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懐かしの美しい日本車を手掛けたイタリアンデザイナーとは?

くるまのニュース / 2020年9月21日 8時30分

いまでこそ、世界中のあらゆる地域で日本車の走る姿が見られるようになったが、自動車後進国としてスタートした日本は、技術面だけでなくデザイン面でもイタリアのコーチビルダーの力を借りていた時代があった。その当時の国産名車を紹介しよう。

■「スカイライン」をミケロッティが手掛けていた!

 ダットサン「210シリーズ」やトヨタ初代「クラウン」などとともに、わが国における自動車産業が本格的に始動した1950年代後半。ヨーロッパの自動車メーカーのノックダウン生産をおこないながら、欧米に比べれば未熟だった技術レベルを向上させるべく努力を重ねていた。

 そして、当時の日本がもっとも遅れていると自認していたデザインの分野について、世界のリーダー的な存在だったイタリアのカロッツェリア(ボディ専門工房&デザインスタジオ)から教えを乞うとする日本メーカーが続出。その成果として、後世の日本自動車デザインに大きな進歩をもたらすことになった。

 この時期にイタリアンデザインをまとった国産車は意外なほどに多いのだが、今回はそのなかでもエポックメイキングかつ美しい4台を選び出し、紹介しよう。

●プリンス「スカイライン・スポーツ」

2009年ヴィラ・デステに展示された「スカイライン・スポーツ」2009年ヴィラ・デステに展示された「スカイライン・スポーツ」

 日本の自動車メーカーとイタリアのカロッツェリアたちが紡いできた、約60年にも及ぶ長い歴史。その端緒となったのは、1961年のトリノ・ショーに出品されたプリンス「スカイライン・スポーツ」だった。

 第二次大戦終結以前の航空機製造会社「立川飛行機」と「中島飛行機」の流れをくむ「プリンス自動車」のリクエストに応じて、当時すでに世界中の自動車メーカーとともに輝かしい成果を挙げていたジョヴァンニ・ミケロッティの率いる「ストゥーディオ・ミケロッティ」が手がけた、美しく華麗なクーペ/コンバーチブルである。

 現代でもなお日産自動車のイメージリーダーであり続けている「スカイライン」は、もともとプリンス自動車の基幹モデル。その初代として1957年に誕生した「プリンス・スカイライン(ALSI)」系が、スカイライン・スポーツのベース。上級モデルにあたる初代「グロリア」用の1.9リッター直列4気筒OHVエンジンが搭載された。

 デザインにおける最大の特徴である「チャイニーズ・アイ」。4灯ヘッドライトの内側2灯を外側2灯よりも低めて斜めに配したレイアウトは、東洋風のエキゾティック感を演出しようとしたジョヴァンニ・ミケロッティのアイデアとされている。

 トリノ・ショーに出品されたクーペとコンバーチブルは、ミケロッティと関係の深かったカロッツェリア「アレマーノ」が、それぞれワンオフ製作したもの。その後、日本で製作された生産モデルも、アレマーノの研修を受けた熟練工が、一台一台を手づくりで製作した。

 プリンス自動車、および1966年にプリンスを傘下に加えた日産自動車が公表したデータによると、生産台数はクーペ35台/コンバーチブル25台の計60台のみとのことだが、実際にはもっと少ないのではないか、というのが定説となっているようだ。

 蛇足ながら、筆者はこのスカイライン・スポーツ・クーペの助手席で、2009年の「コンコルソ・デレガンツァ・ヴィラ・デステ」の晴れ舞台に臨んだ思い出もあることから、個人的にも特別中の特別な1台なのである。

●日野「コンテッサ」

日野「コンテッサ900スプリント」日野「コンテッサ900スプリント」

 プリンス自動車とのコラボが終結したのち、ミケロッティが次なるパートナーとして選んだ日本のメーカーは、現在ではトラック/バスの専業メーカーとなっている日野自動車である。

もともと仏・ルノーのライセンスを受けて、ルノーの名作「4CV」を「日野ルノー」として生産していた日野自動車は、初の自社開発モデルである小型セダン「コンテッサ900」をデビューさせるが、その発売直後からデザイン水準のさらなる向上を目指して、イタリア・トリノの「ストゥーディオ・ミケロッティ」の門を叩いた。

 両社の提携は1962年春に締結。その年の秋には、コンテッサ900をベースとする「コンテッサ900スプリント」として結実した。この小さなクーペは、イタリアのスポーツカーのように美しかっただけではなく、チューニングのスペシャリスト、エンリコ・ナルディがチューニングを施した高性能エンジンも搭載。小さいけれど、本格的なグラントゥリズモとなるべきモデルだった。

 ところがコンテッサ900スプリントは、ワールドプレミアとなった同年10月のトリノ・ショーをはじめ、翌1963年のジュネーヴ・ショーやニューヨーク・ショーなど海外のモーターショーで巡回展示されたのち、東京モーターショーでも賞賛を集めたにもかかわらず、残念ながら生産化に至ることなく、ワンオフに終わってしまう。

 ただ、同じ1962年の段階でミケロッティが提案していた「コンテッサ1300ベルリーナ(セダン)/クーペ」は、900スプリントほどにデザインコンシャスではなく、企画当初から生産性も意識されたものであった。

 また実質的には2シーターだった900スプリントとは違って、5人が乗ることのできる実用性も持たせてあったことから、1964年には量産化がスタート。この時代の日野自動車における唯一のカタログモデルとなるとともに、1960年代の日本車のなかでも特筆すべき美しいスタイリングを誇るモデルとなったのだ。

 そのデザインは世界的にも高く評価され、当時のイタリアやベルギーでおこなわれた「第5回/第6回国際自動車コンクール・デレガンス(1965/1966年)」や「第4回サン・ミッシェル自動車コンクール・デレガンス(1967年)」などの国際的コンクールでも「Gran Premio d’Onore(名誉大賞)」を獲得するまでに至る。

 ところが、1967年をもって日野自動車は乗用車の生産から手を引くことを決定。美しきコンテッサ1300の命運は、わずか3年あまりで尽きてしまったのである。

■イタルデザインの誕生の裏に、いすゞ「117クーペ」があった!?

 プリンスと日野に次いで、イタリアのコーチビルダーの門を叩いた日本メーカーは、東洋工業、つまり現在のマツダである。カーグラフィック誌の特派員として1960年からトリノに在住し、のちにジョルジェット・ジウジアーロ氏とともに「イタルデザイン」を興す宮川秀之氏を介して、イタリアのカロッツェリアにコンタクトを求めていた東洋工業は、トリノ近郊グルリアスコのベルトーネを訪ねた。

●マツダ・ルーチェ(初代)

マツダ「ルーチェ・ロータリークーペDX」マツダ「ルーチェ・ロータリークーペDX」

 この2社の提携は、1962年4月に合意。同年6月には当時チーフスタイリストに迎えられたばかりだったジョルジェット・ジウジアーロが、同年秋の東京モーターショーに出品されることになっていた試作車「マツダ1000」をベースにデザインし直したコンセプトスタディを日本側に提案した。

 翌1963年の東京モーターショーにて初公開されるこのコンセプトカーは、イタリア語で「光」を意味する「ルーチェ」と名づけられていたが、それは広大なグラスエリアがルーミーかつ明るい室内空間を生み出すとともに、クリーンなボディサイドを持つことをアピールしたものだったといわれている。

 1964年4月には、東洋工業は新たなセダンのために、ベルトーネとの契約を更改することになる。その要請に応じて、ジウジアーロは「S8P」と呼ばれる4ドアセダン型プロトティーポをデザイン。このS8Pはロータリーエンジンを搭載する、しかも前輪駆動という先鋭的な取り組みがなされていたが、その量産モデルである「ルーチェ1500」は、コンベンショナルなレシプロ4気筒ユニットを搭載するFR車として、1966年から正式発売されるに至った。

 それでも生産型ルーチェ1500、およびのちに追加された上級グレードの「1800」は、際立ってクリーンなプロポーションを持つとともに、薄いウエストラインと広大なグラスエリアの対比が清新な印象を与える、じつにスタイリッシュなセダンとなったのだ。

 ちなみにFF+ロータリーのパワートレインは、1969年に発売された「ルーチェ・ロータリークーペ」として正式採用。こちらは、ルーチェ・セダンをベースにマツダ社内でデザインワークがおこなわれたそうだが、ジウジアーロ本人もその美しさを認めたといわれている。

●いすゞ117クーペ

いすゞ「117クーペ」。ハンドメイド時代の生産モデルいすゞ「117クーペ」。ハンドメイド時代の生産モデル

 日野自動車と同じく、今では大型商用車専業となっている(海外向けには小型トラック/SUVも生産・販売を継続)いすゞ自動車は、かつて国産メーカーとしては格別に洒脱な乗用車の数々を生み出していた。

 そのイメージを決定づけたのが、1968年に発売された「117クーペ」である。ベルトーネを辞して、同じトリノのカロッツェリア「ギア」に移籍した時代のジョルジェット・ジウジアーロが手がけた名作である。

 いすゞはギア社に、同じコンポーネンツを共有するセダンとクーペのデザインワークを依頼。のちに「フローリアン」となる「117」セダンはフィリッポ・サビーネ、そして117クーペとなる「117スポルト」はジウジアーロが担当した。

 117スポルトは、1966年3月のジュネーヴ・モーターショーにて初公開され「コンクール・デレガンス賞」を獲得。さらにイタリアで開催された「国際自動車デザイン・ビエンナーレ」にも出品され、「Gran Premio d’Onore(名誉大賞)」を受賞したという。

 ところが、ジウジアーロは1967年にギア社を買収したアレッサンドロ・デ・トマゾとの対立から、退職・独立の道を選んだのだが、いすゞはその後もジウジアーロにデザインワークを継続してもらうことを要請。そこで、ベルトーネ時代に知り合った友人、宮川秀之とともに新たに「イタルスタイル」社を設立し、その業務の窓口とすることになった。

 このイタルスタイル社が、翌年には「イタルデザイン」へと発展。いすゞ117クーペは、巨匠ジウジアーロの人生にとっても重要なマイルストーンとなったのだ。

 当初、ハンドメイドで少量生産されていた117クーペは、1973年には量産を見越したマイナーチェンジを受ける。また、1977年には当時流行していた角型4灯ヘッドライトを与えられるが、これらのフェイスリフトもすべてイタルデザインとジウジアーロの監修を受けていたという。

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