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「戦争は惨めや。勝っても負けても得はない」98歳男性、シベリア抑留体験を初めて語る

京都新聞 / 2021年8月16日 10時30分

旧満州への出征を前に撮影した写真を示す川﨑さん(滋賀県近江八幡市)

 太平洋戦争で旧満州(現中国東北部)へ出征し、終戦後シベリアに抑留された滋賀県近江八幡市の男性が白寿を前に、自身の体験を後世に語り残そうと初めて明かした。「兵隊は命令に従うしか仕方なかった。ほんまに惨めな思いをした」。戦争を知らない世代に不戦への思いを訴える。

 同市中村町の川﨑貞夫さん(98)は農家の長男に生まれ、21歳で陸軍に入隊した。1944年1月に中国大陸へ渡り、旧満州の富錦市に駐屯する関東軍に配属。馬の世話や乗馬訓練を行う御者係となり、トーチカや塹壕(ざんごう)作りにも汗を流した。

 45年8月9日。ソ連が日ソ不可侵条約を破り、満州に侵攻した。高台にいた川﨑さんは、ソ連の爆撃機が川沿いの船を奇襲するのを見た。船員は被弾し死んでいた。「兵隊になった時に覚悟したから、不思議と怖くはなかった。怖がっていては生きていけない世界でした」

 配属時700人いた部隊は、転戦や戦死者で100人にまで減っていた。「戦況は知らされず、日本が負けるとは思ってもいなかった」。ソ連侵攻後、仲間とともに南下を命じられたが、行く当てもない。終戦を知らぬまま満州を転々とし、10月、ソ連の警備兵に捕まった。「東京ダモイ(帰国)」と言われて連行された先は、シベリア中部・クラスノヤルスクの収容所だった。

 土木作業を毎日8時間こなしても、食事は汁ばかりのコーリャンの雑炊。極度の飢え、マイナス40度の寒さ、体をはうナンキンムシ…。「私の部屋は幸い死者はなかったが、どんなに多くの人が命を失ったか」。今も考えると苦しくなる。

 収容所にいた同郷の人が、川﨑さんに声を掛けてきたことがあった。「あんな遠い国で滋賀と聞いて、随分懐かしい気持ちがした」

 1年半後の47年5月、ナホトカから引き揚げ船に乗り込んだ。京都府の舞鶴港に近づき、甲板から緑の山を臨んだ時の安堵(あんど)感は忘れられない。ただ、戦中の過酷な生活が影響し、帰国後しばらくは身体の痛みや脱毛、下痢や嘔吐(おうと)が続いたという。

 現在は長男家族と同居し、毎日の晩酌を楽しみにする。運転免許証は今春返納したが、身の回りのことは何でもこなす。自身の経験は「思い出さない方がいい」とこれまで話さなかったが、「シベリアまで行ってもうだめかと思ったが、ここまで長生きできた。運が良かった」と語り継ごうと決めた。

 戦後76年。戦争を知る世代は減り、日本は見違えるほど豊かになった。「強制の身体検査を受けて合格したら、言われた所、降ろされた所へ行くしかない。誰も嫌とは言えない世の中だった。戦争は惨めや。勝っても負けても何も得はない」

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