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実在した『ベルばら』キャラのモデル3人の末路。現実はマンガより悲劇だった……

マグミクス / 2021年2月9日 18時10分

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■民衆に恨まれ、撲殺された紳士

 革命前後のフランスを舞台に描かれた名作マンガ『ベルサイユのばら』には、実在の人物と架空の人物が混在しています。男装の麗人、オスカルと彼女を支え続けたアンドレの悲劇的な最期に涙した方も多いでしょうが、実はマンガよりも悲劇的だったのが、実在する人物たちの最期でした。

 断頭台の露と消えた王妃、マリー・アントワネットの激動の生涯についてはよく知られていますが、彼女が愛したスウェーデン貴族、ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンが迎えた悲惨な最期については、ほとんど知られていません。

 今回は、『ベルサイユのばら』に描かれている実在の人物のなかから、3人の悲劇的な末路をご紹介します。

●ハンス・アクセル・フォン・フェルセン:アントワネットを愛した末に…

『ベルサイユのばら』では、「フェルゼン」という表記になっていますが、言語によるFersenの発音の違いによるもので、一般的には「フェルセン」と表記されているため、記事中では「フェルセン」とします。

 ハンス・アクセル・フォン・フェルセンは、スウェーデンの名門貴族に生まれた、イケメンのエリートです。フランス留学中には、紳士的で男らしい彼に恋する女性も多くいたようで、マリー・アントワネットもパリ、オペラ座で開かれた仮面舞踏会で出会った彼に好意を持ち、その後、親密な関係になっていったと言われています。

 マンガでのフェルセンは、アンドレがマリー・アントワネットに偶発的な事故でケガをさせた際、オスカルとともにアンドレをかばい、「正義のために死ねるぞ」と国王にたてつく男気を見せました。

 史実においても、フランス革命が起こって国王一家が窮地に立たされてからもフェルセンは、愛する人とその家族を救うために男気を発揮します。彼はスウェーデン国王、グスタフ3世やオーストリア駐在大使に協力を求めるなど奔走しましたが、計画はことごとく失敗。1793年10月、マリー・アントワネットは革命政府によって処刑されてしまったのです。

 愛する人を失ったフェルセンは絶望し、冷酷で愛想のない暗い人間になってしまったと言われています。そして、愛する人を死に追いやった民衆への憎悪の気持ちをつのらせるようになり、民衆に対して弾圧的なふるまいが多くなったせいで、民衆からも恨まれるようになっていきました。

 1799年には元帥にまで昇進。スウェーデン国政にも携わるほど、権力を持つようになりましたが、1810年に急死した王太子の葬儀執行役として、葬儀会場であったストックホルム市内の広場に彼が馬車で現れると、群集が石を投げ始め、暴動が起こったのです。

 同行していた副官が近衛連隊に群衆の制圧を命じましたが、近衛連隊は命令を拒絶し、副官はフェルセンを連れて建物に隠れるしかありませんでしたすると暴徒と化した群衆はその建物に侵入し、フェルセンを見つけると、こん棒で彼を殴打し、踏みつけ、命を奪ったのです。

 マンガ『ベルサイユのばら』の最後のページには、民衆に撲殺され、血を流して冷たい石畳に倒れているフェルゼンの姿が描かれていますが、実際には、フェルセンの遺体は裸のまま排水溝の中に投げ捨てられるという、マンガよりもっと悲惨な最期でした。マリー・アントワネットとフェルセン、深く愛し合ったふたりの最期がそろって、民衆からの憎悪によるものだというのは悲しすぎますね……。

■革命に翻弄され、ギロチン台へ。ベルナールのモデル人物

竹中幸史著『図説 フランス革命史』(河出書房新社)。フランス革命の熱狂と希望、絶望について、最新の研究成果をふまえて解説する

●ベルナール・シャトレ:困難を乗り越えて結ばれた妻も断頭台に…

 マンガ『ベルサイユのばら』でのベルナールは、オスカルが貴族である自分の生き方やフランスという国のあり方に疑問を持つようになるきっかけを作った人物です。正義感あふれるジャーナリストであると同時に、貴族から盗みを働く義賊「黒い騎士」という裏の顔も持っていました。

 ベルナールのモデルは、革命派のジャーナリストで編集者で、のちにダントン派の政治家となったルシー・シンプリス・カミーユ・ブノワ・デムーランです。デムーランは1789年7月、パレ・ロワイヤルのカフェで、「諸君、武器を取れ!」と演説し、パリ市民の決起を促したことで有名になりました。

 その後、自ら発行した新聞に先鋭的な政治・社会論評を書いて人気を得ると、ロベスピエールらによる恐怖政治を批判し、革命を収束させることを主張しました。しかし、その言動が反革命的であるとみなされて逮捕され、裁判にかけられることになったのです。

 1794年4月5日、デムーランはギロチンで処刑されました。彼ら革命派の市民がマリー・アントワネットをギロチン台に送った日から、わずか半年しか経っていませんでした。

 さらにその8日後には、デムーランの妻・リュシルも、彼を助けるために刑務所での暴動を計画したという容疑で逮捕、処刑されてしまったのです。死を前にして24歳のリュシルは、「もうじき夫のカミーユに会えるのだから、私は幸せです」と、嬉々として断頭台に登っていったと言われています。

 デムーランとリュシルは、リュシルはまだ13歳のころ、偶然、公園で出会って恋に落ちました。官僚をつとめていたリュシルの父親は10歳の年齢差やデムーランの貧しさを理由に、ふたりの交際に反対しましたが、7年かけてついに結婚を認めさせた彼らに、こんな非しい最期が訪れるとは夢にも思わなかったでしょう。彼らもまた、革命の犠牲者でした。

●ロザリー・ラモリエール:革命に翻弄された人びとを、優しく見送った

 マンガ『ベルサイユのばら』では、前述のベルナールが結婚したのは、オスカルが妹のようにかわいがった少女、ロザリーでした。ロザリーは、マリー・アントワネットが最後の時を過ごしたコンシェルジュリー牢獄で世話係をし、マリー・アントワネットにひとときの安らぎを与える存在となり、断頭台に向かう直前の彼女から白いリボンを形見として受け取りました。

 ロザリーのモデルになったのは、実際にコンシェルジュリー牢獄でマリー・アントワネットの世話係をした女性です。平民の靴職人の娘で、本名はマリー・ロザリー・ドラモルリエールといいましたが、フランス革命の時には、教会や聖職者が弾圧されたため、聖母マリアにつながる「マリー」を省き、さらに「ドラモルリエール」の「ド」が、貴族の姓の前に付く「ド」と同じ響きであることから、身分について誤解を受けないようにと「ラモリエール」と名乗っていたようです。

 22歳でパリにやってきたロザリーは、25歳の時に王妃の収容されるコンシェルジュリーで初めてマリー・アントワネットに会いました。ロザリーは、大変細やかな心配りができる女性だったようで、マリー・アントワネットとの間にも信頼関係が芽生えていました。マリー・アントワネットが処刑される日、史実ではロザリーが彼女の髪を切り、その時に白いリボンを渡されたと言われています。

 マンガでは、ロザリーが夫・ベルナールを通して委員会に頼み、マリー・アントワネットのためだけの世話係をしていたように描かれていますが、実際のロザリーは、マリー・アントワネットの処刑後も計6年間、コンシェルジュリーで働き、革命家ロベスピエールやルイ15世の愛人であったデュ・バリー夫人などの収容者の世話係もしました。その後、未婚で娘を出産し、晩年は健康状態が悪くなり、20年以上施設で暮らしましたが80歳まで生きたという記録があります。

 栄華を独占していたのに、革命ですべてを失った王妃や貴族。革命によって新しい時代を切り開こうとして、方向を見失い、すべてを失った革命家……その悲しい最後の日々にひと時の安らぎを与えたのは、平民のロザリーの優しさでした。革命のなかで命を落とした人びとの最期に寄り添い続けた人生でした。

* * *

 フランス革命は、絶対王政を倒し、封建的特権の廃止や人権宣言、憲法制定などを実現し、共和政を実現しましたが、革命の過程には紆余曲折が数多くあり、その歴史のうねりのなかで、志半ばで逝った革命家たちや、冤罪でギロチンに送られた罪なき人びとも多くいました。

 大きな時代のうねりが多くの悲劇を生み、人々を翻弄するのは、今も昔も変わらない……『ベルサイユのばら』とフランス革命の史実は、そのことを私たちに教えてくれます。

(山田晃子)

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