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車名は「ミウラ」でオッケー! 牧場から命名したってホント?

くるまのニュース / 2020年8月9日 8時10分

ランボルギーニ「ミウラ」が誕生して50年という節目の年であった2016年、モータージャーナリスト山崎元裕氏が、ミウラの名前の由来になったミウラ牧場を訪ねたときの模様を改めてレポートしよう。

■本当は、フェルッチオから歓迎されていなかった「ミウラ」

 2016年は、ランボルギーニがトリノ・ショーで「ミウラ」のファーストモデルとなる「P400ミウラ」を発表して、50周年という記念すべき年だった。現在にまで続くランボルギーニの12気筒ミドシップの歴史がこのミウラによって始まったことは、スーパースポーツのファンには良く知られるところである。もちろんランボルギーニ自身にとっても、ミウラは何よりも偉大な遺産といえるモデルであるから、その50周年を盛大に祝するのはきわめて自然な成りゆきであった。

●「ミウラ」誕生50周年の祝うオーラスイベント

 このミウラにとっての重要なアニバーサリー・イヤー、そして創業者であるフェルッチオ・ランボルギーニの生誕100周年が偶然にも重なった2016年に、世界各国から招かれたメディアのためにあるイベントが開催された。

 インビテーションに記されていたタイトルは、「バック・トゥ・ザ・ネーム」。すなわちミウラというネーミングの由来であるスペインの闘牛界におけるビッグネームであるミウラ牧場を、ランボルギーニのオフィシャルミュージアムが所有する「P400ミウラSV」とともに訪ねようというのが、このプログラムのメインイベントだ。

 そのような魅力的な誘いを断る理由などどこにもない。筆者は2016年の初夏には、やはり50周年の関連イベントとしてミウラが登場した1969年公開の映画「ザ・イタリアン・ジョブ」のロケ地であるイタリアのグラン・サン・ベルナール峠を、一般車の通行を完全に遮断したうえで、2台のミウラ(この時は、SVに加えてもう一台、「P400ミウラS」も用意された)で走る、「ザ・イタリアン・ジョブ・リローデッド」というタイトルを掲げたイベントにも参加し、改めてミウラの走りを現代の路上で体験するという幸運に恵まれた。

 誕生から50年という時間を経てもなおスーパースポーツとしてのパフォーマンスと、そして何より不変の美しさを持ち合わせるミウラは、スーパースポーツの世界における永遠の象徴ともいえるモデルだと、この時に確信したのだった。

 だからこそ、そのネーミングの由来となった場所に再びミウラのステアリングを握って訪れるというチャンスだけは、絶対に逃したくはなかった。

 イベントのスタートはスペインの首都であるマドリッド。まずはここから足慣らしを兼ねて、最新世代のランボルギーニ製スーパースポーツを連ねてセビリア近郊の街、パラドール・デ・カルモナを目指す。走行距離はトータルで600kmほどだったが、ミウラの誕生から半世紀が経つなかでランボルギーニも長距離のドライブを快適にこなすことが可能になった。

 思えばフェルッチオは、自らの名を掲げた自動車メーカーで高性能であると同時に快適なGT=グラン・ツーリスモを生み出すことを夢としていた。ファーストモデルとなった「350GT」や、そのマイナーチェンジ版ともいえる「400GT2+2」は、いわばこのフェルッチオの夢を忠実に具現化したモデルだ。

 したがってフェルッチオは、当初V型12気筒エンジンを横置きミッドシップにするなどというレーシングカーのようなモデルをランボルギーニから発売することには、少なからずの抵抗感を抱いていたのだという。

 1965年のトリノ・ショーで最初にV型12気筒エンジンとベアシャシのみを組み合わせた「TP400」が発表され、それに独自のボディを組み合わせたいというカロッツェリアが続々と名乗りをあげてもなお、フェルッチオはそれがビジネスとして成功するとは考えてはいなかった。

 最終的に、マルチェロ・ガンディーニをチーフ・スタイリストに迎えたばかりのベルトーネによって、「P400ミウラ」として完成することになるのだが、そのプロトタイプを見たフェルッチオは、それは限定車として販売するべきだという意見を唱えつづけたのだった。

■フェルッチオがこだわった「ミウラ」という名前の由来は?

 そのような新型車誕生のプロセスのなかで、フェルッチオが強いこだわりを見せたのが、ミウラというネーミングだった。

 自身が牡牛座の生まれであることから、エンブレムにファイティング・ブルを描くことを決めたフェルッチオは、このV型12気筒ミドシップという当時はまだフェラーリさえチャレンジしていなかったスーパースポーツに、闘牛の名前を掲げることを強く望んだ。そしてイタリアのサンタアガタ・ボロネーゼから、遠く離れたスペインのローラ・デル・リオの地にあるミウラ牧場へと赴いたのだ。

●ミウラ牧場は、勇敢な闘牛の産出地だった!

実に1842年にまでさかのぼるミウラ牧場の歴史。ランボルギーニのV12フラッグシップ、ムルシエラゴもこのミウラ牧場の闘牛だった実に1842年にまでさかのぼるミウラ牧場の歴史。ランボルギーニのV12フラッグシップ、ムルシエラゴもこのミウラ牧場の闘牛だった

 パラドール・デ・カルモナの古城ホテルで一泊した後に、我々は早朝からこのローラ・デル・リオを目指したドライブを始めた。

 ミウラ牧場の周辺では待ち望んだP400ミウラSVでのドライブセッションも用意されており、前回から変わらぬ、いや聞くところによればランボルギーニのクラシック部門であるポロ・ストリコによってメンテナンスされ、さらにコンディションを良化させたというSVの走りを十分に楽しむことができた。

 巨大なV型12気筒エンジンが横置きされ、コーナリング時にはそれが多少の不安というものを呼び起こすが、ドライブを続けるなかで徐々にマシンとの一体感が生まれてくる様子は前回のイベントで得た感覚と変わることはなかった。

 ミウラ牧場への入り口は、突然ロードサイドに現れた。そこにあったのは、かつてミウラのカタログや、ランボルギーニのオフィシャルフォトで見た「ミウラ=MIURA」の名が掲げられる木製のゲート。そしてそのゲートの前にSVをパークした時、「バック・トゥ・ザ・ネーム」という、今回のツアーの目的は見事に達成されたのだ。

 感無量という言葉は、まさにこのような瞬間のためにこそあるのだということを改めて知らされた思いがする。

 1842年に、ドン・ジャン・ミウラによって開かれたミウラ牧場は、1849年に最初の闘牛をマドリードでデビューさせると、それから闘牛史に残る勇敢なブルを次々に誕生させていく。

 半世紀ほど前にここを訪れたフェルッチオは、牧場との間で特別な契約を交わすこともなく、ミウラの名を使うことを決定したというが、それに否定的な意見を唱える者は、誰もいなかったという。なぜならランボルギーニ・ミウラもまた、ミウラ牧場の闘牛と同じように、最強のスーパースポーツにほかならなかったからだ。

●スペインのローラ・デル・リオにあるミウラ牧場とは?

 現在にまで続くミウラ牧場の歴史は、1842年にまでさかのぼることが可能だ。スペインの闘牛界に新たに誕生したスペインのローラ・デル・リオにあるミウラ牧場は、勇敢な闘牛を次々に生産し、徐々にその名声を高めていく。

 そのなかでも史上最強と評されるのは、これも後に偶然にもランボルギーニ車の名となる「ムルシエラゴ」で、1870年代に24回も闘牛士との戦いに勝利したという。

 現在のミウラ牧場からは、年間50−60頭の闘牛が出荷されるとのことだ。生育期間は約5年というから、牧場には常に300頭近い闘牛が飼育されている計算だ。ちなみにこの牧場の名に由来するミウラをデビューさせたフェルッチオは、その後も何回かカスタマーとともにこの地を訪れることがあったという。

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