたらすアバンギャルドなイメージだった。

「フェラーリ=ピニンファリーナ」と同じくらいに影響力のある「ランボルギーニ=ベルトーネ」という図式は護りたかった。それだけに、ベルトーネにはアトンというコンセプトカーをもって、ランボルギーニの健在ぶりを世に示そうとした……というのが、アトン製作に至らしめた経緯の定説となっているのである。

 ランボルギーニ・アトンのデビューに先立つこと6年、1974年に同じくベルトーネがトリノ・ショーにて発表したコンセプトランボルギーニ「ブラーヴォ」と同様、アトンでもベース車両に選択されたのはV8を横置きミドシップするランボルギーニ「ウラッコ」系だ。アトン製作時代ということで、「P300シルエット」が直近のベースモデルとされている。

 トリノ・ショーでの発表に際して公表されたスペックでは「エンジン:V型8気筒3000cc/260ps」「トランスミッション:5速マニュアル」のメカニズムを搭載している旨が示されていたが、これはつまりスタンダードの「ウラッコP300」および「シルエット」のものとまったく同じだった。

 また、ブラーヴォでは2250mmまで大幅に短縮されていたというホイールベースは、アトンでは2450mmというウラッコ/シルエットから不変の数値とされた。これはウラッコ系のモノコック用フロアパンが、そのまま流用されたことを示している。

 しかしアトンを何よりも特徴づけているのは、近未来的なバルケッタスタイルの2シーターボディであろう。デザインワークを担当したスタイリストは、このアトンがベルトーネにおける第一作となったフランス人スタイリストのマルク・デシャン。彼が翌年に手掛けた「マツダMX01」や、1982年の「アルファロメオ・デルフィーノ」、1984年の「シボレー・コルベット・ラマッロ」、あるいは生産化に至ったモデルとしては「シトロエンXM」などのエッジィなデザインにも、独特の共通項が感じられる。

■必見! 1980年代最新テクノロジーが惜しみなく投入されたアトンのインテリア

 アトンでもうひとつ注目すべきは、いかにもコンセプトカーらしいインテリアのデザインだ。

 ステアリングは直進時に横一文字で静止するダッシュパネルと一体化するようなデザインの一本スポーク型とされたほか、計器盤にはヴェリアとともに開発したというデジタルメーターが組み込まれていた。

メーターは当時最先端だったデジタル仕様で、オンボードコンピューターの装着も想定。ステアリングのセンターパッドはダッシュボードと一体化され、その左横にキーシリンダーやウインカー、ワイパー、ヘッドライト、ホーンなどを集めたサテライトスイッチが備わるメーターは当時最先端だったデジタル仕様で、オンボードコンピューターの装着も想定。ステアリングのセンターパッドはダッシュボードと一体化され、その左横にキーシリンダーやウインカー、ワイパー、ヘッドライト、ホーンなどを集めたサテライトスイッチが備わる

 もちろんシリーズ生産を意識したものではなかったため、アトンでは同時代のベルトーネが考え得る限りの先進的なアイデアの集合体となっていたのだが、ディッシュスタイルのアロイホイールの意匠のみは、その後のランボルギーニの市販モデル「ジャルパ」に生かされることになった。

 もとよりベルトーネ主導のプロジェクトであったためであろうか、ランボルギーニ・アトンは1980年トリノ・ショーでのお披露目ののちもランボルギーニ側に引き渡されることもなく、ヌッチオ・ベルトーネのコレクションに残留することになったと見られている。

 そしてその後は、長らく表舞台に姿を現すこともなかったのだが、ショーデビューから31年後となる2011年、いささか悲しいニュースとともに、再びその存在がクローズアップされることになった。

 この年の「コンコルソ・デレガンツァ・ヴィラ・デステ」に際して、2011年5月24日に行われたRMオークションでは、かねてから破産宣告を受けていたベルトーネ社所有のコンセプトカー・コレクションが一気に競売に懸けられたのだが、そのリストにランボルギーニ・アトンが含まれていたのだ。

 この時のオークションでは、1967年製作・発表のランボルギーニ「マルツァル」が151万2000ユーロ、当時の日本円換算にして約1億7000万円で落札されたほか、1978年のランチア「シビーロ」は9万5200ユーロ(約1100万円)、前述のランボルギーニ・ブラーヴォは58万8000ユーロ(約6800万円)、そして1967年のランチア「ストラトス・ゼロ」が76万1600ユーロ(約8800万円)で落札されたなか、ランボルギーニ・アトンは34万7200ユーロ(約4400万円)で落札されるに至ったのだった。

 この時点での落札者名は未公表とされ、アトンは再び表舞台から姿を消したかに見えた。ところが、その5年後となる2016年5月28から29日に開催されたコンコルソ・ヴィラ・デステにおいて、今度は「クラスH:Drive by Excess-From Glam Rock to New Wave」カテゴリーに、正式なエントリー車両として姿を現すことになったのだ。

 ヴィラ・デステにおけるエントラント名義は、近現代のコンセプトカーを数多く所有することで知られるスイスのコレクター、アルベルト・スピース氏となっていた。同氏はランボルギーニ「ミウラ・ロードスター」も所有し、2014年にはカロッツェリア・ザガートにランボルギーニ「5-95ザガート」をワンオフ製作させたことでも知られる超大物人物である。

 いまやランボルギーニがアウディ傘下で栄華を極める一方で、かつて隆盛を誇ったベルトーネは歴史の幕を閉じてしまった。そんな時代だからこそ、両社の絆の証ともいうべきアトンが再び安住の地を得たことには、わずかばかりながら慰めのような感情を覚えてしまうのである。

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