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元祖スーパーカー、ランボルギーニ「ミウラ」誕生のヒミツ【THE CAR】

くるまのニュース / 2020年6月20日 19時10分

元祖スーパーカーであるランボルギーニ「ミウラ」は、いかにして誕生したのか、そして開発メンバーは当時のことをどのように思っているのか。自動車ライター西川淳氏が、開発者であるジャンパオロ・ダラーラなどへのインタビューなどから紐解く。

■裸のミウラが、世界中のミリオネラの心をつかんだ

 今さらランボルギーニ「ミウラ」のことを書くのは、はっきりいって、とても難しい。できれば、マニアの皆さんお好きな解説を自分で入れこんでください、といいたいくらい。スペース空けておきますので……。

 冗談ではない。本気だ。それほど、ミウラに関しては語り尽くされてきた。何を書いても、それは繰り返しになってしまう。

 試乗をして書いたとしても、間違った発見こそあれ、埋もれた真実を引きずり出すことは難しいだろう。

「ミウラP400」である。ミウラの初期モデル。クラシックカーにおいて、最初期モデル人気の法則は、このミウラに限って当てはまらない。

 いま、世界中で人気を博し、高額な相場で取引されているのは、最終型の「P400SV」だ。

 それは、単にカタチだけの問題だろうか。P400やP400SをSV仕様にモディファイするケースは、今も昔も多いから、SVスタイリングへの憧れは、当のミウラオーナーにとっても計り知れないものがあるだろう。

 単なるスキンチェンジでは済まず、サスペンション構造にまで手を入れなければならないという大手術=驚くようなコストをかける価値が、SVスタイルにはあるということなのだが、本当にそれだけの理由で人気なのだろうか。

 SV人気の裏にボクは、ミウラが成立し市販された1960年代後半にランボルギーニを取り巻いていた、どこか重苦しい空気を感じずにはいられない。

 ミウラとは、いったい何だったのか。

 ミウラとは、いわゆるスーパーカーの元祖である。たとえ、設計者であったレース狂のジャンパオロ・ダラーラの想いが他にあったにせよ、純粋にロードカーであることを目指して造られたマルチシリンダーエンジン・ミドシップレイアウトの2シーターベルリネッタという形式は、その後のスーパーカースタイルを決定づけた。

 1965年。鮮烈のハダカ、披露。12気筒エンジンを横置きしたミドシップレイアウトのベアシャシは、ジャンパオロ28歳の野心が生み出した佳作であったことは間違いない。

 一見レーシーに見えたし、ランボルギーニがル・マン24時間レースなど当時の最重要マーケティングをお人好しにも無視して高級スポーツカービジネスを推し進めるとは誰も思わなかったので、たちまちそれはセンセーショナルな話題を振りまくこととなった。

 とはいえ、フェラーリよりも速く走り、フェラーリより豪華で、フェラーリより快適な高級グランツーリズモメーカーを目指すランボルギーニにとって、ジャンパオロの提案は激し過ぎた。

 いまでいうスペチアーレモデルの限定生産くらいは念頭にあっただろうが、決してシリーズ化を想定したわけではなかったはずだ。世間を驚かせてくれれば十分、そのベアシャシは役割をまっとうできた。

 それほど、ランボルギーニはこの世界において赤子であったのだ。(無名の会社が設立され僅か2年後の話であったことを思い出して欲しい。)

 しかし、その実それは、フェルッチオはおろか、設計した当のジャンパオロの想像をも超えて、世界中のミリオネアの心を動かしていたのである。

■生まれながらにしてタイムレスなデザインだったミウラ

 気を良くしたフェルッチオは、このクルマの市販化を急がせた。スタイリングはベルトーネに任されたが、チーフデザイナーの席に座っていたのは、弱冠27歳のマルチェロ・ガンディーニで、ジョルジェット・ジウジアーロの後任としてその席に座ったばかりであった。

レーシングマシンの構成をとりつつも、高性能かつ豪華なGTを目指して造られたミウラレーシングマシンの構成をとりつつも、高性能かつ豪華なGTを目指して造られたミウラ

 いかに天才マルチェロであっても、(後の)巨匠が描いた一連のベルトーネ・デザインをすぐさま変更するわけにはいかない。

 彼はベルトーネテイストを充分理解し、それを取り込みつつ、50、60年代の美しきイタリアンベルリネッタスタイルを、最新のミドシップレーサーに融合させるエクステリアデザインを描ききった。

 それが、ミウラである。

 真横から見ると、それはとうてい、ミドシップカーには思えない。どう見ても、FRクーペである。ただし、恐ろしく低いボンネットが、エンジンの存在をアピールしない。それこそが、今となってはミウラの美の源だ。

 しかし、ミウラのデザインには新鮮みがない、とマルチェロ自身は語っていた。カウンタックに代表されるその後のガンディーニデザインと、ミウラの雰囲気がまるで違うことの理由がそれで分かる。

 最初の仕事を、彼はある意味、そつなくこなしたのだった。

 その結果、生まれながらにしてタイムレスとなったベルリネッタデザインのミウラは、カウンタックのデビュー時こそ〈古くさい〉と見放されたように思えたが、次第に歴史の名作として、その価値を高めていくことになる。

 そして、ミウラのいた時代の歴史こそ、ピュアランボルギーニ史であり、そこにボクは重苦しさを感じるのだ。

 ミウラの誕生は、結果的にランボルギーニをいまあるスーパーカーブランドの方向へと導いたが、同時に、フェルッチオの自動車ビジネス熱を徐々に冷ましてしまうことになる。

 それは、あまりにも挑戦的で急ぎすぎたミウラというクルマに、生産技術も、顧客の心構えも、まるでキャッチアップできなかったからだと思う。

 ジャンパオロは、ミウラを人生でもっともすばらしいロードカー設計だったと述懐したが、いみじくもこういった。あんなことは2度とできない、許されない、と。

 様々な想いが詰まっている言葉であろう。要するに、彼が理想としたことと、現実になったことのギャップが、今の世界では許されないくらいのレベルで、ミウラには存在していたということではないか。

 つまり、ミウラの美しさは、未完成であることの脆さや儚さの上に成り立っている、と。そして、そのことを改めようとする歴史が、S、SVへの進化を促し、J(イオタ)なる伝説を生み出すことにもつながった。

 そのプロセスにおいて、フェルッチオは確実にカービジネスへの情熱を失っていったはずだ。

 彼はただ熱狂的なカーマニアではない。同時に冷静なビジネスマンでもあったはずだ。なぜなら、それは(たとえばトラクタービジネスと比べて)あまりにも手離れが悪く、手間がかかり、儲からなかった。

 純ランボルギーニ時代のすべてが、ミウラ3世代のあいだで閉じているのだ。だから、ミウラの歴史は重苦しい。カウンタックは、次のランボルギーニ時代の主役でしかなかった。

 ミウラは、猛牛の光と影である。

* * *

●LAMBORGHINI MIURA P400
ランボルギーニ・ミウラP400

・生産年:1966−1972年
・年式:1968年
・総排気量:3929cc
・トランスミッション:5速MT
・最高速度:280km/h
・全長×全幅×全高:4360×1780×1080mm
・エンジン:V型12気筒DOHC
・最高出力:350ps/7000rpm
・最大トルク:37.5kgm/5100rpm

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