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宮崎駿監督幻の米デビュー作『リトル・ニモ』 企画途中で離脱も、数々の出会いと「名作」が生まれ…

マグミクス / 2021年12月2日 18時10分

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■国産アニメのアメリカ進出を目指した企画

 2021年9月に開館したアカデミー映画博物館(米ロサンゼルス)で、その開館記念企画として宮崎駿氏の回顧展「Hayao Miyazaki」が開催されています。同展はイメージボードや絵コンテ、レイアウトほか300を超える資料を展示する本格的なもので、付随して劇場デビュー作『ルパン三世 カリオストロの城』から『風立ちぬ』まで11作の長編監督作品と、ドキュメンタリー作品『夢と狂気の王国』などが上映されています。

 1999年の『もののけ姫』公開で本格的なアメリカ進出を果たし、次作『千と千尋の神隠し』で第75回アカデミー賞長編アニメーション賞を受賞した宮崎駿監督はアメリカでも高く評価されていますが、そこに至るまでの道のリは決して平坦なものではありませんでした。1985年にアメリカで『風の谷のナウシカ』が『Warriors of the Wind』(風の戦士たち)のタイトルで公開された際には、無断でキャラクターの名を変えられたうえ、本編も20分近く短縮されており、後で知った宮崎駿監督は激怒したそうです。

 実は、そこから遡り1982年に宮崎駿氏はアメリカでの監督デビューの機会をつかんでいました。後に1989年に公開されることになる日米合作の劇場アニメ『NEMO/リトル・ニモ』に、故・高畑勲氏とともに日本側の演出として参加していたのです。両氏は早い段階で離脱しますが、同作の企画は後の宮崎駿監督作品、そして日米のアニメーション界全体に決して無視できない影響を与えています。

 映画『NEMO/リトル・ニモ』は、東京ムービー社長(当時)の藤岡豊氏がプロデューサーを務めて先導した企画です。原作は、ウィンザー・マッケイの1ページ完結の新聞連載漫画『リトル・ニモ』で、少年ニモが夢のなかでさまざまな世界を旅して回り、最後は毎回ベッドで目覚める……という内容で、ウォルト・ディズニー・スタジオでも映画化の企画が二度上がったといわれる人気作です。

 かねてより日本製アニメのアメリカ進出を考えていた藤岡豊社長は、1977年に『リトル・ニモ』の映像化権取得に乗り出し、同作を制作するためのスタジオ、テレコム・アニメーションフィルム(以下、テレコム)を設立します。しかし制作費調達やスタッフ編成が難航し、実作業になかなか入れなかったため、テレコムは新人アニメーターの指導を受け持った大塚康生氏のもと、TVシリーズ『ルパン三世』(2期)や、日本アニメーションから移籍してきた宮崎駿氏の監督作品『ルパン三世 カリオストロの城』、高畑勲氏の監督作品『じゃりん子チエ』を手掛けることになりました。

 そして藤岡氏は、自社テレコムの実力をアピールするため、アメリカで『ルパン三世 カリオストロの城』と『じゃりん子チエ』の関係者向け上映会を度々開催します。

■米側プロデューサーの独断専行で暗雲が…

丁寧な生活描写でディズニー関係者をもうならせた高畑勲監督の『じゃりン子チエ 劇場版』DVD(ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社)

 原作者ウィンザー・マッケイの遺族や関係者と映像化の交渉にあたる際も、藤岡豊氏は『ルパン三世 カリオストロの城』を上映したそうです。当時、アメリカの関係者の間で日本のアニメの評価は低く、日本に長編劇場アニメがあることさえ疑われるほどだったそうです。しかし『カリオストロの城』や『じゃりん子チエ』の2コマ打ちと3コマ打ちを使い分けたメリハリある動きや、日常的な仕草における丁寧な芝居、含蓄に富んだ人間描写が若手のアニメーターを中心に話題となっていきます。

 1966年にウォルト・ディズニーが死去してから十数年、アメリカのアニメ業界も世代交代が進み、新しい表現が注目されていた時期だったのです。イタリアからテレコムにTVシリーズ『名探偵ホームズ』の制作依頼が来るなど、思わぬ反響も呼びました。

 そして1981年の春頃、アメリカ本国に法人会社キネト・TMSを設立し、映画『NEMO/リトル・ニモ』は制作へ向けて本格的に動き出します。アメリカ側のスタッフとしてディズニーの伝説的存在のアニメーター、フランク・トーマスとオーリー・ジョンストンを顧問に、「スター・ウォーズ」シリーズで知られるゲイリー・カーツをプロデューサーとして迎えました。そしてゲイリー・カーツの推薦で、SF作家のレイ・ブラッドベリーがシナリオを担当。当時としては、驚くほど豪華な布陣でした。

 ここで映画の内容についてはゲイリー・カーツ氏、予算など制作上での管理は藤岡豊氏と、ふたりのプロデューサーの役割が振り分けられました。

 翌1982年の初夏、レイ・ブラッドベリー氏によるシナリオの第一稿が日本側のスタッフに届けられました。ふたりの人格に分裂したニモが夢の世界の深部に入り込み、もうひとりの人格を倒して、現実世界に帰還するという、幻想的な夢の世界への冒険譚であった原作に心理学的な解釈を加えたもので、読んだ日本側のスタッフはエンターテインメントとして成立するのかどうか、首を傾げたそうです。

 この時点で、日本側の演出候補に宮崎駿と高畑勲の両名があがっていましたが、実は宮崎駿は、夢の世界が舞台と公言した作品では観客が没入できないと、かなり早い段階で『NEMO/リトル・ニモ』の企画には否定的でした。そしてこの第一稿を読んだ宮崎駿は、ゲイリー・カーツに自身が考える娯楽映画の要素をまとめたレポートを後に提出し、却下されました。

 当時アメリカではプロデューサー主導で映画制作が進むことが多かったのですが、この頃ゲイリー・カーツ氏は別の作品の制作も同時進行しており、日米の現場にあまり現れなかったそうです。たまに現場を訪れては、シナリオをもとにアニメーターが描いた膨大なイメージボードや設定を取捨選択していきますが、その判断基準が明かされないので、現場は疲弊していきました。特に、監督主導の現場でイメージを共有しながら作り上げていくスタイルだった日本側と徐々に軋轢(あつれき)が生じていきます。

■宮崎駿監督の数々の提案は、のちのヒット作に結実

1984年に日本で公開された、宮崎駿監督作品『風の谷のナウシカ』 (C)1984 Studio Ghibli・H

 同1982年夏、先述のフランク・トーマスとオーリー・ジョンストンの提案で宮崎駿、高畑勲、大塚康生、近藤喜文、友永和秀ら計12人の日本側スタッフが、アメリカ式のキャラクターアニメーションの講習を受けるために渡米します。

 黄金時代のディズニーアニメを支えたフランク・トーマスとオーリー・ジョンストン自身が講師を務めたその講習は、日本側スタッフに多大な刺激を与えたといいます。キャラクターアニメーションとは、アメリカのアニメによく見られるようなデフォルメを効かせたキャラや動きの表現ですが、むしろクオリティアップのための作画への妥協なきこだわりや、最善の動きと芝居を執拗に探求する姿勢が、スケジュール重視で妥協を強いられることの多かった日本側のスタッフは新鮮に感じたそうです。

 ちょうどこの頃、『NEMO/リトル・ニモ』の噂を聞きつけた数多くの若手アニメーターが、キネト・TMSに売り込みに来ていました。後にピクサーで活躍するアニメーション監督ジョン・ラセター氏は、ここで初めて宮崎駿氏と顔を合わせたそうです。また『アイアン・ジャイアント』などの監督作品で知られるブラッド・バード氏は、自作のフィルムを持ち込み「これからは僕たちの時代だ!」とアピールして、非公式ですがイメージボードを数点描いたと伝えられています。

 宮崎駿氏と高畑勲氏のもとで映画『NEMO/リトル・ニモ』の制作に参加した片渕須直氏はインタビューで、現在アメリカでジョン・ラセター氏やブラッド・バード氏ら作家性の強いアニメーション監督が活躍しているのは、宮崎駿氏や高畑勲氏が作家性を前面に出した『ルパン三世 カリオストロの城』や『じゃりん子チエ』に触れた影響があるのではないか……と語っています。

 ゲイリー・カーツへのシナリオに関する提案は却下されたものの、宮崎駿は日本側のプロデューサーである藤岡豊氏に次々と別の企画を提案します。

「戦国時代に獣に変えられた若者と姫の物語」、アメリカのマンガ『ROWLF』を原作とした「王女と彼女に従う狼の悪魔退治の物語」、その『ROWLF』のイメージから派生した「風使いのヤラ」や 「土鬼の王女」。

 しかし残念ながらこれらの企画やイメージが採用されることはありませんでした。そして宮崎駿氏は、1982年1月より「月刊アニメージュ」の編集者であった鈴木敏夫氏とともにマンガ『風の谷のナウシカ』の連載を始め、同年11月にテレコムを退社することになります。

 宮崎駿氏の離脱後、映画『NEMO/リトル・ニモ』の制作はさらに迷走を重ねます。日本側の演出担当は目まぐるしく入れ替わり、独断専行を続けていたゲイリー・カーツが降板させられた後は、藤岡豊氏がエグゼクティヴ・プロデューサーに就任し、同作の責任を一身に背負うようになりました。

 延べおよそ55億円と言われる予算を投入した『NEMO/リトル・ニモ』は1988年に完成し、1989年に日本で、1992年にはアメリカ本国でも公開されましたが、制作費の回収には至らず、藤岡豊氏はその責任をとって東京ムービー社を退社します。

 こうして宮崎駿氏のアメリカデビュー作となる予定だった映画は、興業的にも評価的にも芳しい成績をあげることなく終わりました。しかし、前述の宮崎駿氏が提案した企画の「風使いのヤラ」と 「土鬼の王女」は『風の谷のナウシカ』のイメージソースとなり、「戦国時代に獣に変えられた若者と姫の物語」は後に絵本の『もののけ姫』となり、引いてはウォルト・ディズニー・スタジオと提携し、アメリカでの本格的なデビュー作となった映画『もののけ姫』へとつながります。重ねていえば宮崎駿氏が映画『千と千尋の神隠し』がアカデミー賞長編アニメーション賞で受賞する際、ジョン・ラセター氏は数々の助言を与えたと伝えられています。

 映画『NEMO/ニモ』での、宮崎駿監督のアメリカデビューは幻に終わりましたが、同作は藤岡豊氏が夢見ていた日本アニメの本格的なアメリカ進出への礎となり、同時に日米アニメ交流の先駆けとなったのです。

【参考・引用文献】
・『作画汗まみれ 改訂最新版』大塚康生(文春文庫)
・『リトル・ニモの野望』大塚康生(徳間書店)
・β運動の岸辺で[片渕須直](「WEBアニメスタイル」)
・ディズニーと日本のアニメーション──『アニメーションの女王たち』片渕須直インタビュー(「かみのたね」)

(倉田雅弘)

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